朝、目が覚めた時、すべてが夢だったらいいのにと、俺はそろそろと目を開 けた。見慣れた天井に、見なれたカーテン。けれど、俺は深い溜め息をつく。
 窓の位置が違うのだ。『俺』の部屋だと、ベッドから右手に窓が見えるはず なのに、この部屋からは足元に窓がある。
「よし、頑張ろう」
 昨日、覚悟を決めたはずだった。どうしても戻るんだと。
 悪魔的な囁きが聞こえなかったわけではない。このまま、ここにいれば、ア キちゃんと恋人同士でいられる、と。すぐに慣れて、アキちゃんにも不審を抱 かせない自信はある。
 けれど、やっぱり、どうしても、『俺の』アキちゃんが今頃どうしているの だろうと思うと、居ても立ってもいられないのだ。
 俺は着替えを済ませて、階段を降りていった。
「あら、おはよう。早いのね」
 母さんが呑気な声をかけてくる。
「はよう。マサちゃんたちは?」
「まだ寝てるわよ」
 笑顔でそう言いながら、朝食を用意してくれた。
「ヒロちゃんのマンションってさ、○○町の、だったよね?」
 ヒロちゃんがアキちゃんと暮らし始める前のマンション名を言ってみる。
「そうよ。どうしたの?」
「うん……、ちょっと、行って来ようと思って……」
「ええっ! まだ熱があるんじゃないの、勝也」
 母さんは俺の額に手を当てる。
「ないよ、熱なんて」
「だって、鬼のように避けていたくせに」
 そんなに仲が悪かったのかと、ちょっと笑ってしまう。
「どうしてもさ、聞きたい事があって」
「秋良さんのこと?」
「ううん、違う……」
「そう……」
 母さんは複雑そうな顔で、それでも兄さんのところへ行くのならと、いろい ろな物を持たされた。

 ドアを開けて顔を出したヒロちゃんに、俺は思わず1歩、足を引いてしまっ た。
「何か用か?」
「ちょっとさ、聞きたい事があって」
 無言のまま開かれるドアに、俺は妙に緊張して、部屋の中へと入った。
 ごくごくシンプルにまとめられたインテリアは、けれど俺の知ってる限りの 兄の部屋とは、まるで違っていた。いや、本当は良く知っていた。
 つまり……、アキちゃんと出会う前の、ヒロちゃんなのだ。
 冷たい目が、俺を見る。決して感情を表わさない、ガラスのような視線。な まじ容姿が整っている為に、それはかなりの迫力でもって、他人を威圧する。
 本人もそれを自覚していて、利用もしている。
 他人の能力は認めるが、他人は認めない。機械の心を持った、兄がそこに居 た。
 そして俺は……。この部屋に一歩を踏み入れたときに、すべてを諦めていた。 まだ、もしかしたら、みんなで俺のことを騙そうとしているのではと、淡い期 待を抱いていたのだ。
 けれど、この部屋がこうしてある限り、それはありえないのだ。そして……。
 兄の表情がすべてだった。こんな冷たい無表情は、『あの』兄にはできない事 なのだ。
「あのさ、信じてもらえないと思うんだけどさ……」
 俺は唇を舐めてから、昨日の出来事からを順を追って話し始めた。


「どう……、思う?」
 ここに来るまでのことも話して、俺は兄を見た。途中、1度も口を挟まず、 目を閉じて微動だにしなかった兄は、俺が話し終えて意見を求めると、ゆっく りとまぶたを上げた。
「それで、僕のところへ来た訳は?」
「信じて……、くれるの?」
 この人にしか話せないと思いつつ、それでも俺は実は期待していなかった。 どうせ信じてもらえないと諦めていたのだ。
「まだすべてを信じられたわけじゃないが、目の前にいるお前が……、僕の弟 だとは、ちょっと信じにくいのは確かだ」
「そう?」
「けれど、一つだけ確かめるが……」
「何?」
 きらりと光る視線が真っ直ぐに俺を射す。
「秋良君と、別れたいから、そんな話をでっち上げた、つまり、演技している んじゃないだろうな」
「ち、違うよ!」
 俺は慌てて両手を目の前で振った。
「だったらいいが……。お前は、どうしたいんだ?」
「……帰りたいんだ。元の俺の世界に」
「僕に聞きたいって言うのは、その方法の事か?」
 俺は口を結んで頷いた。
「どうして、戻りたいんだ?」
「え?」
「だってそうだろう、お前は、向こうの世界でも、秋良君のことが好きなんだ ろう?」
「うん」
「けれど、向こうの世界では、秋良君は、どうやら、僕の恋人らしい」
 ヒロちゃんはちょっとそこで嫌そうな顔をした。俺は神妙に頷く。
「だったら、ここにいれば、お前は秋良君と恋人同士なんだぞ」
「だって、本物の俺じゃないんだよ? 弟が入れ替わっちゃったんだよ?」
 別にかまわないが、と冷たい事を言って、兄は立ちあがる。
「本質は同じだろう。お前はお前なわけだし。別人が三池勝也になってしまっ たのならともかくな」
 一度隣の部屋に入った兄は、手に一冊の本を持っていた。
「ずっと、このままでもいいんじゃないのか?」
 俺はヒロちゃんの言葉に首を振った。
「俺、向こうでどんな事になっているのか、考えただけで、早く代わってやら なくちゃって思う。アキちゃんが、『俺』とヒロちゃんの板ばさみでまたすご く悩んでいるだろうし、心配なんだ」
 ヒロちゃんは溜め息をついて、持ってきた本を差し出した。
「つまり、お前の住んでいる世界の僕は、僕と正反対の方法でお前の恋愛を邪 魔したわけ……だな」
『世界摩訶不思議辞典』
 奇妙なタイトルのその本を俺は手にとってパラパラとめくってみた。
「パラレル・ワールド」の事も書かれている。異空間に入れ変わった人物の事 も、な。結果から言えば……、元に戻れる方法は……」
 俺は期待に満ちた目で兄を見つめた。
「ないんだ」
 はじめて表情らしきものを浮かべて、兄はそう言った。少し気の毒そうに ……、俺を見た。





