「お前、誰? 僕の知ってる勝也じゃないだろ」
 ぽろぽろ涙を零すアキちゃんを目の前に、俺は息を詰めて立ち尽くす。
「アキちゃん……」
 俺は本当に困り果て、壁にかけてあるアキちゃんのシャツをその剥き出しの 細い肩にかけてあげた。
 枕元にあったティッシュでアキちゃんの涙を拭き、ぎゅっと、抱きしめる。
 すぐに背中に回される愛しい人の腕。
 本当に、俺はどうすればいいんだろう。
「俺もさ、どうすればいいのかわからない。アキちゃん、どうしたい?」
 しばらくして泣き止んだアキちゃんはじっと俺の目を見詰めてきた。
「病院へ行こう、勝也。それから、お前の家に送って行く」
「うん、……」
 アキちゃんのさせたい様にさせてみよう。
 俺はとりあえず、そうする事に決めた。
 今はただ、アキちゃんの気持ちを落ちつかせたかった。
 あんなに泣くアキちゃんを見るのははじめてで、本当に俺はどうすればいい のかわからなかったのだ。

 病院での検査は、異常はないということで、俺はアキちゃんの車に乗せられ て家へと向かった。
 不思議だったのは、アキちゃんのアパートは、どうやらヒロちゃんと暮らす 以前に住んでいた時のものらしいということだ。
 それに、あの夏のプールの怪我の時に乗せてもらった車をアキちゃんは今も 乗っていた。確か、車は買い換えたはずなのに……。
「あら、家を思い出したのかしら」
 母さんはにこにこしながら僕達を出迎えてくれたが、アキちゃんの真剣な顔 を見て何かあると感じたのか、二人をリビングに通してくれた。
「すみません、僕の不注意で」
 アキちゃんが事情を説明して頭を下げるのに、母さんは「仕方のない子ね」 と笑って、俺が怪我をした事など、少しも気にしていない様だった。
「この子の怪我なんて、一々気にしてたら、キリがありませんよ。気にしないで下さいね。秋良さんこそ、病院へ連れていってくれたり、疲れたんじゃありませんか?」
 母さんの言葉にほっとしたものの、アキちゃはそれでも憂鬱が晴れないよう な悲しい表情をしている。
「けれど、勝也の記憶にいろいろ、変なところがあるんです」
 アキちゃんの神妙な言い方に、俺はいよいよおかしいと思い始めていた。
 だいたい、アキちゃんだけじゃなく、母さんもおかしいのだ。
「変なところって?」
 母さんはさっきからどうも、僕とアキちゃんを一組の様に扱っている。
 母さんの問いかけに、アキちゃんは言いにくそうに口を噤む。
「勝也、何を言って困らせたの?」
 アキちゃんが言い出さないものだから、母さんは俺に尋ねてきた。
 けれど俺だって、何がおかしいのか、さっぱりわからないのだ。
 アキちゃんとヒロちゃんの、冗談じゃなかったのだろうか……?
「俺は……、別に」
「勝也は……」
 アキちゃんがようやく口を開いた。俺には何も言わせたくない様だった。
「勝也は、僕と洋也さんが恋人同士だと言うんです」
 だから、それのどこがおかしいと言うのだろう。それで何か 間違っているのかと言いたい。
 一瞬、部屋の中が静まり返ったかと思うと、母さんがけたたましく笑い 始めた。
「あなた達、それ、なんの冗談? 私をからかってるの?」
 目尻に涙を浮かべて笑う母さんを俺は茫然と見る。
 アキちゃんは溜め息をついて、そして俺に悲しい目を向ける。
 何か……、何かが起こっている。
 間違いなく、俺の身の上に何かが起こったのだ。
 それはもう、疑いがないようだった。
 誰も、アキちゃんも、俺のことを騙そうとしているのではないのだとわかっ た。
 そしてそれは、とんでもない事が起こっているのだと、俺に認識させただけ だった。





 お袋に冗談だと笑われて、俺はどうしようもなく不安になった。
 これが冗談じゃなかったら、一体なんだというのだろう。俺は答えを見つけられ ないまま、自分の部屋へ行くことになった。
 アキちゃんが一晩ゆっくり休めば、疲れも取れて、何もかも思い出すんじゃ ないかといったからだ。
 思い出すも何も、忘れていることなんてないはずなのに。
 それとも俺は、本当に何か大切なことを忘れているんじゃないだろうか。
 カチャリと自分の部屋のドアを開けて、俺は絶句した。
「ここ、誰の部屋?」
 思わず振り返ってアキちゃんに聞いてしまう。アキちゃんは悲しそうに ため息をつき、正面のドアを指差した。
「勝也の部屋はこっちだろ。そっちは正也君」
 やっぱり違う。何もかも違う。
 十四年間も使ってきた、(実際は小学校に入ってからだから8年だけど) 自分の部屋を間違えるはずない。しかも、僕に悪戯する為だけに、 ここまで仕掛ける人もいないはずだ。
 俺は恐る恐る、自分の部屋だといわれた部屋を開けた。
 途端に感じる、懐かしい様でいて、なんだか不安になるような違和感。
 俺は……。俺は……。
「アキちゃん、聞いてもいい?」
「なんでもどうぞ」
 なかばやけくそのように言うアキちゃんに、俺はもう、遠慮をせずに 聞くことにした。もう、アキちゃんを傷つけずにいようという、余裕すら なくなりかけていた。
「俺、6年の時、アキちゃんの生徒だった?」
「そうだよ」
 またアキちゃんて呼んだなという批難のこもった答え方。
「それで、今はアキちゃんの恋人なんだ?」
「そう」
「きっかけは……、夏のプール?」
 アキちゃんは少し笑って、そうだよと言った。
「俺が怪我して、誰が迎えに来たの?」
「バカ、家に誰もいなくて、僕が送ってきたんじゃないか」
「胃を悪くしたことは?」
 聞くと、アキちゃんは俯き加減で、頬を染める。
「教え子に、しかも小学生に本気になった自分が信じられなくて……」
 俺は「ああ……」と呟いて天を仰いだ。
 俺は、俺はきっと、自分の望んだ世界にきてしまったんだ。
 あの時……、あの時、珍しくヒロちゃんが家にさえいなければと、何度 そう思っただろう。
 そして、そんな世界が存在してしまったんだ。
 その世界、いわゆるパラレルワールドへ、僕は来てしまった。
「勝也……?」
 心配そうなアキちゃんを僕は抱きしめた。
「勝也……」
 迷うことなく抱き返される手に、僕は泣き出しそうになる。
「思い出した? 良かった……。勝也が別人みたいに見えて、怖かった……」
 別人……。アキちゃんの言葉に、俺ははっとする。
 そう、この世界には、この世界の俺がいたはずだ。
 その『俺』はどこへ行った?
 まさか……。
 頭を打って意識が遠のいて、目が覚めたらアキちゃんがいた。
 だから……。俺だけがここへ来たとは思えない。
 つまり……。
(入れ替わった……?)
 俺はきつくアキちゃんを抱きしめながら、その事実に茫然と立ち竦んだ。





