家で待機している正也から「終了」の合図を受けた男たちは、鍵を特殊な工具 で開き、音もたてずに部屋の中へ入っていく。
「秋良さんはまだ僕とここにいて」
 拓也の潜められた声に、秋良は息を飲み込むように頷いた。
 秋良が玄関に入ったところで、誰かが部屋の灯りを消した。
「誰だ!」
「何をやってる!」
 中から荒々しい声が響き、秋良は身体を強張らせる。この中に洋也がいる。勝 也は後ろも振り返らずに飛び込んでいった。
 二人の身に危険はないのだろうか。自分もしっかりしなくてはと思うのに、身 体は小刻みに震えてしまう。
「大丈夫だから」
 拓也が気遣って背中に隠してくれるが、秋良は自分も中へと踏み込んで洋也を 助けたいという気持ちでいっぱいだった。けれど、どうしても身体が強張ってし まう。
 部屋の中からはバタバタと足音や何かがぶつかるような音が響き、誰のものか わからない呻き声も聞こえてきた。
「オーケー、電気つけて」
 勝也の声が聞こえて、秋良は勝也の無事だと知り、ほっとする。
 拓也は廊下の端にあるブレーカーのスイッチを入れた。
 瞬くように明かりが灯り、秋良は眩しさに瞬きをするが、部屋の隅で縛られて いる洋也を見つけた。
「洋也!」
 秋良は慌てて洋也に駆け寄った。
 洋也は秋良がここまで来たことに驚いているようだったが、それでも秋良の顔 を見ると僅かに唇の端に笑みを形造る。
 秋良は必死で手首の戒めを解こうとするが、固く結ばれているのと、秋良自身 まだ震えが残っていて、一向に縄は解けそうになかった。
「アキちゃん、そのまま連れて帰ればいいよ」
「大人しくなっていいかもよ」
 勝也や拓也がからかうように言うが、秋良はそれでも何とか解こうと固い縄へ 爪を立てる。
「秋良……」
「もう、勝也も拓也君も、冗談言ってないで何か切るものない? 固くて解けそ うにないんだ」
 洋也が何かを言おうとするのを遮るように、秋良は2人へと話題を振る。
 秋良が洋也から視線を外し、室内を見回したとき、高畑と目が合ってしまった。
 秋良はあまりにも自分と似ている高畑を見て驚きに目を見張るが、すぐに悲し そうに視線を外した。
 一昨日、秋良の元にやってきた男、いま勝也に木刀で肩を押さえられている男 が、高畑と洋也が楽しそうに話をしている写真を見せに来た。
『ミツヤ先生のために身をひいてはくれませんか?』
 貴方でなくてもいいんだという河北の言葉を信じたわけではないが、その写真 を見せられて平静な気持ちでいられるわけがなく、秋良は家を飛び出した。
 その時の喧嘩や、鳥羽の態度から洋也は最初から秋良を追い出したいと思って いたのかと疑ったこともあった。
 けれど完全に疑うことはやはりどうしてもできずに、それでも何かを隠されて いるという動かしがたい事実だけは残り、秋良を惑わせてきた。
 自分そっくりの男を目の前にして、秋良は洋也もまたこうした陰謀の中へと否 応なく引き摺り込まれたのだと悟った。
 そして高畑の打ちのめされた姿に、彼も利用されたに過ぎないと知った。
「見るな……、そんな目で……、俺を…………みるな」
 高畑の呟きはほとんど聞き取れなかった。
 目に涙をいっぱいに浮かべ、彼はよろけながら立ち上がった。
「本物がなくなれば、……本物がいなくなったら、イミテーションじゃないんだ」
 涙に濡れた目は、狂気を孕んで秋良だけを見ていた。
 秋良は高畑の手にナイフが握られているのを見て、背筋に冷やりとした恐怖が 走る。自分に向けられた刃先がきらりと光る。逃げなければと思うのに、身体は 縫い付けられたように動かない。
「秋良!」
 洋也が逃げろと秋良の名前を叫ぶ。
「アキちゃん!」
「秋良さん!」
 勝也と拓也が迫り来るナイフから秋良を庇うように覆い被さってきた。
「安藤さん!」
 島永は自分の上着を高畑の視界を奪うように頭へと投げかけた。
 勝也と拓也に被さられて倒れていく視界の隅に、洋也が高畑へと体当たりして いくのが映った。
