鳥羽のマンションの一夜を明かした秋良は、よく眠れなくて軽い頭痛を感じて いたが、それを無視するように朝の支度を始める。
「おい、大丈夫か。あんまり眠れてないんだろ」
 鳥羽の心配に力なく笑って、「休むほどじゃないよ」と返事をした。
「なぁ、今日、少し遅くなってもいい? ミルクのこと、少し見ててくれる?」
「ああ、いいぞ。でも、洋也さんと話するなら、猫も連れて行けば?」
「違うよ。あー、でも、ミルクも連れて行こうかな。そのほうが部屋を見つけや すいかも」
「部屋?」
 秋良の言葉に、鳥羽は眉間に深いしわを寄せる。
「ペットも一緒に入れる部屋を探さないと」
「な、何言ってるんだよ。部屋探すってどういうことだよ。洋也さんが迎えに来 るまでここにいりゃあいいじゃねーか」
 鳥羽の驚きに秋良は寂しそうな笑みを浮かべる。
「迎えになんて来ないよ。ミルクを連れて出て行けって、荷物は運ぶって言った んだよ」
 その言葉を思い出したのか、秋良は泣き出しそうになり、慌てて唇を噛み締め る。
 白い猫が足元に歩み寄り、慰めるように可愛い声で鳴く。
「それくらいのことで決め付けるなよ。三日くらいここでゆっくりしていけよ。 そしたら向こうから迎えに来るってば」
 鳥羽の説得に頭を左右に振った秋良だが、ふと顔を上げる。
「なんか、おかしい、鳥羽」
「な、何が」
 秋良の揺れる瞳が鳥羽を捕らえる。
「いつも、早く帰れとか、僕に謝れとか、……いつもそう言うのに」
「そ、そうか? まあ、今回は、ちょっと深刻そうだったからさ。ほら、遅れる ぞ、学校行くんだろ。俺ももう出なくちゃ」
「ちょっと待てよ、鳥羽。洋也もおかしかったんだ。だって、わざと僕を怒らせ たように思える。出て行くときも引き止めなかったし」
「なんだよ、引き止めて欲しかったのか? だったら、出てくんなよ」
 鳥羽に痛いところを指摘されて、秋良は押し黙る。
「ほら、急がないと遅刻だろ。とにかく、部屋探しはまだだ。いいな?」
「探してくる。ここのマンションだって、ペット禁止だろ。鳥羽が追い出された りしたら困るし」
「おい、秋良!」
 あとはもう鳥羽が引き止めるのも聞かず、秋良は鳥羽のマンションを飛び出し た。
「みんなにわがまま言ってるよな……」
 深い溜め息をついて、秋良は駆け足のスピードを落として、歩き始めた。
「だって……、洋也が……」
 自分でも何を責めているのかわからなかった。


「先生、どうぞ!」
 高畑の元気な声に押されるように、洋也はそのマンションの一室に足を踏み入 れた。
 大学の生の一人暮らし用とは思えない、広いマンションだった。
 マンションというよりは貸しビルで、表の集合ポストに表記されていたのは、 そのほとんどが会社名だった。
「ここは、君の部屋か?」
 洋也の質問に、高畑はハイと機嫌のいい返事をする。
「親が借りていたんですけどね。転勤で遠くへ行ってしまったんです。で、俺が 住むことにしたんです。親はこっちに戻ってくるつもりらしくて、いったん手放 すと、こういう物件って、高くなるし、取り戻せないって言うんで」
 もっともらしい説明をして、高畑はこっちですと、玄関から廊下を進んだ奥の 部屋のドアを開けた。
 なるほど、そこは男子学生らしい部屋作りになっていた。
 窓際の机には、パソコンが置かれている。
「これで、できます? 普通のXPなんですけど」
 高畑はデスクトップのパソコンのスイッチを入れた。
「ああ、十分だ」
 洋也はカバンからCD−Rを取り出した。ケースからディスクをはずして、嬉 しそうに手を差し出している高畑に手渡した。
「ドキドキします」
 高畑は秋良に良く似た笑顔を洋也に向ける。
 その笑顔を見て、洋也の胸は痛みを覚える。じわりと全身に広がるような、鈍 い痛み。
 その痛みは、これで本当に、秋良を手放してしまうかもしれないという恐怖の 痛みでもあった。
 ディスクをセットすると、パソコンが起動音を出し、画面が一瞬真っ暗になる。
