先生は不眠症

 

 

初出 ; Vol.12〜17

 

 

 真夜中、僕はぽっかりと目が覚めた。
 別に夢を見ていたというわけではない。
 寒くて目が覚めてしまったというわけでもない。
 眠れないほど心配事があるというわけでもない。
 それなのに、何故か目が覚めてしまった。
 もう一度眠ろうと思って、手近にあるはずの温もりに擦り寄ろうとして……、 寝返りを打ってその広い胸を探して……。
 けれど伸ばした手は冷たいシーツを撫でるだけだった。
「……?」
 僕の隣が空っぽなのに気がついて、もう一度目を開ける。
 洋也はいない。頭を浮かしてベッドヘッドの目覚まし時計を見ると、午前3 時だった。
 …………また、徹夜かな?
 洋也は夜、必ず僕と一緒にベッドに入る。
 その、……お休みのキス一つで済む夜も……。(赤面)
 けれど、自分の予定がある時は、僕が眠ってから起き出すらしい。
 それに気がついたのは、実はこの新しい家に移ってからだった。
 うーんと、ベッドの中で伸びをして、足先がシーツの冷たい部分に触れて、 ぴくりと身体が震え、慌てて身体を縮める。
 仕方がないと思って……、もう一度寝ようと思って、目を閉じてみた。
 ちっ、ちっ、ちっ、と……、目覚まし時計の音が妙に大きく聞こえてきて、 それが気になってしまう。今まで意識したことさえなかった音が、部屋の中を 支配するようで……。
 もう一度寝返りを打って、枕に片方の耳を押しつける様にして、固く目を閉 じた。
 けれど、意識すれはするほど、時計の音は大きくなって、外の風の音までが、 部屋の中に入って来ているように思えてしまう。
 うつ伏せになって、顔を枕に埋める。
 それでも、時計の音も風の音も消えてはくれない。
 何度も寝返りを打って、そして諦めて、仰向けに寝転んだ。
 眠気さえやって来てくれれば、自然と音も気にならなくなるだろうと腹を括 って、目を閉じた。目さえ閉じていれば、きっと、いつしか眠りに落ちている だろうと思って。
 夜中に目が覚めることがあっても、今までならそうして眠れたから。
 静かに、夜の空気を吸う。

 けれど、僕はとうとう眠れなかった。
 そして、その朝から、僕は眠れない夜を、数える羽目になったのだった。





「おはよう……」
 僕が起きて行くと、洋也は朝食を用意しているところだった。
「おはよう、早いな」
「うん……。洋也は徹夜だった?」
 ばれたかという顔をして、洋也は近づいてきた。
「まだ眠いのか?」
 唇に軽くキスされて、洋也は僕の目元を指で辿った。
「うーん、夜中に目が覚めて、それから眠れなかった」
 隠すほどの事でもないので、僕は正直に言った。どうせ、今夜は眠れるだろ うと思ったし。
「どうして、僕のところに来なかったの」
「仕事してるのに、悪いから」
「悪くなんてないさ。大丈夫か? 学校……」
 余りの心配ぶりに、僕はおかしくなって、くすっと笑ってしまう。
「大丈夫だよ。全然眠れなかったんじゃないし。徹夜した誰かさんのほうが心 配なくらいだよ」
「僕はこれから仮眠とるから。じゃあ、夜は暖かい物、用意しておくから、早く帰っておいで」
 僕はわかったと言って笑った。
 眠れなかったなんて言うものじゃないなと思いながら。そんなに心配される んなら、今度からは眠れなくても、秘密にしておこうかと思った。
「今朝はゆっくり食べられるな」
 コーヒーのいい香りと、目の前の綺麗な笑顔に、僕も微笑んで頷いた。
 早起き(?)したおかげで得られた、ひどくゆったりした二人の朝食は、とても楽しかった。
「また早起きしようかな」
「秋良、早起きならいいけど、眠れないのは駄目だって」
「今夜はぐっすりだよ。だって、今から眠いもの」
 僕はそんな冗談を言いながら学校へ向かったのだった。


 そして、その夜……。
 消化のいい温かい食事と、ぬるめのお風呂に長めに浸かって、僕はベッドに 潜りこんだ。隣には同居人。
「今夜は仕事は?」
「ん? 大丈夫、一緒に寝るよ」
 ちょっと答えのニュアンスが違うような気がするけれど、腕枕で抱きしめら れ、唇におやすみのキスを受けて、いつもなら自分でも気づかぬうちに眠れる はずだった。なのに……。
「秋良?」
「…………何?」
「眠れないのか?」
「……うん。……眠いのは眠いんだけど、なんだか眠れない……」
 心配かけないように、眠ったふりをしようとするけれど、洋也はそんな事で は騙されてくれなかった。
「どうしたのかなぁ? 別に心配事もないし、嫌な事があったわけでもないし。 眠れない理由なんて、ないのになぁ……」
「秋良、安眠の為にはさ」
「安眠の為には?」
「軽い運動だよ」
「運動? 今から?」
 何を運動しろって? と見上げた時には、唇を塞がれていた。おやすみのキ スなどではない、深く、甘く、身体の中の炎を呼び覚ますような……。
「ん……」
 入ってくる舌はとても熱く、それだけで僕の舌までもしびれそうになる。
「洋也……」
 ようやく唇を解放された時には、僕の息は既に荒くなってしまっている。
「秋良……」
 額と額をくっつけて、洋也は微笑む。そして、もう一度唇が重なった時、洋 也の手が、僕のパジャマの中にあると気がついた。
「あ……、ああ……」
 ボタンを外され、身体にキスの雨が降る。
「洋也……、んん……、ひろ……や…………」
 身体の中心を捕らえられ、身体のすべてが洋也で満たされて行く感覚に、ま ぶたの裏が紅く染まっていく。
「あ、ああ!」
 身体の奥に洋也を感じながら、ちりちりとやけつく快感に身をまかせて、僕 はのぼりつめた。そうして、いつものように優しい眠りが…………。


