門にかけた手をがしっと掴まれ、秋良は声にならない悲鳴を上げる。この手は 自分を捕まえようとした者なのか、逃がそうとしてくれた者なのか、溢れそうに なる恐怖を飲み込んで、秋良は振り返った。
「どうしたの、アキちゃん。ヒロちゃんなら、いないよ」
 諭すような口調の勝也に、秋良は安心のあまり、その場に座り込んでしまう。
「か、勝也。どうしてここに?」
 腕を持ち上げられ、立たせてもらって、秋良は勝也を見上げた。
「どうしてって聞きたいのは俺なんだけどな。アキちゃん、ヒロちゃんと喧嘩し ていまプチ家出中なんでしょ? 鳥羽さんと一緒じゃないの?」
「どうしてそんなこと知ってるんだよ」
 秋良は体裁が悪そうに、少し顔をそらして呟いた。
「ヒロちゃんから聞いたもん」
 勝也の返事に、秋良ははっとして見返した。
「じゃあ、洋也は家に居るんだ」
「いないよ」
「でも、ほら、灯りがついてるじゃないか」
 秋良は洋也の書斎の方の灯りを指差した。そこにはいるのは洋也しか考えられ ないのだ。
「うーん……」
 勝也は困ったように頭をポリポリと掻いた。説明に窮している。
「もういいよ。中に入って洋也に聞くから」
「だめだって!」
「離せよ!」
 引きとめようとする勝也に強い口調で命令する。そうすれば勝也が自分に対し て酷いことはできないと見越して。
「アキちゃん、ちゃんと説明するから」
 勝也が説得しようとするのに、秋良はそれを無視して玄関を開けた。一直線に 洋也の書斎を目指した。
 ノックもせずにドアを開ける。椅子に座った栗色の髪に名前を呼びそうになっ たが、僅かな違和感に、言葉を飲み込んだ。
「勝也、できたぞ。あとはデータを送信すればいけ…………、秋良さん」
 振り返った人が双子のどちらなのかは秋良には判断がつきかねた。今でも、こ の二人の区別がつかないのだ。
「勝也、どうして連れてきたんだ」
 呆然とする秋良に、双子の一人は秋良に続いて入ってきた勝也を咎めた。
「仕方ないよ。アキちゃんだって心配なんだよ。タクちゃん、データを送信して。 今から島永さんたちと一緒にむこうに向かうから」
 勝也の言葉に秋良は、洋也のパソコンを操作しているのが拓也なのだとわかっ たが、それでも、何が起こっているのかはさっぱりわからなかった。
「何をしてるの……。洋也はどこにいるの……」
 秋良のうわずった声に、勝也は心臓が痛む思いがした。あの日の悪夢が甦る。
「アキちゃん、ヒロちゃんのいる場所はわかってる。これから俺が迎えに行って くる。だから、アキちゃんはここで待ってて」
「一緒に行く……」
 秋良の瞳が勝也を見た。深い瞳が焦点をうまく結べないで、力なく勝也を見つ める。
「大丈夫だって。すぐに連れて帰ってくるから。ね?」
 秋良の手が勝也の腕を掴んだ。勝也は必死で息を飲み込む。
 秋良が怖い。いや、そうではなく、秋良が壊れるのではないかという恐怖で、 逃げ出したいのは勝也の方だ。
 何とか秋良を説得して、この場から逃げ出したい。
「行く。みんなが何かを隠すのなら、洋也に説明してもらう」
「だから、アキちゃん、ヒロちゃんが帰ってきてから、喧嘩でも何でもしてよ。 とにかく、迎えに行ってくるから」
 勝也は助けを求めるように拓也を見た。拓也もどうしていいのかわからずに、 唇を固く結んだままだ。
「勝也、連れて行け。洋也のいるところへ」
 ぎゅっと肘を掴まれて、勝也は思わず震えた。
 自分の腕を掴み、洋也と叫んだ秋良。そのまま心を失くした秋良。
「勝也、頼むから」
 それまで不安に揺れていた秋良の目に強い光が差した。まっすぐに勝也を見詰 める。
「君たちが何をしているのかは知らない。でも、洋也が危険なんだろう? 僕を 捕まえようとした人たち、絶対普通じゃなかった」
「だから、アキちゃんはここにいて」
 秋良がまだ自分をしっかり保ち、勝也を説得しようとし始めたのを見て、勝也 も落ち着きを取り戻そうする。けれど秋良は勝也の説得に首を振る。
「足手まといにはならない。でも、僕にも迎えに行く権利はあるだろう?」
「でも……」
「連れて行こう、勝也」
 迷う勝也に、拓也がこの場にはそぐわない落ち着いた声で告げた。
「タクちゃん……、だけど」
