裸のままで肩を震わせてなくアキちゃんを、俺は黙って抱きしめていた。
「ごめん……」
 俺が謝ると、アキちゃんは何も言わずに、俺の胸の中で激しく首を振った。
 俺も何も身にはつけていない。
 落ちついてみると、アキちゃんの肩に小さく紅い痣が浮き出ている。その痕 を俺はぼんやりと見つめる。
 俺が、こっちの俺になれる筈もない事はわかっていた。それでも俺は……。
「ずっと……、不安だった」
 後悔の波に揺れていると、アキちゃんが突然そんなことを言い出した。まだ 声は涙に濡れているが、話し方は落ちついていた。
「不安? どんな不安?」
 わかっていながらも俺は問う。アキちゃんは、例え俺相手にせよ、心に溜め こんだ物を一度は出さなければいけない。
 いつかのように……、それは俺の元の世界のことでだけれど……、あんな風 に胃を悪くするような悩み方はさせたくない。
「お前といると……」
「俺といると……」
「本当は、僕なんか負担になっているんじゃないのか。好きだと思っていたの はただの子どもの好きの延長だったんじゃないのか。本当は別れたいんじゃな いのか……。って、そんなことばかり考えるんだ。本当はあの日の夜も、僕が 勝也の気持ちを疑って、喧嘩してた。僕が意地を張ってベッドを下りたのに、 勝也は慌てて引き止めようとして……、ベッドから落ちたんだ」
 俺はタオルケットを引き寄せて、アキちゃんの涙を拭いた。
「朝、目が覚めて、お前が、僕は恋人じゃないって言い出したときも、別の世 界から来たって言った時も、別れるためにそんなことを言い出したと思った… …」
 アキちゃんはきっと、本当にこっちの俺が好きだったんだろう。その想いの 深さに、俺はもう一人の自分に強い嫉妬を覚える。
「いつも思っていたんだ。勝也が別れたいって言えば、笑って別れてやらなく ちゃって。その責任が僕にはあるんだって。出来るつもりでいたんだ。新しい、 勝也に似合いの可愛い女性と、幸せになれよって、笑って……、笑って言って ……、僕は……」
 アキちゃんの目に新たな涙が浮かび出る。俺はアキちゃんの肩を抱きしめる。
「アキちゃん……」
「やっぱり、君は、僕の勝也じゃないんだ」
 涙を流しながらも、アキちゃんは笑おうとする。
「うん、ごめん……」
「謝らなくてもいいのに」
 力なく笑い、アキちゃんは自分で涙を拭いた。
「俺さ……、俺もアキちゃんが、えっと、秋良さんが好きだから、わかるよ。 こっちの俺の気持ち」
「勝也の気持ち?」
「うん。俺は、いつも本気だよ。本気で貴方が欲しかった。ちゃんと手に入れ られたこっちの俺が、憎くて、でも、良くやったなって言ってやりたい。あな たは迷うことなんてないよ。堂々として愛情を与えられるのを待っててよ。俺 はさ、こっちの俺も、本気で貴方が好きだよ。迷わないで、泣かないで、悩ま ないで」
 いつも言えなかった言葉を……、俺は溢れるだけ注いだ。
「愛してる」
「勝也」
 ちゃんと自分の名前を呼んでもらえる幸せに、俺は泣きたくなる。
 抱きしめて、その甘い匂いに目が眩みそうになる。
「いつも秋良だけだから、悩まないで」
 ふわりと俺の首に腕が回される。胸と胸が触れて、自分の身体に火がともる のがわかった。
「あ、アキ……」
「戻れなかったらどうするの?」
 言ってはならないことをアキちゃんは聞いてくる。
「ずっと、俺が貴方の傍にいるよ」
 俺に出来ることは、ただそれだけだから。ただ、こうなることは……、もう お互いにわかっているけれど……。
「勝也……。僕の勝也になってくれるの?」
「うん……」
 俺は、滑らかな、眩暈のしそうなほど肌触りのいい背中を撫でた。
「じゃあ、キス……して」
「アキちゃん……」
 俺はアキちゃんの頬を両手で挟み、キスするには、どうも自分の位置が悪い と思って、場所をずらそうとした……。
「あ……」
 アキちゃんの部屋のベッドは俺のベッドより狭いこともあって、ぐらりと身 体が傾いだ。
「勝也!」
 俺を支えようとしたアキちゃんの手を掴んだりすれば、アキちゃんも巻き込 んでしまうと思って、俺はアキちゃんの胸をトンと、押した。
 沈んでいく……。
 次に訪れるだろう衝撃を予想して、俺は硬く目を閉じた。