 そして、中央にサーベルをメインにデザインされたゲームのイラストとロゴが 現われた。
「わぁ……」
 高畑が感嘆の声を上げる。
「俺、プレイしてもいいですか?」
「もちろん。そのために持ってきたんだから」
 洋也の返事に、高畑は「やったー!」と喜んで、マウスを握った。
 キーボードとマウスを使い、主人公の設定を済ませ、冒険へと旅立たせる。
 画面を見つめる高畑の表情を見ていると、純粋にこのゲームを楽しんでいるこ とがわかる。
 大きな目がくるくると、画面を追う。ときおり、「あっ」とか「やれっ」とか、 掛け声をかけている。
 ゲームにのめりこんでいる彼は、そばに洋也がいることさえ忘れているように 思えた。
 まだ慣れないからか、彼は比較的最初のステージで、ゲームオーバーを迎えて しまった。
「あぁー、やっぱり難しいなぁ。先生のゲームは選択肢が複雑ですよね。絶対先 を読ませないって言うか」
 キラキラした表情で感想を言われると、洋也は複雑な気持ちになった。
 自分がここまで来たのは、この笑顔を見たかったからだろうか。
「先生?」
 洋也が無言で見つめていると、高畑が不安そうに洋也を見返してきた。
「あぁ、すまない。気に入ってもらえたかな?」
「はい、とても。これ、……本当に売り出すつもりはないんですか?」
 残念そうに聞かれたが、洋也は頷いた。
「キャラクターだけで売るゲームは作りたくないんだ」
「でも、ファンはそういうゲームもやりたいもんなんですよ」
「少なくとも、N社はそういう方針じゃない」
 元となるゲームを売り出したゲーム会社の名前を出すと、高畑は目を輝かせる。
「じゃあ、このゲーム、俺に下さい。ね? いいでしょ?」
 小首を傾げる様に見つめられ、可愛い声でねだられる。
 これが……、秋良なら……。
 洋也はふっと小さく笑ってしまった。
「いいでしょう?」
 秋良ならしないような媚。
「ね、先生……」
 高畑のねだる唇に、洋也は笑みを完全に消した。
「駄目だ」
 その冷たい声に、高畑は何を言われたのかわからないように戸惑いの表情にな る。
「先生?」
「それは、商品化するつもりは、ない」
 洋也のきっぱりした返事に、高畑は泣き出しそうな顔をして、一歩、また一歩 と洋也から離れる。
「どうしても?」
「どうしても」
「何があっても?」
 悲しそうに見つめられる。
 これが秋良なら……、そう考えて、洋也はその考えを否定する。
 そう、秋良はこんなことは言わない。
「何があっても」
 バタンとドアが開いて、河北が顔を出した。
「あまり驚かれないようですね」
 相変わらずな営業スマイルで、部屋に入ってくる。背後には屈強そうな男を三 人従えて……。







「あまり驚かれないようですね」
 隙のない営業スマイルで、河北が部屋に入ってくる。背後には屈強そうな男が 三人。
「動かないで下さい。先生が案外強いことは、ゲームショーの時に確かめさせて もらいました。あの時は頼りない奴らでしたが、今回は腕に覚えのあるものばか りです。念のために武器も持たせました」
 その言葉と共に、男たちは折りたたみ式の警棒を取り出し、伸ばして構える。
「何が望みだ」
「簡単なことです。そのゲームを売ってください。あぁ、もちろん、先生にも契 約料金はお支払いしますよ。今まで通り」
「N社にか? 君にか?」
「私に、です。私はN社から独立するつもりです。そのための目玉の商品が欲し いんでね。あのゲームの続編なら、文句なしですよ」
「断れば?」
「それは言わなくても、おわかりでしょう。ここに契約書があります。先生はサ インしてくださるだけでいい」
 河北に顎で指図されて、高畑は洋也に一枚の書類を持ってきた。
 それを受け取り、さっと目を通す。
「なるほど、N社から今までのゲームの権利も取り戻させるつもりか」
 契約書には今まで洋也が手がけたN社でのゲームのすべての著作権の委譲まで が書かれていた。