「参ったな」
「ごめん……」
「どうして秋良が謝るの……。疲れさせただけだ、悪かったな」
 洋也は優しく僕を抱きしめてくれて、ずっと髪や背中を撫でてくれた。
 なのに……、
 とうとうその夜は、一睡も出来なかった…………。





 学校で何度もあくびをかみ殺し……。僕は4時間の授業をなんとか乗りきっ た。そして、生徒が帰った職員室の僕の机。僕の籍は窓際にあって、天気がい いと背中から午後の日差しがぽかぽかと……。
 がくんと首が揺れて、寝ていたことに気がついた。あー、危ない。
「安藤先生、お疲れみたいですね」
 隣の席の平田先生がくすくす笑いながら声をかけてきた。
「す、すみません」
 真っ赤になりながら僕は謝った。
「昨夜、よく眠れなかったものですから」
「そうなんですか? 気をつけて下さい。なんなら、保健室か、校務員室に行 って寝てきますか?」
「大丈夫です。すみません。僕、どれくらい寝てました?」
「ええーっと、30分くらいかな?」
「あはは、けっこう寝てましたねー」
 笑って誤魔化して、溜め息を隠す。そんなに寝ていたのかと、ドキッとする。
 首が揺れさえしなければもっと眠っていただろう。
 今夜は眠るかな? そんな期待も出てくる。
 眠れないと気にするのもきっと良くないだろうから、今夜はいくらなんでも 眠れると、大きな気持ちでいよう。うん。
 職員会議も何度も寝そうになったのをなんとか乗り越え、僕はカバンを持っ て学校を出た。
「あっ、アキちゃーん!」
 背中から聞こえる大きな声に笑いながら振り返る。大きな声の主は、まるで ブルンブルンと尻尾を振っているのがわかるような勢いで駆けてきた。
「ちょうど一緒にならないかなー、って思ってたんだー。あれ?なんか、顔色 悪くない?」
「悪くないよ、別に。それより、寄っていくか?」
「寄って行く、寄って行く! もうはらぺこ!」
「今日は僕が食事当番だから、出来るまで時間かかるぞー」
「やりぃ、今日はアキちゃんの手作りご飯ー!」
 いつもなら勝也の元気な声は、僕にとっては嬉しい物のはずなのに、すぐ隣 少し高い位置から響くその声に、僕はなんだか、気持ちがざらつくのを感じた。
 睡眠不足が、いつもと違う感覚を僕に感じさせているのだろうと思うと、そ れだけでも、ゆっくり休みたいと思ってしまう。
「ねえ、やっぱり元気ないみたい。俺、このまま帰るけど」
 僕の感情の起伏に敏感な勝也は、少しざらついた僕の感情を正確に読み取った のか、そんなことを言い出した。
「なんでもないよ。変な気を遣うなって」
 僕が笑って頭を小突く真似をすると、勝也はニッコリ笑って、僕のカバンを持 ってくれた。それだけで、ざらついた気持ちが消えていく。
 今夜はゆっくり眠れるかな?

 家に帰ると既に夕食の用意はできていた。
「あれ? 僕の番じゃなかった?」
「疲れてるだろ? しばらく僕がするから」
 洋也はそんなことを言い、勝也から僕のカバンを受け取って、奥へ行く。
「なーんだ、アキちゃんの手料理じゃないのかー」
「洋也の方が美味しいだろ?」
「でも、俺はアキちゃんの方がいいもん」
 変な奴。だいたい家に帰れば、あんなに美味しいご飯が待っているというのに。
 洋也たちのお母さんはとても料理が上手で、田舎のお袋の味しか知らなかった僕 は、最初お呼ばれしたときにとても感動したものだ。
 三人で夕食を食べて、勝也が帰ると、洋也は僕にお風呂に入るように言った。
「新しい入浴剤を買ってきたんだ。アロマ効果が高くて、身体も心もリラックス させてくれるんだって」
「へー」
 なるほど、お風呂は透明なグリーンの色をしていて、とてもいいウッディの香り がしていた。
 うーんと背伸びをして、ゆっくり浸かり、リビングに戻ると、リビングでもいい 薫りがしている。
「なんの匂い?」
「ハーブティー。少しブランデーを混ぜてあるから」
「へー」
 口元に運ぶだけで、それは仄かな香りがした。ハーブの薫りと、確かにアルコー ルの匂いもする。
「カモミールティだって。精神をリラックスさせて、催眠効果もあるそうだよ」
 その説明でわかった。洋也は僕のためにこれを用意してくれたんだ。
「もしかして、入浴剤もその為に?」
「ん? うん、まあね」
「ありがとう」
 その広い胸に抱きつくと、ハーブなんかよりもいい薫りがする。この匂いの方が好 きで、僕には落ちつけるのにな、と思う。
「秋良、今夜も疲れてしまうよ、そんなことをしていると」
 クスクス笑い声に、僕は波に揺られているように、とてもいい気持ちになる。
 そのままベッドに二人で行って、僕は間違いなく眠れるはずだった。
 ベッドに入って、とろとろと眠りに入ろうとしたその瞬間、ぱっと目が覚めてしまっ た。とても唐突に。
 そして気がついた。
 ………………何かが足りない。
 何かが足りない、でもわからない。
 そして洋也の溜め息と、僕のやるせない気持ちを乗せて、夜は昏々と更けていき、 そしてまた朝が来たのだった。



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