 身体に感じる墜落感に、俺はガタンと身体を揺らせた。はっと目を開ける。
 まず俺の目に飛び込んできたのは、アキちゃんの心配そうな顔。
 泣き出しそうな目で俺を見ている。
 …………ごめん。
 そう言いたいのに、声が出なかった。
「大丈夫だろ」
 横から聞こえた声に、俺はびっくりして、視線をずらした。そして、その人 物を認める。
「ヒロちゃん……」
 心の中で呟いたつもりが、声になった。
「勝也……」
 アキちゃんの唇から、安堵の長い溜め息が漏れた。
「どうして……、ヒロちゃん」
「まだそんなことを言ってるのか?」
 まだそんなことって? どんなこと?
 俺はなんとか起きあがろうとする。ずきりと頭が痛くなる。後頭部に、ずき ずきと脈打つような痛みがあった。多分、さっきぶつけたんだろう。
 そう思ったが、俺はちゃんとベッドに寝かされていた。
「ここ……」
 ずきずきする頭痛を堪えて起きあがり、あたりを見回した。
 淡い水色の壁紙、窓にはレースと濃いブルーのカーテンがかけられている。 壁際の洋服箪笥、机。本棚。
「ここ……、アキちゃんの部屋」
「勝也?」
 突然涙が零れてきた。ここは、そう、俺が良く知っているアキちゃんの部屋 だ。俺が寝かされているのは、アキちゃんのベッドだろう。白いシーツは少し 糊の感触がする。
「勝也、痛むのか?」
「アキちゃん……」
 ぐいと涙を拭いて、俺は起きあがる。
「もう、大丈夫」
 起き上がると、ちゃんとパジャマを着せられていた。確か……、俺は裸で… …。それにこのパジャマも、俺のではない。サイズが合うのだから、持ち主は 聞かなくてもわかるけれど……。
「洋也、勝也に熱い飲み物飲ませてやりたいんだけど」
 アキちゃんがそう言うと、兄はきつい眼差しを残して部屋を出ていった。
「勝也……」
「アキちゃん、俺」
 二人が同時に口を開いて、口篭もる。
「その呼び方をするって言うことは、勝也……だろ?」
 不安そうに問いかける声に、俺は頷いた。
「うん、なんだかわからないけど、戻ってきた」
 ほうと溜め息が聞こえる。きっと、それだけ分、アキちゃんを困らせていた のだろう……。あっちの俺は。
「ごめん、アキちゃん」
「勝也が悪いんじゃないさ」
 それだけで許してくれる。きっと、いろいろ心配をかけて、困らせただろう に。
 ヒロちゃんの様子から察するに、かなりの問題を引き起こしたはずなのに。
「このパジャマ……」
「お前、お前じゃないな、向こうの勝也は、戻れないならどうなってもいいっ て言って……、それで……、僕が逃げようとしたら、そしたらベッドからもつ れるように倒れて。大変だったんだぞ。それ、着せるのだけでも」
「ごめん……」
「だから、勝也のせいじゃないよな。僕も、ごめんな」
 俺は首を振って、いつものようにアキちゃんに抱きつこうとした。
 と、急にアキちゃんが身体を竦ませる。
「あ……」
 俺は慌てて手を引っ込めて、アキちゃんから視線を逸らせた。
 アキちゃんは恐いのだ、俺が。あっちの俺は、きっとアキちゃんがヒロちゃ んのものになったと知って、無理な事を言っていたに違いない。
 だから、アキちゃんは身を竦ませる。
「ごめん……」
 また二人同時に言って、同時に吹き出した。
 カチャリとドアが開いて、ヒロちゃんがやってきた。手にマグカップを持っ ている。
 熱いミルクティーを飲みながら、俺は帰ってきたのだと実感する。
 いいんだ……。俺は、ヒロちゃんの横で静かに微笑んでいるアキちゃんが好 きだ。それでいい……。
「ごちそうさま」
 マグカップを置き、家に帰ろうと思って、ベッドから下りた。シーツに足を 取られてつんのめった。
「危ないっ」
 アキちゃんが慌てて手を差し伸ばしてくれる。それにつかまり、倒れる事だ けは免れた。だが……。
 アキちゃんのトレーナーを強く引っ張ってしまったために、アキちゃんの肩 が大きく見えてしまう。
 その肩口に紅い染みを見つけて、はっとなる。向こうのアキちゃんにもあっ た痕。それは……、何日か前につけられたものだとわかる淡さだった……。
 そして、今目の前にある痣は、まだ新しくて……。
「アキちゃん……」
 アキちゃんは慌てて肩を引き寄せ、なんでもないように、「気をつけろよ」と 言って、俺の背中を押した。
 まさか……、な……。