「結果から言えば、元に戻れる方法はないんだ」
 兄のその言葉に、俺はただ茫然とする事しか出来なかった。
 戻れない……。
 ずっとこのまま?
「どうにかしてよ……。どうにかしてヒロちゃん……」
 俺はパニックに陥りそうな頭で、必死で兄に縋りついた。
 もっと簡単に考えていた、あんなに簡単に入れ替わってしまったんだ。元に 戻れる方法だって、簡単はずじゃないのか?
「僕だってそんな事を聞いたのは初めてだ。どうしていいのか、わからない。 ただ……」
「ただ、……何?」
「僕にとっては、お前は何も変わらずに、弟としてここにいる。もしかすると、 この世界には他にも入れ替わっている人がいっぱいいて、気づかずに生活して いる人がいるかもしれない。お前もそれでいいんじゃないのか?」
「だめだよ!」
 だめなんだ、それじゃあ……。
「参考になるかならないかわからないが……」
「何!」
 わらにも縋りたい気分で、僕は勢いよく聞いた。
「同じ状況が起これば、もしかすると、と思ったんだ。だが、向こうでもそれ を実行していなければだめだと思うが……」
 つまり、俺が来てしまったこの世界で、ここの俺がした事を俺が同じように して、向こうの世界で、俺がした事をここの俺が同時に同じようにしなければ ならないって事?
 …………だめだよ。
 そんなに上手いタイミングで向こうがそんなことしてくれるわけがない。だ って、『せーの』って声はかけられないわけだし……。
 どうすれば良いんだろう。
 結局、いろいろ考えてみたけれど、何もいい案は思い浮かばず、俺はヒロち ゃんの車に乗せてもらって、家まで帰ることにした。
 銀色のアウディは、乗り心地がとてもいい。
「この車で……」
 俺が言うと、ヒロちゃんは黙って先を促す。
「この車で迎えに来てもらった。その時、ヒロちゃんはアキちゃんと出会った んだ」
「それは向こうの世界での話か?」
「うん」
「アキちゃんというのは、安藤君の事か?」
「……うん」
 冷たい呼び方に胸が痛む。
「つまり……、今のお前では安藤君と付き合えないんだろ?」
「……わからない」
「別れたらどうだ? お前はまだ若いんだし……」
 ヒロちゃんは、そう言っていろいろな、もっともらしい理由を並べ立てる。
 意外にも常識人だったのかと、ちょっとおかしくなってしまう。
「僕のいう事がおかしいか?」
 微かにもらしてしまった笑いを聞き咎められてしまったらしい。ヒロちゃん はちょっとムッとしているみたいだった。
「おかしくないけど……。今はちょっと考えられない」
 俺がそう言うと、ヒロちゃんも黙り込んでしまった。
 沈黙を積んだ車は、すぐに家に着いてしまう。元々。そんなに離れているわ けではないのだ。
「ア、アキちゃん……」
 車がスピードを落として、家の側壁に停まると、門のところに所在なげに佇 んでいるアキちゃんの姿が見えた。
「アキちゃん。来てたの?」
「あの人の所へ行ってたのか?」
 アキちゃんは怖い顔をして、俺の肩を掴んだ。
「う、うん……」
「どうして……」
「こんな所で話をするのはやめていただけませんか? 外聞が悪いです。どう ぞ、中へ」
 ヒロちゃんの冷たい声に、俺の肩を掴んだアキちゃんの手がびくりと震える。
「すぐに失礼しますから」
 声も震えていた。
「勝也の将来を考えてくださいと言っているのです。さあ、早く。近所の人に 見られたらどうしてくれるんですか? あなたが職場をなくすのは勝手ですが、 勝也は地元の中学に通っているんですよ」
「ヒロちゃん……」
 俺はあまりに冷たいヒロちゃんの態度に驚きを隠せず、まじまじと見つめて しまった。とても信じられなくて。
 そして、アキちゃんをかばう様に、アキちゃんとヒロちゃんの間に移動した。 アキちゃんを背中に隠す様に。
「もういいよ、勝也」
 アキちゃんは、涙にぬれた声でそう言った。
「もういい、勝也。前に言っただろ? 別れたいならそう言えばいいだけなん だ。こんな……、こんな事しなくても。こんな手、使うなよ……」
「アキちゃん!」
 アキちゃんはそう言って、駆け出した。
「追いかけてどうするつもりだ」
 恋人にはなれないんだろ? ヒロちゃんが俺を見ていた。
 遠ざかる背中と、ヒロちゃんの冷たい目。
 俺がどちらを選択するかなんて、決まっている……。