 N社との版権解除の手続き書類までも含まれている。
「そうです。独立する限りは、成功したいのでね」
 洋也はその書類を目の高さに上げ、二つに引き裂いた。
 河北の目が怒りに塗り替えられる。
「N社に義理をたてる理由など先生にはないでしょう」
 声までもが低く塗り替えられる。
「私の方に来れば、今まで以上の待遇も考えています。何しろ先生はわが社の看 板になる方なのですから」
 だが洋也は、眉一つ動かさず、冷たい視線で河北を睨むだけだった。
 河北は「やれ」と三人に命令する。
 二人に両手を掴まれ、背後から喉に腕を回された。それでも表情を歪めない。
冴え冴えとした目で、前に立つ男を蔑む。
「そんな余裕がいつまでもちますかね」
 河北の方が余裕をなくし、洋也を睨む。
「好きにすればいいだろう。だが、決して私は首を縦には振らない」
 凛とした声に、河北が憎々しげに唇を歪める。
「では先生。大切なものが傷ついていくのを見たいのですか?」
 河北の目が鈍い光を放った。
「大切なもの?」
 洋也が繰り返すと、河北はここぞとばかりに勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「これですよ」
 河北は高畑の腕を引っ張った。河北には当然のことでも、高畑は聞いてなかっ たらしく、不安そうに河北を見た。
「先生は彼のことがお気に入りだ。ゲームショーの時にわかりましたよ。彼の顔 を見ていたでしょう。何にも興味を示さない先生が珍しいことだと思い、調べさ せていただきましたよ。ついでにこいつを先生に近づけるために、美味しい話を ちらつかせて雇い入れました。それは、こんな風に利用する目的もあったんです」
 河北の合図に、男の一人がポケットから折り畳みナイフを取り出した。
 パチンと音をたてて、ナイフの刃が飛び出す。
 それを見て高畑が怯えたように、河北と洋也を見比べる。
「この顔がお気に入りでしょう。どうですか、先生が了承してくださらないのな ら、彼の頬に傷が残ることになりますよ」
 男は恐怖に動けないでいた高畑を軽々と片手で抑え、頬にナイフの刃を押し当 てる。
 秋良に似た柔らかそうな頬に、ナイフの影が濃く映る。
「どうです? 契約書はすぐに作り直せます。サインをしてくださいますね?」
「…………先生」
 秋良によく似た目が、縋るように洋也を見つめる。助けてという視線は、まる で秋良そのもののように見えて。
「あの顔に傷つけたくはないでしょう? さあ、先生。私の会社に来てください ますね?」
「やればいいだろう?」
 洋也の冷たい声に、河北は何ですって? と聞き返した。
「やればいいだろう。彼が傷つこうがどうしようが、私には関係ない」
「先生!」
 高畑は驚きながらも、助けてくださいと悲鳴を上げる。
 逃げようともがいたのか、助けてもらおうと身をよじったのか、高畑の身体が 動いたために、ナイフの鋭い切っ先が頬の薄い皮膚を少し傷つけ、刃に添って赤 い筋が流れる。
「強がりはやめなさい。彼は確かに私の要請であなたに近づきましたが、彼自身 は今回の独立には無関係ですよ。純粋な先生のファンだ。しかも、あの顔は好み なんでしょう? いいのですか? 傷ついていきますよ?」
「先生、……お願いします。助けてください」
 二人の声に洋也はふっと笑いを漏らす。
「私は偶然なんて、一度しか起こらないと思う。君は二回目に私に会った時、奇 跡のようだと喜んだ。だが、私はそんな奇跡は信じない」
 高畑はわからないという表情で洋也を見ている。
「君が彼に似ている。そんな君が私の前に現われる。それを偶然と信じるほど、 私はお目出度い人間じゃないんだ」
「なるほど、先生はゲームショーの出会いも偶然ではないと、そう仰るのですね」
 河北の問いに、洋也は無言を返事の代わりにした。
「ご明察と賞賛するべきでしょうな。だからと言って、彼をわれわれが傷つけら れないとでもお思いでしょうか?」
