MEMORY
初出 ; Vol.19〜25
>>6才。
まだ若いその教師は、母親の前で困り果てた顔を隠そうともしなかった。
「私もですね、まだそんなに担任をしたわけではありませんから、こんな風に言うのもなんですが、その、ちょっと、他のお子さんとは、テンポがずれていると思うんですよ」
「はあ……」
言われた母親の方も、どう答えていいかわからずに、曖昧な返事をし、そして頭を下げるついでに、「すみません」と言ってしまった。
確かに、一番下の息子は母親の目から見ても、常に夢を見ているような、掴み所のない性格をしていた。
人に危害を加えるでもなく、男の子にしてはおとなしい、育てやすい子だと思っていたので、小学校に上がってはじめての懇談会で、こんな風に言われるとは思ってもみなかった。
母親がつい口にしてしまった謝罪の言葉を、自分の気持ちを理解してくれたととったのか、教師はそれまで貯め込んでいたことを一気に吐き出そうとした。
何をさせても、他の子よりスタートは遅く、もちろん出来あがりも遅い。
こちらが注意すればごめんなさいとは言うが、かといって次からあらためる事もしない。人の話を聞いているのかどうか、全然わからない。
聞いたことの返事はしてくれるが、いつも的外れなことを言う。授業中でもぼんやりしていることが多い。
「気をつけるように言いますから」
母親はまくしたてる教師の言葉の間に、ようやくその言葉を挟みこんだ。
「お母さんのいうことはちゃんと理解しているようですか?」
教師のあまりな台詞に、母親はかっとなって怒鳴りつけそうになるのを必死で押さえ込んだ。膝の上で持っていたハンカチを握り締める。息子は確かにテンポはずれているかもしれないが、そんな風に言われる筋合いのものではない。
「理解しています。ちゃんと言って聞かせますから。お世話をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
母親は無理にも懇談を打ち切って、深々と頭を下げ、教室を後にした。
夏の盛り。田舎の事、周りからはセミの鳴き声がうねりになって押し寄せてくる。
母親は校庭の隅で、しゃがみ込み背中を丸めている息子を見つけた。
「秋良、帰るわよ」
声をかけてみるが、秋良はちょっと顔を上げて母親を見ただけで、すぐにまた自分の足元に気を取られているようだ。
「どうしたの?」
いつまでもこんな事をしていると、日射病になってしまう。母親は日傘をそっと息子に差しかけた。
「お母さん、見て。アリさん。エサを運んでる」
言われてみれば、群れを作った蟻が今にも羽虫を巣穴に運び入れようとしていた。
「秋良はどっちの応援をしているの?」
「え?」
母親の問いに、秋良はまた顔だけで振り向き、きょとんという顔をした。
餌を運んでいるアリさんの見方? それともムシさんに頑張って逃げろっていってるの?」
秋良はしばらく母親を見て、そして、しょんぼりしたように、また蟻の群を眺めた。
「どっちの味方にもなれないね」
「秋良……」
「だって、アリさんはエサがないと、いきられないもの。ムシさんを助けても、もう飛べそうにない。でも、僕は治してあげられない。だから、これは僕が決めちゃいけないことだよねぇ」
少し淋しそうに秋良は、バイバイと手を振った。アリに対してなのか、羽虫に対してなのかはわからなかった。
この子は、確かに人より遅れているのかもしれない。成績だって、いいとは言えない。けれど……。
母親は思った。ちゃんとものを見る目を持っている。
まだ6才だ。誕生日がきてもたった7才。それでこの子の将来を憂うようなことを言う大人より、この子はちゃんと周りを見ている。
「秋良、渡辺先生、好き?」
母親は息子と手を繋いで帰りながら、担任の教師の事を聞いてみた。
「うん、好き。優しくて、大好き」
「そう」
母親は苦笑いする。
「でもね、渡辺先生は僕の事、困るわっていつも言う。お母さん、僕、困ることしてる?」
「大丈夫。何もしてないよ。秋良はいい子。お母さんが一番知ってる」
「本当?」
ニッコリ笑うその顔はまだ本当に幼くて。
いったい、たかが半年間、昼間の勉強を受け持っただけの教師に言われたことで、この子の将来の何を悲観したのだろうかと、母親は苦笑する。
優しい子に育って欲しい。今のまま、素直に。