「秋良さんだけに何も知らせないから、こんなことになったんだ。ヒロちゃんの ミスだよ。巻き込みたくない気持ちはわかるけど……」
「拓也君、ありがとう」
「でも、コンピューターの操作はどうするのさ。データを送った後、バックアッ プしてくれる人がいなくちゃ」
「正也がもう来る頃だろう。秋良さんのことは僕が守るから」
「勝也」
 拓也の言葉と、秋良の縋るような目に、勝也は苦しそうに微笑んで頷いた。
「絶対タクちゃんから離れないで」
 秋良がしっかりと頷くのに、勝也は玄関を出て誰かを招き入れた。
「島永さん、お願いします」
 秋良も一度だけ会ったことのある人物だった。確か洋也が信頼を置いている調 査事務所の所長ではなかったか。
「安藤さん、お久しぶりです」
 深い瞳に見つめられて、秋良は黙って頭を下げた。前に会った時もそうだった が、この人に見つめられると、すべて見透かされそうで苦しくなるのだ。
「先ほどは私の部下が、あなたを不安にさせてしまったようで申し訳ありません
でした」
「僕を逃がしてくれた人たち……」
 秋良がはっとして、思い出して話すと、島永はそうですと頷いた。
「私が三池さんから依頼されたのは二点です。貴方を危険から守りきること。三 池さんの救出に力を貸すことです。そして貴方を守ることに全力を尽くすように 申し付けられました」
「でも……」
 洋也の気持ちも、勝也たちの思いやりも、島永の立場もわかったが、それでも ここで待っているだけというのは耐えられない。いくら責められようとも、洋也 の無事を確かめたい。守られるだけの存在でいたくはなかった。
「今から三池さんを救出に向かいます。ですが、覚えていてください。私達は三 池さんからの依頼に優先順位をつけています。貴方を守ることが彼を救い出すこ とより、優先されることを」
 ここに残れといわれていることは理解できた。自分がついて行ったばかりに、 洋也を危険に曝す場面があるかもしれない。それでも、自分だって洋也を助け出 したい。その気持ちを否定されたくなかった。
「ならば僕から依頼します。洋也を助けてください。僕は……、貴方たちの邪魔 はしません。洋也の無事を確かめたいだけですから」
 島永は頷いて、先に立って出て行く。
 正也と鳥羽が同時に家に着いて、拓也はコンピューターを操作して、何かのデ ータを送信した。
 散々鳥羽に引き止められたが、秋良は底に秘めた頑固さでそれを撥ね退け、島 永の車に拓也と共に乗り込んだ。


 ターゲット捕獲の報告がなかなか届かず、河北は時間の経過と共に苛立ちを見 せ始めた。
 イライラと部屋の中を歩き回り、物や部下に当り散らす。
 その姿を見るだけで、この男と仕事をしたいという人物はいないだろうと思う。
 洋也は僅かに視線を動かし、スクリーンセーバーを映すパソコンのモニターを 見た。
 単調な幾何学模様が画面を縦横無尽に移動している。
 視線を壁の時計へと移す。自分がここへ来てから約半日。そろそろ動き始めて もいい時間だ。
 洋也の手配は完璧なはずだった。何事も間違いがなければ、そろそろ時限爆弾 が作動し始める。
 自分のことについては何一つ心配はしていなかった。河北は洋也本人を引き込 みたいと思っている限り、自分に対して取り返しのつかない傷を負わせることは ないだろう。
 自分の居場所はあのゲームのCD−ROMを起動させた時点で、こちらの場所 を報せるためのプログラムがひそかに作動している。
 あとは勝也たちが予定通りにここへ来るのを待てばいいだけである。
 ただ一つの心配は、やはり秋良のことだった。
 高畑という人物が自分の目の前に現われたとき、それを単なる偶然とはどうし ても思えなかった。
 何かがあると思ったところへ旧知の友人から助けを求める電話を受け取った。 それで洋也にはすべてが見えた。
 自分だけが危険を回避する方法はいくらでもあったが、相手が秋良の存在を知 っているらしいことが洋也を慎重にした。
 秋良を全てのどんな危険からも遠ざけるため、秋良自身を自分そのものから遠 ざけるように仕向けた。そしてその護りを完璧にするための手配も怠らなかった。
 けれど、一抹の不安だけは消せなかった。
 どんなことをしても守りたい。髪一本も傷つけたくない。