 河北の変わらぬ決断に、高畑は今度は演技ではなく、恐怖を覚えたらしい。
 助けてくれとなりふりかまわず暴れだす。だが、屈強な男は易々と高畑を取り 押さえる。何より、そのナイフの刃の鋭い光が高畑の動きを止める。
「それでも先生は、この顔が傷つけられるのは、たまらないでしょう? あなた が何より大切にしているものだ」
 ナイフの刃がまた頬にきつく押し当てられる。
 必死の目が洋也を見ている。秋良に助けてくれと、縋りつかれたような錯覚を 感じないわけではなかった。
 だが……。
「好きにすればいい。私には関係のないことだ」
「先生!」
「できないと思っているのか!」
 すっと僅かにナイフが引かれる。
「助けて、助けて!」
 高畑は誰よりも洋也に縋るのが正しいと判断しているのだろう。必死で助けを 求める。
「それはイミテーションだ。イミテーションが傷つけられようと、何も感じない。 どうとでもすればいい」
 洋也の感情のこもらない声に、河北はちっと舌を打った。
 この役立たずめと罵って、男にナイフを納めさせ、腹立ちを役目を果たせなか った男へとぶつける。
 血の流れているのとは反対の頬をぶたれ、高畑は床に倒れこんだ。
 たいした傷ではないが、すすり泣く彼は、身体を起こそうとしなかった。
 そんな様子を、洋也は淡々と見つめている。
「では、……では、先生。イミテーションが傷つけられるのは平気でも、本物な らどうです?」
 河北の言葉に、洋也の眉がびくりと動く。
 そんな洋也に、焦りの中にも僅かに河北は起死回生の笑みを浮かべる。
「私はもちろん、本物のことも調べていますよ。その本物に手を出したときの怖 さもね。だから身代わりを用意して差し出したのですが、先生のお気に召してい ただけなかった。私ももうここまで来れば失敗できないんですよ。だからタブー の本物にも手を出すことは厭いませんよ」
「何をするつもりだ」
「同じことをして、先生にお願いするだけですよ。あくまでも、私はお願いする 立場です。先生が止めろと仰るなら、すぐにでもやめますとも」
 だが洋也はきつい眼差しを向けるだけで、返事はしなかった。
「私の言葉が信じられないようでしたら、すぐにでも本気をお見せしましょう。 私の部下はここにいる三人だけではありませんから」
 河北は勝ち誇ったように笑い、携帯電話で短い命令を出した。


 三軒目の不動屋さんを出て、秋良は深い溜め息をついた。
 表の張り紙にはペット可のマンションもあるのに、いざ交渉となると、その物 件は取り扱えないと断れてしまう。
 それが三軒も続いているのだ。
 今更ミルクと別の生活は考えられないので、どうしてもペットの飼育が許可さ れているという条件は譲れないのだ。
「明日は隣町を探そうかな」
 辺りはもうすっかり暗くなっていた。早く帰らないと鳥羽が心配するだろうし、 なによりミルクが寂しがっているだろうと思う。
「すみません、あの」
 駅に向かって歩き始めた秋良は、うしろから呼び止められた。
「……なんでしょうか?」
 二人の男が秋良を挟むように立って、秋良は思わず一歩後退する。
 頑丈そうな身体に似合わないニコニコ顔で、片方の男が秋良に言う。
「安藤さんですよね? 安藤秋良さん」
「そう……ですけど、あなたたちは?」
「ちょっと一緒に来てくれませんか? 三池さんにあなたを連れてきてくれと頼 まれましてね」
 洋也の名前が出て、秋良は驚くと共に、そんなはずはないと、首を左右に振る。
 男は不似合いな笑顔のまま、逃げ出そうとする秋良の腕を捕まえた。







「安藤秋良さんですよね? 三池さんにあなたを連れて来てくれと頼まれたんで すよ」
 見知らぬ男に腕を掴まれて、秋良は首を横に振りながら、何とか逃げ出そうと 掴まれた腕を振り解こうとした。
 おかしい。洋也がこんなことを誰かに頼むはずがない。それだけは解る。
 ならば、洋也はどこにいる?