「洋也!」
 危ないと叫ぶ声とダメだと伸ばした腕は、二人と共に倒れてしまい、届かない。
 洋也と高畑がぶつかるのは見えた。
 ぐさりと肉を裂く音が聞こえたような気がした。
 光ナイフの刃は紅い液体へと沈む。
「あぁぁぁぁぁぁ!!」
 秋良はその悲鳴が自分が発しているものだとはわからなかった。
 その光景が信じられなくて、秋良は叫ぶ。
 洋也の太腿に、そのナイフは突き刺さっていた。
 洋也は眉間に深い皺を寄せ、まだ自由にならない身体を折り曲げていた。
「アキちゃん、駄目だ。ナイフを抜いちゃ!」
 洋也の痛みが自分に乗り移ったように、秋良は震えながら、そのナイフを抜こ うとしたが、勝也に止められた。
「だって!」
「ナイフが血の栓をしているんだ。動脈やられてたら大変だから、抜いちゃだめ なんだよ」
 勝也に両手を掴まれる。
「救急車より私の車で運びます。県立病院ならそのほうが早い!」
 島永がドアを飛び出していく。
「的場先生に連絡入れます!」
 拓也が携帯で連絡を取る。
「洋也……」
「大丈夫だから」
 秋良は震えながら倒れた洋也の目の前に座りこむ。
 電話を終えた拓也が洋也の縄を解き、その縄で太腿の付け根を縛る。
「立てる?」
「肩を貸してくれ」
 勝也の肩を借り、洋也は車を回して戻ってきた島永に、男たちの処分を任せる と頼んだ。
「河北。N社は本日付けで懲戒免職だ。中垣内はお前の裏切りをずいぶん前から わかっていた。それでも長年のお前の功績を信じようと今まで様子を見ていたん だ」
 洋也の口から出るN社の社長の名前と洋也の親しそうな呼び方に、河北は呆然 と立ちすくむ。
「N社がどうしてミツヤヒロムを使えたのかずっと不思議だったけれど、そうい うわけですか」
「中垣内は私のやり方を尊重してくれる。出す気持ちのない続編を無理に出させ るような真似など絶対しない」
 洋也の説明に、河北は失笑する。
「それでも私は、そんなやり方は、ぬるいと思いますがね」
 洋也はそれには返事をせずに、部屋を後にした。






 肉に食い込むナイフの刃の冷たさより、刺された足の焼けつくような痛みより、 秋良が自分を見ようとしない事実が洋也には苦しかった。

「うわー、ぐっさり」
 的場は運ばれてきた洋也を見るなり、とても楽しそうにナイフの刺さった足を 見た。
「骨まで入ってそう?」
「……多分」
 洋也は痛みより疲れを感じてしまってぼそりと返事をする。
「レントゲンの用意して、止血、点滴と縫合の用意」
 嬉しそうな表情はとりあえず引っ込めて、的場は医者の顔になりテキパキと指 示を出していく。救急処置室に洋也は運ばれ、付き添いの秋良たちは廊下で待つ ことになった。
「アキちゃん、座ろう。レントゲンとか縫ったりとか、時間かかるかも」
 無言で唇を噛み締める秋良の肩を抑えるようにして、勝也はようやく廊下のベ ンチに秋良を座らせる。
「大丈夫だって。もう病院まで来たんだからさ。後は縫ってもらえばいいだけだ から」
 秋良は膝に肘をつき、祈るように手を合わせ、その手を額に押し当てている。 その手はずっと小刻みに震えていた。
「治療する前にもう一度会わせてもらう? 的場先生に頼んでみるよ」
 勝也の励ましに秋良は顔をうつぶせたまま横に振った。
 慰めや励ましの言葉、かけるべき言葉をなくして、勝也は秋良の肩にそっと手 を置く。
「…………て」
「なに?」
 秋良の囁くような声が聞き取れず、勝也は秋良を覗き込んだ。
 秋良が泣いているのではないかと心配だったが、秋良は再びきつく唇を閉じて いた。
「大丈夫。すぐにヒロちゃん、元気に出てくるって」
 勝也が励ましたとき、廊下の向こうから拓也がやってきた。
「ヒロちゃんは?」
「今先生が診てる。家に連絡した?」
「いや。朝になってからでいいよ。命に別状はないんだし母さんに心配かけたく ない。秋良さん、大丈夫?」
 秋良は微かに首を縦に振る。
 思いつめた様子に拓也は勝也を見た。勝也は力なく首を横に振る。
