9才…………

 開け放した窓からは外の熱気が入ってくるだけで、窓を開けた目的である風は、そよとも吹かなかった。
 額に薄く滲んだ汗を拭い、母親は一つ礼をして、教師の向かい側に座った。生徒用の椅子は、小さく頼りない。
「いつもお世話になります。申し訳ありません」
 自然と、その言葉が出ていた。母親にしてみれば、ほとんど無意識の言葉だった。
「どうして謝られるのですか? 何も問題のないお子さんなのに」
 え?と彼女は顔を上げる。向かいには、自分と同じ年頃の男性教諭の笑顔があった。
「あの……」
「何か、ご心配がおありですか?」
 個人懇談でこんな風に尋ねられたのははじめてだった。彼女は困惑し、更にもう一つ詫びの言葉を重ねた。
「すみません」
「いいえ。で、どうして最初に謝られたんですか?」
 教師は穏やかな笑顔を崩さず、語りかける。
「あの……、いつも人様よりテンポがずれていて、きっと授業を遅らせたり、先生にご迷惑をお掛けしているのではないかと」
 熱さの中、冷汗を流し、母親は頭を下げる。
「まず、謝るのはやめましょう。安藤くんは何も悪くない」
 優しい笑顔の中、それでもその言葉は強く母親の胸に響いた。
「確かにちょっと、他の子たちより、スローテンポですね。でも、それがどうして迷惑なんでしょう?」
「授業が遅れたり……」
「お母さん、ご存知ですかね、安藤くんは他の子が嫌がることでも、笑顔で引き受けてくれるんですよ」
「はぁ……」
 母親は戸惑いながらも頷く。それがテンポのずれていると言われる所以なのではないだろうかと。
「最近、個性という言葉が履き違えて受け取られている様ですが、私は生徒一人一人のその子らしさを大切にしていきたいと思っています。安藤くんは皆が嫌がることでも引き受け、更に誰にでも優しく接する。だから彼が少しくらい遅れても、誰も彼を責めたりしませんよ。むしろ、待っていてあげたり、手伝ってあげたりしている光景を見ますとね、安藤くんこそ、クラスのまとめ役なのではないかと思っています」
「そう……、でしょうか」
 優しいのは優しい子だけれど……と、母親は不思議な感じがする。
「もちろん、リーダーシップを取るのは別の子なんですよ。でもね、そのこも安藤くんがちゃんと輪の中にいるか確認していて、むしろ安藤くんが他に輪の中に入れない子がいないか見届けるのを待っているような気がしています。う
ちのクラスは、この学校でもとてもまとまりがいいと言ってもらえるのですが、私は密かに安藤くんがいるおかげだと思っているんです。ですからお母さん、彼のことでは無闇に謝ったりしないで下さい。彼は自分が悪い事をしたのなら自分で謝れる子ですし、それを無視してお母さんが謝ってしまっては可哀想ですよ」
「ありがとうございます」
 母親は溢れそうになった涙をハンカチをきつく目に当てて堪える。
「それぞれがそれぞれを思いやる。一人が30人を思いやり、30人が一人を思いやる。それは彼がいたからこそ実現できたと思うんです。それこそ、彼の個性なのではないでしょうか。だから謝ることでその個性を潰さない様にして
あげてください」
「はい」
「では、安藤くんの、学習成績なのですが、どうも、体育と算数が苦手の様ですねぇ。宿題に時間がかかったりしていませんか?」
 和やかに懇談の時間は過ぎ、母親は丁寧に頭を下げて、教室を出た。
 廊下の向こうから、秋良が母親を見つけてニッコリ笑って駆けてくる。
「終わった?」
「終わったわよ」
「じゃあ、今晩はカレーなの?」
「え?」
「安藤、カレーが好きなのか?」
「うん、カレー大好き。懇談の日はいつもカレーだよ。お母さんが、僕は悪くないよね、ってご褒美に作ってくれる」
 秋良の思わぬ発言に母親は赤面する。穴が入りたい気分に陥る。