             Fin




 俺は帰ってきた。自分の世界へ。
 アキちゃんは俺の兄、洋也の恋人で、俺の手には入らない人。
 それでいい……。それがいいんだ。
 そう言い聞かせながら、俺は懐かしい、自分の部屋に戻ってきた。

 帰り道、兄の車で送ってもらった。
「俺、迷惑かけた?」
 俺の問いかけに、兄は何も答えてくれなかった。
 きっと、あっちの俺は、アキちゃんを自分のものだと言い、兄を困らせ、怒 らせたのだろうと思った。
「ごめん……」
 誰に対して謝ったのか、自分でもわからなかった。
 きっと、兄にであり、アキちゃんにであり、そして、自分自身に……。
「謝るのは、こっちの方だ」
 兄は意味不明の事を言い、そしてまた、何も言わなくなった。
「寄ってかないの?」
 家の前で車を下りるときに聞いたが、兄はそのまま車を発進させた。
 兄には、帰る場所があるのだから……。

 懐かしい、自分の部屋。
 何も違和感はなかった。
 帰ってきたことを実感し、俺はベッドに仰向けに寝転んだ。
 何も考えずに眠りたい。そう思った。
 壁際に寝返りを打つと、かさりと音がした。
「……?」
 俺は枕の下を探り、その音の正体である、一枚の紙を見つけた。
『勝也へ』
 四つ折りにされたそれに、見覚えのある字で、自分の名前が書かれている。
 自分の字で書かれているのに、覚えのないその紙を広げてみた。
 それは、あっちの俺から、俺に対する、手紙だった……。

*****  *****  *****

 もう一人の勝也へ

 この手紙をお前が読んでいるということは、俺たちは、無事、自分の世界に 戻れたことになるだろう。俺はそれを感謝し、喜んでいる。それはきっと、お 前にだって、同じことだと信じたい。
 俺はこの世界に飛ばされたとき、最初、お前の不甲斐なさを罵った。お前の ことバカだと思った。
 どうして大切な秋良を、兄になんて譲ったのだろうなんて、お前の力のなさ に、頼りなさに腹が立ってならなかった。
 秋良は俺にとって、なくてはならない人だ。誰にも譲ったりなんかしない。
 なのに、こっちの俺は、どうして秋良を手に入れられなかったのだろうと、 そればかりを考えた。
 だって、元の世界に戻れないと思ったし、この世界で生きていくのに、俺は 秋良と兄が仲良く暮らしていくのを、指を咥えて見ていかなければならないの かと、悲嘆に暮れた。
 何もかも壊してもいいと思った。もう一度、秋良を手に入れればいいんだと、 そう思った。
 だって、秋良は俺のものなんだから。
 俺はもちろん、秋良にそう言った。抱かせて欲しいと……、迫ったんだ。

 お前も知っているかもしれないが、俺は自分の世界で、秋良と喧嘩ばかりし ていた。
 秋良はいつも遠慮がちで、臆病で、俺のことを子供扱いする。ずっとそう思 ってきた。
 喧嘩して、仲直りして、それでもまた同じことで喧嘩していた。
 疲れていたのかもしれない。俺の気持ちを疑い、俺の将来ばかりを口にする 秋良に対して、本当は俺と別れたいんじゃないかと、疑っていた。
 きっと、秋良だって、不安だったはずなのに。それを思いやってやれるだけ の、余裕が俺にはなかった。子供だと責められても、仕方ないよな、それじゃ あ……。

 お前の秋良さんが、俺の申し出を何と言って断ったのかは、悔しいから教え てやらない。いつか、自分で聞くといい。
 俺は、実はお前のほうが、俺が秋良に愛されるより、深い愛で秋良さんに守 られていると思えてならない。
 その愛を勝ち得たのは、お前だから……、だよな。俺は、お前を尊敬する。
 これからは、お前に負けないくらい、優しく、穏やかな想いで、俺の秋良を愛 していくと、お前に約束する。

 いつか、お前にも、本当の愛が訪れると……。俺は願ってやまない。
 もう一人の俺、どうか、幸せになってくれよ。


                              勝也より

*****  *****  *****

「ばかやろう」
 俺は腕で目元を隠した。
 アキちゃんがなんて言ったのかなんて、アキちゃんは絶対に教えてくれない だろう。
「書いていけよ、ちゃんとさ」
 俺も手紙を書いてくれば良かったと思う。後悔しても、もう二度と、あっち には行きたくないが……。
「がんばれ」
 聞こえない相手に、俺はエールを贈る。
 せめて、『俺』には、幸せになって欲しい。
 ずっと、ずっと、秋良さんを大切にしてほしい……。
 願うのは、それだけだった。


                          もう一つの終わり