「秋良さん、ごめんね。僕が守るっていったのに」
 拓也は勝也と反対の位置に秋良を挟んで座る。拓也が謝ると秋良はまた僅かに 首を横に振る。
 今にも倒れそうな秋良の様子に、拓也は気づかれないように溜め息をついた。
「データの方はどうしたんだろう」
「正也が保存してすぐに出せるようにしてくれているはずだけれどな。あとはこ っちの足跡を消すだけだけど、現場を押さえたんだから、それも必要ないとは思 う。告発するかどうかは……、中垣内さん次第かな」
「……どうして」
 拓也の説明に勝也が納得しかけたとき、秋良が顔を上げて問いかけた。
「どうしてって?」
「洋也は刺されたのに、どうして告発しないのさ……」
「アキちゃん……。元々ヒロちゃんはどんなことになろうと、河北というあの男 を警察に突き出す気はまったくなかったんだよ。N社のために」
「中垣内さんっていうのはN社の今の社長でね、ヒロちゃんの友人らしい。河北 を告発や告訴をすれば、どうしたってN社には傷がつくから」
 二人の説明に秋良は口を噤んだ。
「ヒロちゃんからまた説明を聞くといいよ。ヒロちゃんは秋良さんを守るために 必死だったから」
「あんまり考えすぎないで。ね?」
 二人の慰めが苦しくて、秋良はただ黙って床を見つめた。
 ついにかける言葉を失い、勝也と拓也は秋良を挟んで黙り込んだ。重い沈黙が、 時間の進みまでも遅らせているように感じられた。

「傷害事件の場合は、警察に届けるのが義務なんだかな」
「自分で刺したんです」
 的場の指摘に洋也はあっさりと答える。
「まだ秋良君に刺されたとかいうほうが真実味がある」
「秋良は関係ありません」
「あんなに真っ青な顔で座り込んでいるのにか」
 的場の突っ込みに、洋也は黙り込んだ。
「秋良君以外にお前が庇う相手なんていないだろうが」
「自分で刺したんです」
「器用だな。自分ではここまで深く刺せない」
「僕にはそれ以外に答えはありません」
「なんかさー、刺した奴、警察に連れてった方が安全な気がしてきた」
 つまらない冗談を言う的場を洋也はじろりと睨んだ。
「おー、こわ。ギザギザに縫うぞ」
「どうぞ」
「まっすぐ綺麗に縫ってやるよっ!」
 ちっと舌打ちをして、的場は傷の縫合にかかる。もちろん洋也が自発的に警察 に訴えない限り、的場から通報するつもりはなかったが、廊下にいる怪我人の恋 人が気にかかるのだ。
 的場自身は直接的に彼を診察したことはないが、カルテだけはチェックさせて もらっていた。
 あのままではまた胃を悪くするのではないかとそれが心配だった。
「笠原先生に連絡取るか?」
 傷を縫いながら洋也に尋ねる。
「いえ、まだそこまでは」
「わかった」
 傷自体は麻酔が効いているので今はもう痛みはない。だからこそ胸の苦しみが 重くなる。
 早く秋良の顔を見て、大丈夫だからと伝えたい。
 現場に飛び込んでからも、ここに来る車の中でも、秋良は洋也を見ようとしな かった。
 刺された時だけは悲鳴を上げ、洋也を見た。けれど目が合ったわけではない。 それは洋也の無事を確かめただけに過ぎないように感じた。
 そして一度きり顔を見た後は、また洋也を避けていた。
 早く言葉をかけなければ、秋良に手が届かない。その焦燥に身を焼かれていた。
 傷などはどうでもいい。それよりもまず、秋良と話をしたかった。しかし手当 てもせずに秋良のところへ行けば、心配をさせるだけだとできぬ我慢を重ねてい た。
「よし」
 的場は縫合を終えると、後のことを看護師に任せて処置室を出て行った。

 ドアを出てきた的場に勝也と拓也が立ち上がる。秋良はゆっくりと顔を上げた。
 的場は疲れきった秋良の顔を見て洋也のばかやろうと心の中で罵る。そして洋 也に隠れてでも笠原を呼ぶべきだったと後悔する。