 この世界には、この世界の俺がいたはずだ。
 『俺』はどこへ行った?
(入れ替わった……?)
 俺はきつくアキちゃんを抱きしめながら、その事実に茫然と立ち竦んだ。

「勝也?」
 小さな、震えるような声にはっとして意識を現実に戻すと、アキちゃんが 不安そうに俺を見上げていた。
「な、なんでもない。うん、大丈夫」
 何が大丈夫なのか、俺の方こそ聞いてみたい気がするけれど……。
「僕、今日は帰るよ。勝也もいろいろあって疲れてるだろうし」
 寂しそうにアキちゃんはそう言って、じっと俺を見詰める。
「うん、ごめん」
 そっと、アキちゃんを抱きしめていた手を緩めるが、アキちゃんは僕から目 を離さない。
 何かを言いたげに、じっと目を見つめたままだ。
「アキちゃん?」
 つい、いつもの呼び方をすると、アキちゃんは瞳を揺らして、目を伏せた。
「何かあったら、電話して」
 静かに離れていく手を、僕は……、掴めなかった。
 悲しげな目でアキちゃんは俺から視線を外す。小さな溜め息は、か細くて、 アキちゃんの心の中の苦しみを映し出している様だった。
「アキちゃん」
 階段を降りようとする背中に呼びかけた。でも、アキちゃんはぴくりと身体 を震わせただけで振り向いてはくれなかった。
 トン、トン、と力なく階段を下りていく足音と、次第に消えていく細い後ろ 姿を俺は見送るしか出来なかった。
 答えて欲しい。
 教えて欲しい。
 こんな時、この世界の俺は、いったいどうしていたのだろう……。
 どうやって、アキちゃんを安心させて、あの優しい笑顔を引き出していたの だろう。
 俺にはわからない。
 俺には出来ない。
 その事実を噛み締めるだけだった。
 とても……、悔しかった。

 一人、少し違和感のある自分の部屋の、自分のベッドの上で、俺は天井を見 上げていた。
 これからどうすればいいのだろうと、そればかりを考える。
 一番いいのは、もう一度、入れ替わることだ。
 けれど、その方法がまったくわからない。
 第一、どうして、俺がこの世界へ来てしまったのかも、まるで謎なのだから。
 そして俺は考える。
『本当に帰りたいのか?』と……。
 俺は俺の望む世界に来たんじゃないか。ここにいれば、俺はアキちゃんの恋 人でいられる。それ以上に望むものなんてないんだ。
 だから、ずっとここにいればいいじゃないかと。
 ここにいたいと、そう思って何が悪いんだという開き直りにも似た気持ちで 俺は目を閉じた。
 ……疲れていた。しばらく、何も考えたくない。
 アキちゃんを抱きしめた手の温もりを俺はそっと抱きしめる。
 冗談混じりに抱きしめることはあっても、あんな風に抱きしめたことはなく て、ましてやアキちゃんから抱きしめ返してもらえることはなくて……。
 チクショウ、と思って、不意におかしくなった。
 今までいい思いをしていたこっちの俺は、きっと向こうで……、なんて考え て、がばっと起き上がる。
「やばいよ……」
 だって、俺が『向こうで』倒れた時の状況を思い出す。
 俺は、ヒロちゃんとアキちゃんの家で、二人の目の前で、ふざけてて、転ん だ拍子に頭を打って、ブラックアウトした。
 意識を飛ばした俺をいくらヒロちゃんといえども、外に放り出したりはしな いと思う。
 と、ということは……。
「まずい……」
 こっちの俺は目が覚めて、きっとさ、きっと、自然にアキちゃんを抱きしめ ちゃったりなんかして……。
「知らない。知らないからな、俺」
 知らない、知らないと言いながら、俺は頭を抱えた。
「どうなってんだろ」
 きっと、『俺』はわけもわからず、アキちゃんを責め、ヒロちゃんに突っか かり……。
 アキちゃんはおろおろして……。
「どうしよう」
 さっきまで、ここにいればいいなんて思っていた気分は、すっかり消えた。
 戻らなければ。きっと、『俺の』アキちゃんは今頃とても心を痛めているは ずだから。
 戻りたい。
 そう思って、最初に浮かんだ顔は、皮肉にも、きっと「元の世界」では、今 頃『俺』を責めたてているだろう、その人だった……。




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