 教室の出口まで出てきていた教師はそれを聞いて、楽しそうに笑った。
「じゃあ、今夜は、特製カレーだな。いっぱい安藤のこと、褒めておいたぞー」
「やったぁ。上田先生、ありがとう」
 秋良は喜び、母親の手を引く。
 母親は教師に礼をして、手を引かれるままに学校を後にする。
「秋良、上田先生のこと、好きなのね」
「だーいすき! あのね、先生がね。僕は教師にむいてるって言ってた。僕もね、上田先生みたいな先生になりたい」
 カタカタと鳴るランドセル。黄色い帽子に、夏の陽射しが降り注ぐ。
 秋良は水筒を揺らしながら、母親の手を引いて歩いていく。
 そう、この子は優しい。それが一番嬉しかった自分を思い出して、母親は微笑んだ。






 10才…………

 臨月の大きなお腹を抱えて、彼女は双子の手を引き、買い物に出ていた。
「ママ、今日のご飯は何?」
「僕、プリンがいい」
「プリンは晩ご飯じゃないでしょう?」
「でもぉ、僕もプリンがいいなぁ」
 三人は楽しく話をしながら、駅前の商店街を歩いて行く。8月の陽射しは高く、白い帽子の縁にその光りを弾く。
 駅前のスーパーで買い物を済ませ、またこの暑い中を家まで歩いて帰らなければならないのかと思うと、少し憂鬱になる。
 やはり車で来れば良かったかなと思い、けれど、まもなく出産を向かえ、運動しなければならないという思いも湧く。
「ママ重い?」
「僕、一つ持ってあげる」
「僕も」
「ありがとう」
 香那子は小さ目の荷物を二つ、それぞれに渡す。小さな手が、それを一生懸命に持ち上げる。
「大丈夫かな?」
「ダイジョウブ」
 二つの声が重なる。
「帰ったら、プリン、作ってあげる」
「やったー!」
 喜ぶ声も二つ。
 もうすぐ、お兄ちゃんになると張り切っている双子は、最近、ずっとそうやって母親の助けをしてくれている。
「三池さん」
 強い陽射しの中歩いていると、香那子を呼びとめる声があった。振り返ると、同じようにスーパーの袋を持った、中年の女性が立っている。彼女もまた、お腹が大きい。
「先生」
 香那子は大きなお腹に手をやり、軽くお辞儀をする。女性は長男の小学校の担任教師だった。
「三池君の妹さんたちですか? 可愛いですねェ」
 双子を見て、彼女は笑う。
「弟だよ」
「そう、男だもん」
「まあ、こんにちは、が先でしょう?」
「こんにちは」
 母親に諭され、双子は揃って頭をぴょこりと下げる。
「ごめんなさいね。間違えちゃって。双子の弟がいるって本人に聞いていたのに、余りに可愛いものだから、つい……」
 担任は汗を拭き拭き弁解する。
「いいえ、いつも女の子に間違われるんで、慣れていますから。先生ももうすぐですね」
 香那子は担任教師の大きなお腹に目をやる。
「年度半ばで他の先生に代わるのはとても申し訳ないんですが」
「でも、生徒達も楽しみにしているんじゃないですか? 毎日大きくなっていくお腹を見ているのは、情操教育にもいいと思うんですが」
「ええ、みんなが名前を考えてくれたりして。みんないい子たちで。安心して次の先生にお任せできます」
 夏休み中に出産する彼女は新学期から育児休暇を取り、産休の講師が洋也の担任になる。
「洋也がご迷惑をお掛けしないといいんですが」
 香那子の心配に、担任は大丈夫ですよ、と笑った。
「ただ、三池君のいいところをわかってくれるよう、それだけは申し送りしておきますね」
「すみません。よろしくお願いいたします。どうも子どもらしくないと思われるところがあって、中にはそんな子を苦手とする先生もいらっしゃるので……」
 担任が変わるたびに、香那子は心配になる。
 日本に帰ってきたばかりの頃、洋也を受け持った担任は、洋也を苦手と言って憚らなかった。曰く、大人びていて気持ちが悪いと。