「傷自体はたいしたことない。動脈や神経は逸れていた。ナイフはかなりの力で 入ったようだが、骨がそれを止めたので大事に至らなかったといえるんだが、骨 に刃が当たっているから、折れてはいないんだが、明日もう一度骨の方の詳しい 検査をしたい。動きを見ている限りは心配ないと思うが念のためだな。だから今 晩は入院だな。明日の検査で異常なければ退院だ。多分、何も問題なく退院だよ」
 日頃の口の悪さを隠して、秋良に丁寧に説明をする。
 秋良は表情を変えずにその説明を聞いた。
「後遺症が残るなんてことは」
「ないな。ま、言い方は悪いが、肉だけを綺麗に切ってくれたって感じだ」
 それを聞いて秋良はのろのろと立ち上がり、ゆっくりと頭を下げた。ありがと うございましたというか細い声が途切れがちに届く。
「もう会えるぞ。病室に行くまでに会うか?」
 秋良はゆっくり首を横に振った。
 的場は勝也に視線を移す。反対に勝也から何とかしてと見つめられて、的場は ポリポリと顎を掻く。
「もうすぐ出てくるから」
 あっと睨む勝也の非難の目を避けて、的場は処置室へ戻った。
「アキちゃん、行こう。きっとヒロちゃんもアキちゃんに会いたいと思うよ」
 勝也はそっと秋良の背中を押す。が、秋良はその手からするりと逃げた。
「アキちゃん?」
「今は……今は洋也と顔を合わせたくないんだ……」
「アキちゃん」
「ごめん。入院の用意だけはしてくるから」
「アキちゃん!」
 バタバタと走る秋良の背中に声をかけるが、それは秋良に拒絶されたように、 細い影は廊下を曲がってしまった。
「タクちゃん、アキちゃんを……」
 今秋良を守るためなら、車を運転できない自分よりは、拓也の方がいいだろう。 荷物を作るといったのなら、こちらに戻ってくる足も必要である。
「わかった」
 拓也が秋良の後を追う。
 だが、勝也はただ怖かった。洋也の元から走り去る秋良を追うのは怖かった。
 秋良の壊れていく様子を見るのは……二度と見たくないという防衛本能が働い たのかもしれない。







 一人で眠る病室へ入院用の荷物を持って現われたのは弟の勝也だけだった。
 ある程度の覚悟をしていたとはいえ、洋也は絶望に胸を締め付けられる。
「あのさ……」
 言い澱む勝也に、洋也は目を閉じて「わかってる」とだけ答えた。
「どうするんだよ」
 どこか非難をこめた勝也の詰問に、洋也は目を閉じたまま答えない。
 勝也は仕方なく荷物をベッドの足元に置いて、脇の椅子に乱暴に座った。
「帰っていいぞ」
 洋也は静かに告げる。
「アキちゃんに頼まれたんだよっ」
「確かめにこないさ。傍にいられると眠れない」
 勝也は頭をガシガシと掻き、座った時以上に乱暴に立ち上がった。
「俺、最初から反対だったんだ。あんな……アキちゃんだけを蚊帳の外に出すや り方」
「うるさい」
 勝也は目も開けようとしない兄に焦れて、足音荒く病室を出て行った。
 ドアがバタンと閉じ足音が遠ざかって、辺りが静かになってから、洋也はゆっ くり目を開けた。
 ただ静かに白い天井を見つめ、唇を噛み締める。
 一人病室に取り残されても、洋也は自分のこの計画が間違いだったとは思わな い。
 傷ついたのが自分で良かったとすら思っていた。
 けれど、全てを失くしたようなこの喪失感は、何をどのように後悔しようとも、 拭いようがなかった。
 秋良が今ここにいない。その事実だけが重く洋也にのしかかっている。
 秋良を守りたい。全てのことから。
 あの純白の心に一点の染みすら落としたくない。
 秋良を守るためならどんなことでもするし、どんな危険も怖くはなかった。
 ただそれだけだったのに……。

「お前、洋也さんが心配じゃねーのかよ」
 秋良は一言も喋らずに、鳥羽の部屋でミルクを抱きしめていた。ミルクは秋良 の沈んだ様子に、顔を上げて必死で泣き声を上げているが、秋良は何度も何度も 黙り込んだままうつろに背中を撫で続けている。
 鳥羽の咎める声に、秋良は唇をきゅっと引き締め、答えるのを拒む様子を見せ た。
 病院から戻ってきた秋良は、洋也の入院の荷物を整えると、それを勝也に託し て、自分は鳥羽のところへと戻ってきたのだ。