 二度と、秋良の心を閉ざしたくない……。
 目蓋を閉じると、秋良の笑顔ではなく、あの日の秋良が浮かんだ。自分の顔が 好きなのかと問うた秋良。
 即座に否定したい気持ちを飲み込んだのは、秋良の安全のためだけだった。
 悲しそうに自分を見上げる瞳に、出て行くな、家に閉じこもってて欲しいとい う言葉を辛うじて堪えた。
 そんな不安さえ秋良の心に残したくないのだ。
「あ……」
 物思いに耽っているとき、高畑の小さな声が響いた。
 洋也は目を開き、高畑を見た。
 高畑の目は部屋の隅のパソコンに注がれていた。瞳に青白いパソコンの光が反 射している。
 洋也もパソコンを見て、唇の端で笑みを作る。
「な、なんだこれは!」
 河北はパソコンへ走っていき、机に両手を打ちつけた。
 画面に現われた文字が考えられないスピードで消えていく。画面の下までカー ソルが辿り着くと、画面いっぱいに文字が現われ、またそれも流れるように消え ていく。
「な、なんだ。どうした!!」
 喉をひっくり返したような叫び声を上げて、河北はキーボードを叩く。
 が、それを止める事はできなかった。
「どうすればいいんだぁぁぁ!」
 河北はモニターを両手で掴み、投げ出さんばかりに揺らした。







 河北はモニターを掴んで揺するが、その手の中でも、猛烈なスピードで文字は 消え、現われ、消失していく。
「ど、どうすれば。あぁぁ」
 河北は真っ青になって、キーボードを叩いたり、パソコンのボタンをいろいろ 押したりするが、その努力を嘲笑うかのように、カーソルは滑るように文字列を 食っていく。
「せ、先生、こ、これは、どうしたら止まるんですかっ!」
 河北は必死の形相で洋也を振り返る。
「どうしようもないな。今更何をしても、データは消えていっている」
 洋也の凍るような視線が、河北にぴたりと据えられる。
「ま、まさか、先生が」
 河北は唇を震わせて呆然と洋也を見た。
「不用意に身元のわからないCD−ROMを起動させたりするからだ」
「だったら、お前には止められるだろう!」
 今までのように洋也に敬語を使うことは止めて、河北は洋也の肩を掴んだ。
「そのプログラムは動き始めたら、どのコマンドも受け付けはしない」
 洋也はゆっくりと河北に向かって微笑みを作る。だが、目だけは冴え冴えとし て、河北を射る。
「C、CD−ROMを……」
 河北は手を離し、再びパソコンに縋り付いて、CD−ROMを取り出そうとボ タンを押すが、ドライバーは反応しない。ドライバーの小さなをクリップの先端 で突いてみるが、それでもCD−ROMは出てこなかった。
「どうしてくれるんだ! ここにはな、ここには、新しい会社の機密から、大切 なデータから、何から何まで入ってたんだぞ! これが消えたりたら、俺は……、 俺は! 戻せ! 戻せ! 早く元通りにしろ!」
 河北は狂ったように洋也に詰め寄り、洋也の肩を引っ張り、パソコンへと引き 摺っていこうとする。
 洋也は後ろ手に縛られているので、上体が崩れる。
「早く止めろ! これが消えたりしたら、責任とって貰うからな!」
 もはや自分が洋也を拉致の真似事でここに監禁し、更にもう一人無理矢理さら ってこさせようとした事は記憶の彼方にかすんでしまったらしい。
「データが消えたほうが良かったんじゃないのか。その中にはN社から盗み出し てきたデータも入っているのだろう」
「な、なにを……」
 言い当てられて、河北は微妙に視線をそらした。
「N社のパソコンからデータが漏洩していることに、中垣内は気づいていた。それ がトップに近い人物だろうということも」
 洋也の口から出たN社の社長の名前に、河北は目を見張る。
「中垣内に頼まれてトラップを仕掛け、犯人がわかりかけたところへ、イベントに 出てくれとその人物からオファーが来た。会社からデータを盗み、こちらに接触 してきたことで、狙いはわかった。独立を狙っているんだなと」
「さ、最初から……」
「怪しいと思っていたところへ、こちらを引き込もうとするように、あんな人間 を出されちゃね」
 洋也は部屋の隅で震える高畑を顎で示した。
「自分が犯人だと告白しているように見えたな」
「そ、そんなっ」