 同年代の子ともに比べると、確かに洋也は無口だし、考えてから行動するタイプなので、可愛げがないと受け取られるのだろう。
「母親の先輩であるお母さんにこんなことを申し上げるのは、とても気が引けるのですけれど……」
 担任は言いづらそうに口を開いた。
「なんでしょう」
「私は三池君がとても好きだし、子供らしい一面も持っていると思うんです。ですが、今までに色々な子供を見てきましたでしょう? その経験からなんですが……」
「はい……」
「しっかりしたお子さんほど親の手を早く離れていくと思うんです。もちろんそれは望ましいことだと思いますし、親になろうとする今、ある意味羨ましいことだとも思うんですが、やはり母親にとっては寂しいことだと思うんですね。
弟さんたちも小さいですし、また赤ちゃんが誕生するとお母さんもお忙しいとは思うんですが、なんと言ってもまだ彼は10才ですし……」
「ありがとうございます」
 香那子は微笑んで頭を下げた。
「ごめんなさい。余計なことを言って」
「いいえ、先生。それは私も漠然と感じていたことで。洋也はとても早く離れていくような不安が……。でも、どうすればいいのかわからなくて」
「子供の成長は止められませんものね。その分、甘やかしてあげて下さい。三池君は、それに奢るような子じゃありませんから」
「本当にありがとうございます」
 暑い夏の視線が気にならないほど、爽やかな風が心の中に舞い込んだような気がした。
「どうぞお大事に」
「先生も」
 お互いに思いやり、微笑みあって、道を別れた。
「あれがお兄ちゃんの先生?」
「そうよ」
「先生も赤ちゃん生むの?」
「そうよ」
「女の子だといいねぇ」
 二人の台詞に香那子はふふふと笑った。
 女の子が欲しいのは我が家だけであって、担任の教師は男の子を欲しがっていると感づいていた。
 それに……。
「弟だといや?」
「嫌じゃないよ」
「嫌じゃないけど、妹の方がいい」
 先週のエコーの結果で、どうやらまた男の子らしいと言われたのは、香那子だけの秘密だ。
「楽しみねぇ。あら?」
 ここを曲がれば家まで一直線という角で、母親は出くわした小さな影に驚いた。
「あ、お兄ちゃんだ」
 双子が駆け寄る。
「ほーら、お手伝い。えらいでしょう」
 洋也は笑って、二人の頭を撫でてやり、母親の持っている最後の袋を手にとった。
「いいわよ、洋也。重いでしょ」
「大丈夫。母さんこそ、暑いのに。帽子忘れてた」
 言って、荷物の代わりに香那子の帽子を差し出す。どうやら、帽子を見つけて追い掛けて来てくれたらしいとわかって、香那子は微笑む。
「よーし、特大プリンだぁ」
「やったー」
「お家まで競走!」
 バタバタと駆けていく二人の背中を見送り、香那子はそっと洋也と手を繋いだ。
 洋也はその手に驚き、一度は引っ込めようとして、けれどすぐに力を抜いた。
「今日だけね」
 少し不貞腐れたような声に、香那子はクスクス笑った。





 …………11才。

 勝也から今度の担任は大学出たばかりで、子供みたいな先生だと聞かされて、香那子は溜め息をついた。本来なら5年から6年は持ちあがりなのに、続いて担任してもらえず、中学受験も大変な6年生を新任が持つなど、とても信じられないことではあった。
「見捨てたのね」
 口には出さないが、そんな気がした。
 5年の担任は、とにかく勝也を嫌った。
 理由は色々あるだろう。勝也に非がないとは言わない。
 だが、一方的な理由で勝也を自分の『生徒』という枠に押し込めようとし、若い感性がそれを嫌がったとして、どうして勝也ばかりを責められるだろう。
 勝也には「我慢しろ」と何度も注意を与えたが、それは今までの自分達夫婦の教育方針からかけ離れたことでもあり、強くは言えなかった。