母親は秋良の歌う少し調子の外れた歌に合わせながら繋いだ手を大きくフリフリ、自分達の家へとむかう。今夜は秋良の大好きなカレーにしようかと思いながら。
…………7才。
「もったいないです」
目の前の若い男性教師は、強く自信に満ちた口調で、母親に訴えた。
「もったいないです」
そして2度目に言ったときは、とても残念そうに。
「でも、私はこの子を普通に育てたいと思っています」
母親が申し分けなさそうに告げると、彼は肩を竦め、更に首を振った。
「惜しいです」
教室には陽射しが深く忍びこんでいた。夕陽があたりの風景を茜色に染めていく頃だ。
帰国の手続きのため、彼女は長男が通う小学校を訪れた。
長男の担任は帰国を大層惜しみ、子供と母だけでも残れないのかと聞いてきた。
「だって、日本にはスキップ制度がないでしょう」
「ええ、まあ」
「だったら、彼はこちらで育てるべきです。ご存知ですか? 彼は3歳上の子たちより、優れた成績を残しています」
青い目で必死に語りかけてくる教師は、きっと息子のことを評価してくれているのだとわかる。けれど……。
「でも、あの子も私も日本人ですから。それに……、家族が離れて住むのは、絶対に良くないことです」
下に双子が生まれたばかり、夫の転勤の辞令が下りた。自分も帰国したい。
「もう一度良く考えて下さい。ぜひ」
母親は溜め息をついて席を立った。
帰り道は、既に暗くなりかけていた。
借りているマンションに戻ると、ベビーシッターが双子をボールで遊ばせているところだった。ようやくよちよち歩きをはじめた彼らは、きゃっきゃっと喜声をあげて、ボールを取り合っている。
そして母親に気がついて、二人、競うように部屋の入口に向かって歩いてくる。
「とてもお利口でした」
ベテランのベビーシッターはそう言ってニッコリ笑う。
母親は礼を言って規定の金額にプラスαをして、支払った。双子でも嫌がらずに来てくれるシッターは少ない。まして外国籍の家には。
彼女は双子は利口だし、手がかからないので、とてもいい仕事場だと褒めてくれるが。
双子をかわるがわりに抱き上げながら、母親は長男を探した。
「洋也」
長男は子供部屋にいた。覚えたばかりのパソコンで遊んでいる。
「あまり長い時間していると、目が悪くなるわよ」
「うん」
洋也は素直にパソコンの電源を落とした。
「ねぇ、洋也……」
「なぁに」
夕食の準備をしながら、彼女は話しかける。
「こっちに残りたい?」
「どうして?」
「友達とかと離れちゃうのは寂しいかなと思って。それにお勉強も……」
優秀な成績なら、夫の仕事もこちらでできるようにして貰えないだろうかと思う。
「僕は日本に帰りたいよ。マミーは帰りたくないの?」
「…………」
「マミーもダディも日本にお友達残しているんでしょ? それにグランパやグランマも」
「でもね、洋也。日本だと、難しいお勉強はできなくなるのよ」
「お勉強はどこにいてもできるよ。ここは、僕達の国じゃないもの」
郷愁……。
洋也は1才までしか日本にいなかった。
それでも、自分の国はあちらだと言う。
迷っていたものがどんどん晴れていくのを感じた。
「そうね。日本に、みんなで帰りましょう」
香那子が笑うと、洋也も、そして双子も笑った。
何より、双子にはもっと日本に触れさせてあげたい。
日本人なのだから。
ちょうど帰って来た父親を四人で出迎える。家族なのだから。
家族、なのだから……。
…………8才。
呼び出されるのは、何度目のことだろう。
決して、あの子が悪いのではない。それはわかっている。けれど、それでは悪くないのかと言えば、それも違うこともわかっている。
確かに、素直とは言いがたいだろう。子供らしくないとも思う。
同じ年頃の子供たちに比べれば、妙に大人びて、扱い難いだろう。
でも……。
「身体が大きいのですから、それだけでも周りの子供たちにとっては、怖いんですよ」
教師はまずそれを言う。
『じゃあ、どうすれば小さくなれるの』
不満気に、息子は家で口を尖らせている。
「とにかく、相手の子は怪我をしているわけですから」
困り果てた教師の顔。
自分は教師歴20年のベテランだと、それだけが自慢の女性教師。枠からはみ出す子は嫌いだと、口を憚らない。
『でも、先に手を出したのは向こうだよ。俺は一発だけ。向こうはそのあと、噛みついたもん』
確かに息子の腕には、くっきりと歯型が残っていた。
それでも泣かなかったのは息子の方で、泣いたのは向こうだから……。