 ぎりっと歯軋りの音が聞こえてきそうほど、河北は顔を歪めた。
 河北の後ろでは、その間も忙しく、モニターの中で文字の消失はスピードを上 げているようにすら見えていた。


「秋良さん、ヒロちゃんを助けて、中の安全が確認されるまで、入らないように してね」
 拓也の言葉に、秋良は小さく頷いた。
 膝に乗せた両手はきつく握り締められ、小刻みに震えているように見えた。
「大丈夫だから。相手はヒロちゃんの能力が欲しいから、ヒロちゃんに傷を負わ せるようなことはしないよ。ヒロちゃんはむしろ安全なくらいなんだから」
「でも、僕を連れて行こうと……」
 秋良の声が小さく響く。
「うん、それをされるとね、ヒロちゃんも断り難いでしょ。だから、秋良さんを 鳥羽さんのところへ行くように仕向けたんじゃないのかな」
「どうして話してくれなかったんだろう」
「うん……」
 どうしてと聞きながらも、秋良にはなんとなく、洋也の心配がわかるような気 がした。
 ある日突然、自分の前から姿を消す洋也。
 その後の記憶のない自分。
 目が覚めたときの洋也の涙。
 それらを考えると、洋也が自分を遠ざけて、その間に一気に片をつけようとし たのだとわかる。
 だが理解はできても、感情が納得してくれない。
 自分だけが安全圏に逃がされて、あぁ良かったと笑ってなどいられない。
「着きました」
 秋良の思考を破るように、島永の声が社内に響いた。
「行きます。拓也さん、くれぐれもよろしくお願いします」
「わかってます」
 前の車から勝也が降りるのが見えた。手には木刀を持っている。
 その細い刀身を見て、秋良はひやりとする。
 拓也に続いて車を降りた。
 島永と勝也、他に三人の男性がいる。
「OKマサちゃん、最後のデータ送って」
 勝也が携帯電話で正也と連絡を取った。
「行くよ」
 勝也の低い声に、男たちは素早くマンションの中へと滑り込んでいった。


「きょ、強制終了……」
 どうしても無駄だと認めたのか、河北はパソコンの電源ボタンを押し続ける。 が、パソコンは反応しない。文字列がその目の前で消え行く。
「畜生っ!」
 全て消えてしまうよりはいいと思ったのか、河北は電源そのものを引き抜こう と、ジャックに手をかけた。
「無駄だ」
「電源さえ切ってしまえば、プログラムも作動するものか」
 洋也が止めたが、河北は聞こうともせずに、プラグを抜こうとした。その時、 パソコンがピーピーピーと警戒音を発した。
 思わず河北の手が止まる。
 パソコンの画面は真っ白になっていた。
 新しい文字は出てこない。
「お、おわったのか……?」
 画面に見入る河北の目に、ゆっくりとモニターに浮かび上がる文字が見えた。
『You Lose』
「そ、そんなっ」
 瞬きもできずに、7つのアルファベットを見つめていると、その文字がくるく ると回り始め、スライムのように一つに解け合い、ぐにゃぐにゃと形を変えて、 やがて四方八方に飛び散り、画面は真っ黒になり、黄色い警告文が浮かび出てき た。
『貴殿の搾取したデータは返していただいた。新会社を設立されるのなら、自己 努力で設立されたし。こちらからは、一文字たりとも渡すつもりはない。河北宗 吾。本日付けをもち、懲戒解雇とする』
 その文字がフェードアウトしていき、やがてパソコンは真っ黒の画面になり、 唸りさえ止めた。
「あ……、あぁ……」
 河北は情けない声を出して座り込んだ。それでも最後の抵抗とばかりに、パソ コンの電源を入れるが、それは既に、中身は空っぽの、ただの箱と化していた。
 呆然自失の河北に声をかけることもできずに、雇われた男たちは所在無げに立 ち尽くす。
 だから、ドアノブが静かにゆっくりと回ったのに気づく者もいなかった。







 あの人の悲鳴だけがいつまでもいつまでも聞こえてました。涙で霞んだ視界に、 紅だけが鮮明に映り、涙は流れ続けるのに、口からは笑い声が零れていました… …。


 地元のゲームセンターで最後の100円玉を使ったゲームが惜しいところでゲ ームオーバーして、むしゃくしゃしてゲーム機械を蹴飛ばしたとき、うしろから 声をかけられたんです。
「ゲーム好きかい? コインを入れてあげようか?」