 勝也はある程度は我慢をしていたようだが、癇癪を起こすように反抗することもあった。
 その都度、呼び出され、反対に怒鳴りたいようなことも我慢して頭を下げてきた。
 けれど、それでも続けて勝也を持つことは嫌だったらしい。
 勝也はそれで完全に、大人というものを、どこか蔑むようになった。冷ややかな目で、考え方で、「どうせ」と言うようになってしまった。
 一時は真剣に転校させることも考えたが、本人は、どこへ行っても教師なんてみんな同じだからと言い出した。
 そこまで子どもに言わせてしまったことに香那子は深い悲しみを覚えた。
 いっそイギリスに行こう。向こうの方が勝也には合っているような気がした。
 夫と何度か話し合い、移るなら小学生のうちがいい。9月までには決めようと、期限を決めていた。
 新学年が始まって間もなく、勝也が学校へ出かけるときの顔つきに、覇気が出てきたのを、香那子は敏感に察知した。
「勝也、学校、楽しいの?」
 思わず、繊細な年頃の子ども相手だということも忘れて、疑問そのままを口に出していた。
「あ、楽しいよ。だってさ」
 勝也は今まで溜めていた水を吐き出すダムのように、一気にその担任の話を始めた。
「安藤先生が……」
 香那子も担任の名前はすぐに覚えた。それほど勝也はその名前を出さない日はないというくらいになった。いつしか香那子も、その安藤先生がどんな先生かも知らないのに、その様子が目蓋に浮かぶような気さえした。
 勝也がそれで素直になっのかと言うと、そうでもないらしく、言葉の端々から、先生を困らせていることは容易に想像がついた。
 けれど、その先生の対応は、以前の教師とは全く違っていた。勝也自身の説明から、それは良くわかった。
 遠足で撮ったというクラス写真を見せられて、香那子は一瞬、担任がどこにいるのかわからなかった。
 勝也は笑いながら、一点を指差した。
 クラスの皆で、自分の親が担任がどれかすぐにわかるか競走しようという話になり、嫌がる先生に無理矢理帽子を被らせ、真ん中に囲んで写真を撮ってもらったのだという。
「それで勝也はわかるって思ってた?」
「わからないって思ってたよ。もちろん」
 勝也も、クラスのみんなも、楽しそうに笑っている写真を見て、香那子は涙が出そうになった。
 5年に撮った写真は、全員が綺麗に並び、誰もがみんな真面目な顔をしていた。
 それは見本のような写真だった。
 それに比べれば、この写真はあまりにもふざけている。
 けれど……。
 こんな楽しそうなみんなを見て、どうしてこれを悪いと言えるだろう。
 香那子は微笑みながら、その真ん中に映る、少しはにかんだような、少し怒ったような、けれど優しい笑顔に向かって礼を言った。




< …………11才。

 家庭訪問の日が近づいた。勝也の担任とはじめて会う。
 それは香那子にとって、今までは憂鬱な出来事でしかなかった。けれど、今回は違う。しかし、楽しみな反面、不安でもあった。
 勝也の話を聞いている限り、勝也はその担任の安藤という教師をとても気に入っているらしいが、相手ははたしてどうだろう。手を焼かせる生徒として、本心のところは嫌がっているのではないだろうかと思った。
 インターホンが鳴り、モニターの向こうにスーツを着た青年の姿が映る。香那子は緊張しながら、玄関を開けた。
 担任もかなり緊張しているようだった。思えば、家庭訪問初日。新任だという教師にとっては、はじめての経験だろう。生徒たちの家を直接訪問すると言うのは。
「はじめまして、安藤です」
 柔らかい声だと思った。写真と同じ、優しい笑顔がそこにあった。
「勝也がいつもお世話になります。あの、どうぞ」
「あ、ここでけっこうです」
 上がるように薦めたが、担任は玄関でと断りを入れた。香那子は残念に思いながらも座布団を差し出す。