 鳥羽は何度も秋良に洋也に付き添うようにと勧めたが、かといって秋良を追い 出したりすれば、どこへ行くのかわからないという不安がよぎったので、仕方な く秋良を再びこの部屋へと引き取っている。
 何も喋らない秋良に、鳥羽は深い溜め息をついて、腕を引っ張り無理矢理に立 たせた。
「とにかく、お前も疲れているんだから眠れよ。明日も学校だろっ。しっかりし ろよっ、安藤先生」
 秋良を立たせてベッドへと引っ張っていく。
「ほら! 明日はちゃんと洋也さんを迎えに行けよ! 気にいらねーことがある んなら、大声出して喧嘩しろっ。いいなっ!」
 鳥羽は秋良に怒鳴るように言いつけて、寝かせようとした。
「だって……」
「あぁ?!」
 ようやく秋良が発した一言を、鳥羽は聞き咎める。
「だって、洋也は僕が怒っても、謝るだけで、僕のことなんか、相手にしないん だよ!」
「そりゃお前が大切だからだろ。だから謝ってくれるんだろうが」
「違う……、違うよ」
 秋良はミルクの方を見て首を振った。
「何が違うんだよ。俺にはわからねーよ」
「いいよ、もう」
「俺に言っても無駄だからな。お前がそれを言う相手は洋也さんだ」
「鳥羽のバカ」
「バカはお前だ。ほんとにバカだよ。お前はここで洋也さんを待ってれば良かっ たんだ。みんなの心配をかいくぐりやがって」
 鳥羽は子供を叱るような口調で秋良を責めた。
「それが許せないんだ!」
 秋良らしくない強い口調が、鳥羽の言葉に抵抗する。
「どうして!」
「鳥羽には……、みんなにはわからない……」
「決め付けるなよ」
「決め付けてるのはそっち……、ううん、洋也だよ」
 秋良はミルクを床に降ろし、ベッドへと潜り込んだ。
「おい、秋良」
「ごめん。もうしばらく……ここにいさせて」
 布団に潜り込んだ秋良が弱々しく頼んでくる。
「明日は帰れ」
「昨日はいつまでもいろって言ったじゃないか」
 押し問答になってしまい、鳥羽は勝手にしろと捨て台詞を吐いて、鳥羽は部屋 の明かりを落とし、自分はリビングのソファへと寝転んだ。

 それぞれが眠れぬ夜を過ごし、秋良は学校へと出勤した。
 子供たちに囲まれていればたいていの嫌なことは忘れてしまえる。
 疲れきっている身体と精神でも、なんとか一日を乗り切れる。
 さすがに洋也の怪我のことは気がかりで、勝也にメールで尋ねると、「元気にし てる」とだけの短い返事がきた。
 今日はきっと母親が迎えに行ってるだろうと、秋良は自分の後ろめたさを隠す ためにそう思うようにして、鳥羽のマンションへと帰った。
 また帰れと言われるだろうし、いつまでもここに世話になるわけにはいかない ことも理解しているが、ここ以外に頼れる場所もなく、結局は鳥羽の好意に甘え るだけしか秋良には選択肢がない。
 鳥羽の部屋まで帰り着くと、ドアの鍵は閉まっていなかった。
「ただいま」
 鳥羽が先に帰っているものと思って部屋にあがるが、秋良が戻ると駆け寄って くるミルクがやってこない。鳥羽に餌でも貰っているのだろうかとリビングに足 を踏み入れた秋良はそこに意外な人物を見て固まる。
「洋也……」
 ミルクは洋也の膝で背中を撫でられて眠っていた。洋也がいないことを寂しが っているのはわかっていたので、久しぶりに会った洋也から離れられないのだろ う。
「おかえり」
「足、……大丈夫なの?」
「あぁ、もう痛みもない」
「骨の検査は?」
「異常無しだった。……秋良」
「帰らないよ」
 洋也が何かを言う前に、秋良は宣言してしまう。今もまだ洋也を見れない。洋 也を見たら、感情的に、思っていることの全てをぶちまけてしまいそうだった。
「僕が悪かった。すまなかったと思う。……帰ってきてほしい、秋良」
 洋也の言葉は声の調子でそれが本心だとわかる。けれど秋良は沸き立つ怒りに 身体が震えてしまいそうだった、
「何が悪かったと思ってるの。洋也は何に対して謝ってるの!」
 秋良の強い口調に、ミルクがぴくりと身体を震わせ起き上がる。床へ下り、 秋良の足元で抱き上げてくれと鳴き始めた。