「申し訳ありませんでした」
母親はそう言って頭を下げる。
それ以外の言葉を口にしても、無駄なのはわかっていた。
この先生にとって息子は怖い存在であり、将来どうしようもない大人になると思い込んでいるのだから。
「本当に、どのような教育をなさっているのでしょう。ちょっと上の方たちが出来がいいからと、比べていらっしゃると、やはりひがんでしまうのでしょうねぇ」
母親は何かを言いかけて、口を閉じる。
絶対口答えしてはいけない。
それ見たことかと、だからあんな乱暴な子になると、言われてしまう。
『木村先生は、兄ちゃん達を受け持ちたかったってさ。俺じゃ、みそっかすで、甘やかされて、駄目なんだってさ』
上と比べているのは、この教師なのだ。
勝也もそれはわかっている。
家では四人の子供達を比べたりはしていない。ただ、長男はこの春から家を出て自立を始めた。
子供らしくないと言えば、長男こそが一番だと思っていた母親は、末っ子ののびのびさに救われていたように思っていたのだが、小学校に入り、この教師に出会ってから、その思いは覆された。
「とにかく、もう少し厳しく、かといって愛情不足ではかわいそうですし、上のお子さん達は優秀で心配ないでしょうから、特に気をつけてあげて下さい。暴力では解決できないこと、しっかり指導してください」
母親は何も言う気になれず、黙って頭を下げて教室を出た。
家に帰る足取りは重い。
決して勝也が悪いわけではない。
けれど、勝也が悪くないのかと聞かれれば、それも違うと思う。
「おかえりなさい」
家に帰れば、すっかり機嫌のなおった息子が出迎えてくれた。
「勝也、みちる君の所に謝りに行こうか」
勝也はすっと表情を変えて、仕方なさそうに頷いた。
「俺が噛まれたことは……、言っちゃ駄目なんだよねぇ」
「……そうね」
ツンと唇を尖らせ、勝也は靴を履いた。
小さな頃から、周りの子より頭一つ分は背が高い勝也は、見た目でかなり損をしていると思う。
年を知らない大人達からは、大きいのに子供っぽいことをするという咎めるような視線。
同じ年の子を持つ親達からは、羨ましいと言いつつ、傍に行くだけで何か危害を加えられるのではないかというあからさまな恐怖。
「もう、叩いたりしないよ。気をつける」
二人並んで歩いていると、勝也がそっと母親の手を握り、そんなことを言った。
「勝也……」
「俺、いつまで兄ちゃん達と比べられるの?」
「来年になったら、拓也と正也は中学生になるから……」
「でも、先生達は、学校に居るもんな」
そう言われてしまえば、何も言えなくなった。
「比べられると、嫌?」
「んー、嫌じゃないけど、俺を怒る時に兄ちゃん達のこと言われたら、腹立つ。お母さんは怒るとき、俺のことだけ言うから、それが普通だと思ってたのに、先生は違う。俺の話、兄ちゃん達と違うっていうだけで聞いてくれない」
夫や自分は、四人の子供たちの個性を大切にしようと育ててきた。双子でさえ、一人として育てた場合はどうなるのかと、それを追求するようにしてきた。
末っ子だからと甘やかしたつもりも、お兄ちゃん達とはこう違うなどと、この子に接したことはないと、言い切れた。
それが社会でそう見てもらえない日が来るとは、思わなかった。
だから、勝也はそんなとき、どう対処すればいいのかがわからない。
無駄に焦り、抵抗するつもりではないのに、結局抵抗したことになってしまう。
言葉より先に手が、身体が動いてしまい、それが結果として、乱暴な子どもとして見られる様になってしまう。
「もう、誰も叩かないから」
「そうね、暴力は母さんも、絶対しちゃいけないと思う」
「うん」
いつかこの子のことを、本当にわかってくれる先生が現われるだろうかと思う。
この子だけを見て、本質を評価してくれる、そんな先生がいてくれればいいのに。
けれどそれは諦めからくる、ただの夢に過ぎないとわかっていた。
ベテランの先生でさえ、この子にもう乱暴な子というレッテルを貼ってしまった。それは、ずっとこの子に付きまとうだろう。
今後、この子が手を上げることは二度となくても……。
「今日の晩ご飯はー、ママ特製のハンバーグにしようか」
勝也の好物を言うと、うん!と元気のいい返事が返ってきた。
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