「離してください。あなた達は誰です? 洋也のこと、知っているんですか?」
 引き摺られようとするのに、秋良は必死で踏みとどまる。
 男は抵抗する秋良に苛立っているようだった。
「三池さんは私達と一緒いますよ」
「嘘だ……」
「いいから、来い!」
 もう一人の男が秋良の肩を掴んで無理矢理連れて行こうとする。
「やめろ!」
 秋良は無我夢中で身体を捻り、掴まれた腕を振り払おうと暴れた。
「嫌がっているじゃないですか」
 バシッと音がして、掴まれていた腕が自由になる。
 驚く秋良の目の前に背中が立ち塞がって見えた。
「関係ない奴は下がってろ。俺らはそいつに用があるんだ」
「でも、この人は嫌がっていますよ」
「うるせー。そいつは俺たちと来るんだよ。なぁ? あんた、俺たちと来るよな。 三池さんが待ってるんだから」
 そう言われて秋良は迷った。
 逃げるのなら今しかない。けれど、洋也の名前を出す以上、もしかしたら洋也 は本当にこの人たちのところにいるのかもしれない。
 もし、この人たちといるのなら、決して友好的な状況ではないだろう。
「いい加減なことで、人をさらうのは、拉致監禁罪になますよ」
「さらったりするかよ。そいつは、自分の意思で、俺たちと来る。な、安藤さん、 そうだろ?」
「行く必要はありません」
 秋良が頷きかけたその時、秋良を背中に庇っている男がきっぱりと言った。
「それは三池氏も望まないことでしょう」
 自分を救った人も洋也の名前を出して、秋良は混乱した。
「な、何が……。洋也は……。洋也はどこなんですか。どうしているんですか?」
「だから、俺たちと一緒にいるんだって。あんたが一緒に来ないと、どうなるか、 わかんないぜ」
「行かせませんよ。三池氏は無事です。あなたが行けば、彼のほうが困ることに なる」
 何がどうなっているのか、秋良は解らないまま、一歩、また一歩と後退する。
「邪魔すんな!」
「警察を呼びますよ」
 三者の睨みあいに背を向けて、秋良は走り出した。
「あ、待て!」
「逃げなさい、そのまま!」
 二人の男が追ってくる足音は聞こえない。罵声だけがどんどん遠ざかる。
 助けてくれた人が二人を止めていてくれるのだろう。
 秋良は息が切れるまで走り通し、駅前の明るいロータリーまでやってきた。荒 い息を繰り返す秋良を人々は不審そうに振り返るが、そんなことを気にしてられ ず、携帯電話を取り出した。
 緊張と恐怖、興奮で震える指を何とか動かして、短縮で洋也の携帯へと電話を かける。が、呼び出し音は鳴らず、無機質な声が電源が入っていないか電波の届 かないところにいるかと告げるだけだった。
「洋也……」
 呟いたところへ秋良の電話が着信メロディーを奏でる。秋良の気持ちとは正反 対ののんびりした音楽が悲しくさえ聞こえる。ディスプレイには鳥羽の名前が表 示されている。
「もしもし……」
『おい、どこにいるんだよ。何してるんだ?』
 焦ったような鳥羽の声に、鳥羽もやっぱり何かを知っているんだと確信する。 今回に限って、秋良をからかいもせず、帰れとも言わなかった彼は、最初から秋 良が来ることを予期していたとしか思えなかった。
「今から家に帰る」