「秋良、僕はあの青年に対して秋良の面影を重ねていたとか」
「そんなことじゃないっ!」
 秋良の叫び声にミルクは鳴くのをやめて、部屋の隅へと駆けていってしまった。
「確かに僕にあの子と洋也の写っている写真を持った人が来て、僕に身を引けっ て言ったよ。僕なんて、洋也のお気に入りの一つで、代わりなんていくらでもい るって。若い方が洋也もいいだろうって」
「秋良」
「でも、そんなこと、信じないよ。信じるわけないよ。あの時、僕が洋也に聞い たのは、洋也が何かを隠してると思ったからだよ。あんな風に聞けば、教えてく れるんじゃないかと思ったからだよ。でも、洋也は僕を追い出した」
「それは」
「わかってるよ」
 秋良は洋也に言葉を継がせようとしなかった。洋也の説明を聞けば、それで絆 されてしまう自分が怖かった。
 謝られて、大切にされて、そこから進むことのできない自分たちが怖い。
「わかってるっ。洋也は僕を守りたかったんだよね。僕を遠ざければ、それで怖 いものから隠せる。僕が前みたいに不安に怯えて、何も分からなくなるっていう 心配もない」
 およそ的確に洋也の気持ちを捉えている秋良の怒りを、洋也はもはや口を挟む こともできずに見つめていた。
「だけど僕は洋也にとって、何なの? 危険から遠ざけるために家の中に閉じ込 めて、膝の上に抱き上げて、怖くないよ大丈夫だよって撫でて貰って、籠の中で 眠らせて、ただただ守るだけの存在なの? 僕は何も心配せずに、洋也の帰りを 待っていればいいだけなの? 僕は……、僕は……、ミルクじゃない」
 最後は涙を堪えるためか、秋良は唇を震わせて洋也を詰った。
「洋也はいつまであの時の僕の幻影に怯え続けるの? 僕はあの時の弱いままの 僕じゃない。洋也と一緒にいるために強くなろうと思ってる。でも、洋也はいつ も僕に怯えてる。あの時の僕を恐れてる。僕は……僕は変わっているのに」
 秋良の言葉一つ一つが槍のように洋也の胸に突き刺さった。
 わかっているつもりだった。秋良は自分より強い。秋良の芯の強さが自分を癒 してくれていることも理解しているつもりだった。
 けれど、それは「つもり」に過ぎず、真の理解へは到達していなかった。
 それを指摘されて、洋也は言い訳もできずに秋良の言葉を受けている。
「昨日、鳥羽に僕がここにじっとしていれば良かったんだって言われた。僕がそ うしていれば、洋也も怪我しなくて済んだんだろうなって、僕も思う」
 洋也は首を振って秋良の言葉を否定する。
「でも、説明してほしかった。僕は洋也の仕事のこと、ほとんど理解できない。
でも、説明くらいはしてほしい。一緒に暮らしていくって、そういうことじゃな いの? もしも危険なら、家にいるのが危ないと思うんなら、説明してくれてい たらよかったんだ。それなら僕もここにじっとしていたし、島永さんの事務所の 人と一緒にいたのに。……何も話してくれないから、……不安になるんだ。…… 洋也にとって、僕はミルクと同じ存在なんだろうかって。……僕だって、洋也の そばにいて、洋也を守りたいのに!」
「秋良!」
 堪えきれない涙が零れ落ちていくのを見て、洋也は秋良を抱きしめた。立ち上 がるときに足に痛みが走ったが、そんなことは気にもならなかった。今傷口が開 いてたとしても、秋良の心の痛みに比べれば些細なことでしかない。
「洋也のバカッ!」
「すまない、秋良……。許してほしい。……もう秋良に隠したりしない。どんな ことも」
 何があっても離すまいと洋也は強く秋良を抱きしめる。
「今度は絶対絶対許さないからっ!」
「もう二度としない。約束するよ」
 今度は許さない。つまり今回に限り許してもらえる。
 洋也は自分の腕に秋良が戻ってきてくれたことをかみしめて、秋良の細い身体 をしっかり抱きしめる。
 そんな二人の足元へミルクが戻って来て、抱いてくれと鳴くが、ミルクのその 願いは心配した鳥羽が様子を見に帰ってくるまで叶えられることはなかった。



END