 驚いて振り返ると、そんな場所にはあまりにも不似合いなスーツ姿の中年男が いました。
「なんだよ、おっさん」
「格闘技系が好きなのかい? テレビゲームはしないのかな? RPGとか は?」
 俺がいくら胡散臭そうに睨んでも、そいつは全然気にする様子もなく、にこに こと話しかけてきました。
「するけどさ。それが何? おっさん、買ってくれるの?」
「買ってあげてもいいけど、そうだな、きみ、ロストセイントソード(LSS) は知ってる?」
「知ってる。プレイしたこともあるよ」
「じゃあ、LSSの2がでるとしたら、欲しいかな?」
「それはもう出ないって噂だぜ。みんな諦めてるよ」
 一時は熱中し、何度もリプレイしたゲームでした。続きがでるという噂と、も う出ないという噂が飛び交い、ゲーム配給会社が正式に続きは出ないと発表した と聞いたゲームでした。
「きみが協力してくれるなら、出るかもしれないんだよ。どうだい、私の会社で アルバイトしてみないか? バイト代は半年で300万出そう。もしLSS2が 出たら成功報酬としてあと500万。その後わが社の正社員の役付きとしてきみ を迎える。悪い話じゃないだろう?」
「正気かよ、おっさん。こんなフリーター相手に」
 とても信じられる話ではありませんでした。けれど彼はなおも俺を誘いました。
「もちろん、本気だよ。ただし、きみにはその鼻と顎を少し整形手術してもらい たい。色を黒に染めろとまではいわないが髪も切って欲しい。そうすればLSS のプロデューサーに会わせてやろう。彼を誘惑できれば500万の追加分が貰え るというわけだ」
 顔を整形しろとかとんでもないと思ったけれど、その話に頷いたのは、ただた だ暇だったからかもしれません。
 何か楽しいことがあればいいな、楽して金儲けができればいいなと、俺たちは いつも話していたから。
「やってもいいよ」
 その日から俺は引き返せない道に踏み込んだのです。

 男は河北だと名乗りました。
 連れて行かれた会社はまだ新しく、人も少なくて、最初はやっぱり騙されたの だと思いました。
 けれど河北は今はまだ前の会社に在籍していて、これから独立するのだと説明 しました。
 俺は金さえもらえればそれでよかったので、300万円を要求すると、あっさ りと現金を目の前に積まれました。もちろん驚きました。
 そして病院へと連れて行かれました。
 整形手術はすぐに済みました。一週間もすると、痛むこともなく、多少の違和 感を感じながらも、自分の新しい顔に馴染んでいました。
 髪を短めに整えて鏡を見ると、俺らしくない気弱そうな俺がこちらを見ていま した。
 河北は俺に、日常の動作を変えるように指導し、言葉使いも特訓させられまし た。
 まったく俺らしくなくて時には笑えそうになるくらいでしたが、時間がたつに つれ、河北は異様なほど真剣になっていきました。
 ある程度特訓の成果が出てくると、河北は俺を自分のまだ勤めている会社にア ルバイトとして潜入させました。スパイになったようで、俺はわくわくしていま した。
 そして、ゲームショーの日が近づいてきました。
 河北は何かに憑かれたように俺の特訓を強化しました。そしてある具体的な場 面を想定して、何度もシュミレーションを繰り返させました。
 それがどんな場面なのか、俺にはある程度予想ができました。
 俺とゲームプロデューサーの出会いの場面なんだなと思いました。
 そして当日、俺は指示されたとおり通用口に立ち、同じように指示された男た ちに言い掛かりをつけられる役を精一杯演じました。
 そして目の前にあの人が立ったとき、俺は演技も忘れて見入ってしまいました。
 LSSのプロデューサー本人の顔などは知りませんでした。ゲーム誌や関連の インタビュー記事を見ても、写真が出ているということは今まで一度もなかった のです。
 俺や友人たちはその人のことを典型的なゲームオタクの外見だから、写真を載 せられないんだぜと笑っていたくらいでした。
 最初俺は、別人を罠にはめたと思ったくらいです。
 俺の目の前にはモデルかと思うほどの美男子という形容がぴったりの男が立っ ていました。