 だから秋良は、鳥羽に告げた。
『何言ってるんだよ。まだ仲直りしてないんだろ? 洋也さんが迎えに来るまで 俺のところにいればいいじゃねーか』
「一度様子を見に帰るだけだよ。悪いけど、ミルク、預かってて」
『行くな! 秋良、いいか、そこにいろ。俺が迎えに行くから!』
 鳥羽の叫び声を無視して秋良は電話を切った。すぐにまたメロディーが流れ出 すが、秋良もまた電源を切った。
 駅前でタクシーを捕まえ、家の住所を告げた。


「逃げられただとぉ?!」
 河北は部下からの報告を聞き、怒声をあげた。
 縛られたまま、洋也はにやりと笑う。
「探せ! 何とかして捕まえろ! いいか、必ず捕まえてつれて来い!」
 罵声と共に指図を繰り返して、河北は電話を叩きつけた。
「先生、余裕ですね。一体、どんな手段を使われたんです?」
 洋也はふんと笑うだけでその質問には答えなかった。
「その余裕がいつまで続きますかね? 我々も手段は選びませんよ。私が先生や 彼に危害を加えないうちに、ご決心なさったらいかがですか? この契約は先生 にとっても損はないはずです」
「お前から貰う金など、一円も欲しくない」
 洋也の強い視線が河北をまっすぐに射る。
 その強さにたじろぎながらも、河北は引きつった笑いを浮かべる。
「いつまでそう言ってられるか、楽しみにしていますよ」
 洋也に言って、河北はまだ脱力して泣いている高畑の脇腹を蹴った。
「いい加減にしろ、この役立たず。いいか、本物が来たらちゃんとお前の役割を 果たすんだぞ」
 河北に言われ、高畑はうつろな目で見上げた。
「呆けているんじゃない。本物が来たら、そいつの目の前で先生を誘惑するんだ よ。二人には精神的に追い詰められてもらわないとな」
「あ……、わかりました」
「それまでに顔を洗って来い。それしか取り得がないんだからな」
 酷い言われようだが、高畑はのろのろと立ち上がった。洗面室へ向かうのか、 よたよたと部屋を出て行く。
 ドアのところで振り返り、洋也を見た。涙に濡れた目と、泣き濡れた頬。秋良 が泣いて自分を見ているような気持ちに囚われる。
 けれど洋也は感情を表には表わさなかった。
 ただ冷淡に高畑を見返した。
 それで諦めたのか、高畑は部屋の向こうへと消える。
「先生、私は本気ですよ」
 唸るように宣言する河北に、洋也もまた「私ももちろん本気だ」と冷たく言い 返した。

 タクシーが家の前に到着し、秋良は料金を払って門の前に立つ。
 タクシーの中から家に電話をかけたが、誰も出なかった。
 やはり洋也はいないのだろうかと思いながらも、門から中を伺うと、リビング の方に明かりが見えた。
 洋也はいるのだろうか。
 今までの出来事は何か質の悪い悪戯で、自分たちはまだ喧嘩したままだから、 洋也は電話に出なかったんだろうかと考える。
 それで一瞬、中に入るのを戸惑ってしまう。
 それでも確かめるだけでもと、秋良は門に手をかけた。と、その手をがしっと 掴まれる。
 声にならない悲鳴を飲み込んで、秋良は振り返った。



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