………………何かが足りない。
 何かが足りない、でもわからない。
 そしてまた朝が来たのだった。

「大丈夫か? 学校に行ける?」
 心配そうな声に、思わず笑ってしまう。
「大丈夫だよ。心配性だなぁ。なるべく早く切り上げて帰ってくるから」
「笑い事じゃないよ。いい? 疲れたらすぐに電話して。迎えに行くから」
「大丈夫だってば。それより僕に付き合って寝てないんだから、ちゃんと昼間 に寝ててよ」
 渋々頷く洋也を残して、僕は家を出た。朝の日差しが冬だというのに眩しい。
『何が足りないんだろう』
 唐突に浮かんだその言葉に、僕は眠れない時間を利用して、色々考えてみた。
 学校のこと、行事予定、プライベートなこと、思いつく限りの知人の誕生日 などまで考えて、それでも心当たりは思い浮かばなかった。
 なのに、やっぱり心の中に、ぽかんと穴があいたみたいな頼りなさがある。
 いっそ、記憶力のいい洋也に聞いてみようと思ったけれど、かえって洋也ま で悩ませてしまいそうで出来なかった。
 それに洋也なら、僕が忘れていれば、何か言ってくれると思うし……。
 結局、思い出せないまま、学校に到着する。
 甲高い子供特有の声が、寝不足の頭にこだまする。本当なら、これらの声が とても好きなのに、今はなんだかイライラする。静かにしてほしいと思ってし まう。
 やはり休んだほうが良かったのだろうか……?

「安藤先生、食事、一緒にどうですか?」
 ふわぁと零れるあくびをかみ殺していると、平田先生が誘いに来てくれた。
「あー、ありがとうございます。でも、ちょっと寝不足なんで……」
 僕は愛想笑いを浮かべ、やんわりと断る。
「お疲れですか? どうしました?」
「なんだか、眠れないんですよ。とっても眠いのに」
「そんな時は、アルコールですよ。どうです? 日頃のストレスを解消する為 にも、飲みに行きましょう!」
 僕は笑いながら辞退して、それでも少しだけと誘われて、確かに、お酒を飲 めばいつも眠くなるなと思ってしまった。
「あ、じゃあ、少しだけ」
「行きましょう、行きましょう。他にも何人か誘いますから」
 平田先生がメンバーを集めている間に、僕は洋也に電話をかけた。
「あ、今夜、先生たちと食事に誘われたんだ」
『大丈夫なのか?』
「うん、それで、ごめん……、食事」
『それはいいよ。でも、あんまり飲まないほうが。体力だって』
「うん、でも、すこしだけだから」
『じゃあ、帰る頃に電話して、駅まで迎えに行くから』
「わかった、あ、じゃあね」
 平田先生に呼ばれる声がして、僕は慌てて電話を切った。


 駅に着くまでは大変だったらしい。
 ほんの少し、グラスに一杯のビールで僕は酔っ払ってしまい、愚痴を零すで もなく、そのままテーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。
 そこから先は、何度揺り起こしても起きなかったそうで、どうしようかとい う話になり、帰り間際、とりあえずタクシーを呼んだところで、僕の携帯が鳴 った。
 平田先生たちは天の助けかとその携帯に出て、相手に、僕の家の住所を聞き 出した。
 電話をかけてきたのは洋也で、そのまま迎えに行くと言うことになって、僕 は無事(?)に家まで戻ってきた。
 車中、それはそれは、とても気持ち良く寝ていたらしい。
 だから洋也は、そのまま僕をベッドに運ぼうとした。
 ゆらゆらと揺れる心地いい感触を覚えている。
 柔らかい毛布と、懐かしい匂いに包まれて、うっとりしたところで、
 ……………………目が覚めてしまった。
 むっくり起きあがる僕に、洋也は溜め息をついた。
「どうして起きてしまうのかなぁ?」
 すっきりしない頭で僕は訴えた。
「だって、何かが足りないんだ」