「どうでしょう、勝也は学校で……」
 香那子が心配そうに切り出すと、安藤は少し笑った。
「ご家庭ではどうですか?」
 反対に質問をされてしまい、香那子は戸惑う。今までは家庭での様子と学校での態度の違いに、教師たちは返って反感を抱くようだった。
「あの……、優しい子なんです」
 それでも香那子は嘘を言えなかった。
 勝也は優しい。末っ子だから甘やかしたといわれればそれまでだが、自分達夫婦の教育方針は、勝也にもちゃんと伝わっていると思っている。
「そうですね。僕もずいぶん助けてもらっています」
「えっ!」
 安藤の答に、香那子は思わず驚きの声を上げてしまった。
「何か?」
「勝也が先生を?」
「ええ。ちょっと、てこずる時もあるんですけどね」
 担任はそう言って、まだ学生に見える幼げな顔に優しい笑みを浮かべる。
「てこずらせているのでしょうか」
 それは担任のある意味、嫌味なんだろうかと思ってしまい、香那子は肩を落とす。
「ええ、悪戯っ子ですよねぇ」
「……すみません」
 ひたすら香那子は謝った。やはりこの教師も一緒なのかと、少しの落胆を込めて。
「いえ、あの、謝らないで下さいっ」
 ところが、香那子が謝ると、安藤は少し頬を染めて、顔の前で手を振った。
「でも……」
「むしろ、この年の子どもには当たり前のことでしょう?」
 安藤の言葉に、香那子は不思議そうに相手の顔を見た。
「悪戯をしない子の方が、僕は心配です。三池君は、その、とても気持ちの真っ直ぐな子どもですよね」
「え……」
「瞳も真っ直ぐに見つめてきて、悪戯しても、曇りがないっていうか」
「他の先生から、お聞きになっていません?」
 香那子は思わず言ってしまった。何をどうすれば、そんなふうに勝也を褒められるのだろうかと。どうせ、口先だけ、親のご機嫌を取っているのではないだろうかと。
「あ……、ああ」
 安藤が言葉を途切れさせるのに、香那子はやはり、と溜め息をついた。
「でも、それは三池君を間違って見ているんですよね」
 あっさり他の教師を否定する安藤を、香那子は呆然と見た。
「僕は彼がとてもいい子だと思いますよ。誰かをいじめるということもしないし。どちらかと言えば、人に見えないところで庇ってあげているんですよ。それでね、僕は三池君がとても好きになりました。教室の中を見渡せる子なんで
すよ。悪戯は……、そりゃ、目に余るところもありますけど、この年で大人ぶっていい子なんて、おかしいですよね?」
 優しい笑みと、聞いている者に与える綺麗な空気。
「あっ、せんせー、もう来てたんだっ!」
 玄関が開き、勝也が顔を出した。
「三池、どうして帰宅が今頃になるんだ? 寄り道したな?」
「何言ってんだよー。ぜんぶ俺、案内するって言っただろ? せんせーのこと、待ってたのにー」
 勝也が口を尖らせる。そんな息子の表情を見て、香那子は納得する。
 こんなにも子どもらしい表情が出来る子だったのかと。
「だから、三池が一番だから、ここから案内してくれるかと思ってたんだよ。悪かったなぁ」
「いいけどさ。もう終わり?」
 香那子が笑いながら首を縦に振ると、いいんですか?と、安藤が聞いてくる。
「これからも勝也をお願いいたします」
 心からそう思い、頭を下げた。
「じゃ、せんせー、行こう!」
「三池、挨拶は?」
「行ってきまーす!」
 勝也はついでのように母親に挨拶をした。
「違うだろう。三池、まだただいまも言ってないだろう?」
「えー、もう行ってきますって言ったから、いいよー。じゃね、母さん」
 こらと勝也を叱る声は、玄関のドアの向こうに消えた。
 香那子は微笑みながら、息子の残していったランドセルを手にリビングへ戻った。
 今夜はカレーね。何故だか、そう思った。


END.