 信号二つ分走ったところで、俺はアキちゃんを捕まえた。
「アキちゃん!」
「そんな風に呼ぶな!」
 肩をつかんで振り向かせることも出来なかった。
 アキちゃんは叫んで、また走り出そうとする。
「待ってよ、話すから、全部、話すから!」
 なんとか腕をつかんで振り向かせた。
「アキちゃん……」
「ちゃんと……、呼べよ……」
 真っ赤な瞳。蒼白な顔。俺はもうそれだけで心臓が痛くなってしまう。
「秋良」
 名前を呼ぶことは、きっとアキちゃんの中でとても大切なことなのだろうと 思う。今は、それくらいしか俺には出来ないけれど、どんなことをしても、ア キちゃんを泣かせたくはなかった。
「部屋へ行こう。ちゃんと、俺に起こった出来事、全部話すから」
 アキちゃんの手を取る。
「勝也に起こった出来事……?」
「うん……」
 アキちゃんはそっとため息を一つ零し、俺が手を引くままについてきた。
 道を……、覚えているだろうか心配になったが、曲がり角で止まると、アキ ちゃんは俺をそっと見て、そして……、二人並んで歩いた。


「それを……、信じろって言うのか……?」
 俺の長い説明を聞き終わって、アキちゃんは搾り出す様にそう言った。
「信じてもらうしか……、ない……」
 アキちゃんはベッドに腰掛け(俺があの日、目覚めたベッドだ)、俺は床の上 に座って、俺がいた世界のことを話した。
 そして多分……、ここの世界にいた俺と入れ替わってしまったこと。
 そっと見上げると、アキちゃんは悲しい顔で、けれど俺を見てはいなかった。
「秋良……」
「向こうでは、僕のこと、アキちゃんって呼んでたんだ?」
 もう「秋良」というマジックは効かない様だった。
「うん……」
「僕と洋也さんが恋人同志……?」
 アキちゃんはそう言うと、笑い始めた。
 笑いながら、一つ、涙を零した。
「ねえ、アキちゃん……」
 俺は慌ててアキちゃんに手を伸ばした。膝立ちになり、そっとその頬を挟ん だ。手の甲を涙が伝って行く。
「本当は、別れたいだけなんだろ? 僕が……、負担になったんだろ?」
「違うよ。アキちゃん。俺は、ここにいた俺は多分、向こうの世界でも必死に 戻ろうとしていると思う」
「いいよ、もう……」
「信じて。俺は、俺だって、アキちゃんのこと、本当に好きなんだ。何とかす るから」
「だけど、君は僕の恋人じゃないんだ」
 アキちゃんの言葉にずきんと胸が痛む。もの問いたげな瞳に見つめられ、俺 は俯く。
「…………うん」
「…………」
「何?」
 アキちゃんが小さな声で何かを言って、俺はそれを聞き取れなかった。
 聞き直そうと顔を上げた途端、唇に柔らかいものが触れた。
 それが何かを確かめるより先に、アキちゃんが覆い被さってきた。
「アキちゃん!」
 咄嗟に支えきれず、俺たちは床の上に転がってしまう。
「…………」
「何?」
 耳元で熱い息が触れる。俺はドキドキする自分の鼓動を耳元で聞いているよ うな熱さに捕らわれる。
「抱けよ」
「え?」
「抱けよ!」
「アキちゃん……。でも……」
「例えお前が向こうの勝也だとしても、僕のことが好きだったって言ったじゃ ないか。なら、抱けよ。できるだろ?」
 ……ダメだ……。
 俺の心の中で誰かが囁いていた。
 ……抱くな……。
 わかっている。抱けない。
 けれど……。
「勝也……」
 耳元で大好きな人に囁かれて、どうして引き剥がすことが出来るだろう。
 俺は自分の両手をアキちゃんの背中に回して行った……。




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