 俺を襲う役の男たちはある程度戦ってから負けるようにと指示されていました が、そんな演技も必要ないくらい、あっけなくやられてしまいました。何かの武 道をやっていたのだなと思いました。
 彼もまた驚いたように俺を……、俺の顔を見つめていました。
 河北が俺に整形をさせたのは、この時のためなのだと気づきました。俺の顔が 前のままだったら、彼は俺など見向きもしなかったかもしれないでしょう。
 河北は彼が俺に興味を持ったようだと嬉しそうににやけていました。
 俺には彼が俺に興味を持った風には見えず、そういうと、河北は何故か大丈夫 だと自信満々でした。その根拠が何なのかは、その時の俺にはわかりませんでし た。ただ、彼の好みの顔というのがあるのだろうくらいにしか思っていませんで した。
 LSSのプロデューサーがゲイらしいということは少なからずショックでした が、もしこれでゲームの第2弾が出るのだとしたら、俺は仲間内に自慢できる、 その程度にしか興味のない事実でした。
 俺と彼の二度目の出会いも河北が設定しました。
 彼が退社する時間を見計らって、俺が出くわすという、俺にしてみたら嘘臭す ぎるものでしたが、これに失敗すると元も子もなくなると必死でした。
 河北の用意したプライベート用の名刺を渡し、社内から河北の指示通りのメー ルを送りました。
 こんなことで彼が乗ってきてくれるとは思えず、半信半疑でしたが、河北は他 からもアプローチしているから大丈夫だと、失敗を疑っていないようでした。
 そしてその通りに、彼からメールが来たのです。
 それは思いもかけず、彼の方からLSS2の試作品を見せてくれるという、河 北が狂喜乱舞する内容でした。
 こんなにもうまくいっていいものだろうかと思いましたが、河北は必死で俺に、 彼を誘う目だとか、話し方を教え込みました。
 その時の俺は、彼と擬似恋愛しているようなそんな気持ちになっていたのかも しれません。
 もう少しで成功する。500万。LSS2が出る。それは俺のおかげなんだぞ と自慢できる。俺が学校にも行かず、まともな職にも就いていないとバカにする 両親や兄弟に、新しいソフト会社の役員になって見返せる。
 何より、本当に彼に気に入ってもらたらと想像すると、河北の条件などは雲の 彼方にかすむような気もしていました。
 俺は必死でした。
 演技など忘れ、本当に彼に気に入ってもらおうと、必死でした。
 それに、LSS2の試作品だというまだ短いデモンストレーションはとても面 白く、高鳴る気持ちを沈めるのに苦労したくらいです。
「このゲーム、俺に下さい。ね? いいでしょ?」
 河北に言われた通り、俺は必死で誘いました。
 首を小さく傾げ、素面の俺が見たら吹き出すような精一杯の可愛い声を出して。
 けれど彼の顔はすっと無表情に冷たく変化したのです。目の前を氷のガラスで 隔てられたようで、その冷たさに身も心も凍えそうでした。
 俺は失敗したのだと、その時には気づく余裕もなく、河北が部屋に入ってきま した。
 河北は俺には自信満々であるように見せながら、俺が失敗した時の用意も抜か りなくしていたのです。
 そして俺はそのために用意されたのだと、河北の真の狙いを見せつけられまし た。
 俺の頬にナイフを押し当て、河北は彼に契約を迫りました。
 俺はまさか本気で河北が俺の頬に傷をつけるとは思いませんでした。だって、 整形までさせて作った顔なのです。
 けれど、そんな俺の一縷の望みも、河北にとってはまるで関係のないことのよ うでした。
 頬に冷たく、熱い痛みが走りました。
 俺はまさしく、ただの道具、彼の会社を設立するための駒でしかなかったので しょう。
「先生、……お願いします。助けてください」
 演技と思われたくなくて、俺は必死で彼にお願いしました。
 このままでは本当にナイフで切られるとぞっとしました。
 でも……、彼は冷えた目で俺の懇願をあっさりと拒絶されました。
「それはイミテーションだ。イミテーションが傷つけられようと、何も感じない。 どうとでもすればいい」
 彼の言葉と、本物を用意するという河北の次の作戦に、俺は俺の本当の役割を ようやく知ったのです。

 河北は本物を連れてくる、とまだ自分の成功を信じて疑ってはいませんでした。
 俺は彼の意識の隅にも入れてもらえず、河北にさえ役立たずと罵られ、かろう じて傷つけられる恐怖から逃れられて、放心状態でした。
 時間がまるで止まっているように感じられました。河北の思うような連絡も入 らず、イライラしているのがわかりました。
 俺はただぼんやりしていたのですが、真っ暗だった視界に、淡い光が流れるの を感じて視線を移しました。
 パソコンの画面に文字が現われ、流れるように消えていってました。
 俺には何かの遊びのようにしか見えませんでしたが、河北はそれを見るなり、 狂ったように彼に縋りつきました。
 彼はそれでも尚冷静で、余裕さえ感じられました。
 河北はもう半狂乱でした。そんな河北の目前でパソコンは勝利を告げ、河北に 犯罪者の烙印を押し、静かに退場したのです。
 みんなが呆然とその真っ黒の画面をただ見詰めているまさにその時、部屋の電 気が消えたのです。
 真暗な中、何がどうなったのかはわかりませんでした。
 バタバタと人の足音と、争う音、呻き声、河北の悲鳴や怒号。
 再び電気がついたときには、河北の部下は見知らぬ男たちに押さえ込まれ、河 北は少年に竹刀を突きつけられて、膝を突いていました。
「洋也!」
 そんな信じがたい光景の中へ、その人は入ってきたのです。
 一目散に彼へと走り寄って。
 まだ縛られたままの彼の縄を解こうとしていました。
「アキちゃん、そのまま連れて帰ればいいよ」
「大人しくなっていいかもよ」
 竹刀を持った少年や、彼に付き添って入ってきた綺麗な青年が、その人に楽し そうに話していました。
「もう、勝也も拓也君も、冗談言ってないで何か切るものない? 固くて解けそ うにないんだ」
 そういってふりむいたその人の顔を見て、俺は整形させられた本当の意味を知 りました。
 彼らもまた俺を見て、悲しそうな顔をしました。
 そんな顔で見るな。
 俺を見るな。
 今の俺を見るな。
 やめろ。
 俺は……俺は……。
 目の前に河北が落としたナイフが転がっていました。
 光る刃が俺に成すべきことを教えてくれているのです。
「本物が……」
 無意識のうちに口に出ていました。喋っているのが俺だとは思えないくらい、 遠くから聞こえるようでした。
「本物がなくなれば、……本物がいなくなったら、イミテーションじゃないんだ」
 俺はナイフを握り締め、新しい俺の顔めがけてナイフを振りあげました。
 自分の動きも、みんなの慌てる様子も、まるでスローモーションを見ているよ うでした。
 俺はただその人だけを目指しました。
 視界が揺れているのが自分の涙のせいだとは気づきませんでした。
 俺がされたように、傷つけてやる。それだけが俺を支配していました。
 その人の顔が傷を残せば、俺が本物になり、彼こそがイミテーションになれるの です。
 驚きに見開かれた目。何かを叫ぶ唇。俺とどこが違うというのでしょう。
 これさえ壊せば、俺が本物になれる。
 本物になるんだ。
 それが俺を突き動かしていました。
「秋良!」
「アキちゃん!」
「秋良さん!」
「安藤さん!」
 どうしてみんな、あの人を庇うのでしょう。
 どうして俺だと駄目なのでしょう。
 少年と青年にその人は守られました。
 何か布のようなものが俺の頭から覆い被さり、俺は視界を奪われました。
 でも、目標はただ一つでした。黒い視野の中でも、その人の位置が見えている ような気がしていました。
 何かが横からぶつかりましたが、俺はナイフを突き立てました。
 ぐさりと肉を裂く手応えと、刃先が固いものにあたる感触。
 しんと恐ろしいほど何も音がしなくなりました。
 そして悲鳴が空気を切り裂きました。
 俺は頭の布を剥ぎ取りました。
 涙で霞んだ視界に、紅だけが鮮明に映りました。
「あぁぁぁぁぁぁ!!」
「アキちゃん、駄目だ。ナイフを抜いちゃ!」
「救急車より私の車で運びます。県立病院ならそのほうが早い!」
「的場先生に連絡入れます!」
 あの人の悲鳴だけがいつまでもいつまでも聞こえてました。
 涙で霞んだ視界に、紅だけが鮮明に映り、涙は流れ続けるのに、口からは笑い 声が零れていました……。



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