「だって、何かが足りないんだ」
 僕が思わずそう訴えると、洋也は困ったように僕を見た。
「足りない? 忘れているんじゃなくて?」
「………………と思う」
 何しろ、自分でもはっきりとはわからないわけで、僕は曖昧に返事を濁した。
「足りないって、どういうことなんだろう?」
「え?」
 今度は洋也の言った意味がわからずに、僕は顔を上げて洋也を見た。
「まだ酔ってる?」
 目元をそっと指で撫でられて、ゾクリと背中が震える。
「……も、もう、酔ってない」
「普通、『何か忘れてるようで、気持ちがすっきりしない』っていうことはあっ ても、『何かが足りない』っていうのは、どういうことなのだろうと思って」
「あー、そうだよね。僕にもよくわからないけど、突然そう思ったんだ」
 洋也は微笑んで、僕をそっと胸に抱きこんだ。この暖かさがとても好きで、 いつもそれだけで眠くなってくるのにな、と思うと悲しくなった。
「何か足りないって思って、学校の行事とか、全部思い出すようにしてみたり、 いろいろ考えたんだけど、忘れてるようなこともなかったし」
 ゆっくり、暖かな大きな手が背中を撫でていく。そう、……とても眠くて… …。
「だから、もう考えないようにしようと思ってたのに……」
 まぶたが重くなってきて……。
「秋良?」
 洋也の声が少し遠くで聞こえたような気がして……。
「おやすみ、秋良」
 ……うん、と言いかけて、それも言えなくて……。はっときがついた。
 むっくりと洋也の胸から顔を上げる。
 目の前には苦笑する美男子の顔。
「いつもなら、ここで起こしたくなるくらいなのにねぇ」
 困ったような洋也の顔に、寝たふりをすれば良かったと思ってもあとの祭り で。
「ごめん……」
「秋良が謝ることじゃないよ。ドライブにでも行く?」
「ドライブ?」
「そう。車のほうが眠れるかもと思って」
「駄目だよ、そんな。洋也の方が疲れてしまう」
「僕は昼間に寝れるから、気にしなくていいよ」
 手を差し伸べられて、その頼り甲斐のある手に縋ろうとして、やっぱり首を 振った。
「いい、今日はうとうとでもかなり寝たし。このままベッドにいたほうが、気 持ちが休まるよ。ね、一緒に寝よう」
 洋也は少し迷ってから、僕の隣に滑りこんできた。
「仕事、大丈夫?」
 洋也の肩に額を摺り寄せ、とりあえずの心配事を聞いてみた。
「大丈夫。夜は全部秋良のためにあけてある」
 僕を気遣う優しい台詞に、繋いだ手に力をこめる。
 優しく唇が重なってきて、僕はもっとと、その唇の温かさをねだった。
「いいの?」
 掠れた熱い声に、無言で頷いて、繋いでない方の手を洋也の首に回した。
 僕を傷つけないように、労わるためだけの行為は、嬉しいような、悲しいよ うな……。
 こんなにも心は満たされているはずなのに。
 どうして僕はまだ「何か」を足りないと、求めてしまうのだろう。

 明け方近く、会話の途切れた時に、洋也は眠り始めた。
 眠っていてもカッコいいんだなぁと、つい、その寝顔を見つめてしまう。そ ういえば、こんなふうに、眠っている洋也をじっくり見たことはなかったかも しれない。
「いつも、僕が先に寝ちゃって。朝洋也が眠ってても、僕は慌てて学校に行く からだね」
 高い鼻をツンと突ついてみる。ぐっすり眠りこんでいるのか、洋也ぴくりと もしない。
 少し薄目の唇を触ってみる。それは柔らかくて、いつもの熱さがうそのよう で。
「……ん」
 洋也はほんの少し眉を寄せ、身動ぎをする。穏やかな眠りを遮った僕を、洋 也はぎゅっと抱きしめた。寝ている間の無意識の行為。
 そのときにも、僕を抱きしめてくれる腕が嬉しくて、なのに、まだ「何か」 を求める自分が醜くて、涙が一雫、こめかみを伝う。
「ごめんね」
 何故なのかわからないけど、その言葉が口をついた。
 ……ごめんね、洋也。

 朝、まだ眠っている洋也を起こさないように、ベッドを出た。
 物音をたてないように、準備をして、ベッドサイドに『ごめんね』とメモを 残して、学校へ向かう。
 太陽の眩しさに、また一つだけ、涙がこぼれて。
 でもそれはすぐに、太陽の輝きに吸い込まれていった。




 学校から出ると同時に携帯が鳴り始めた。あまりのタイミングの良さに、僕 は慌ててカバンからそれを引っ張り出した。電話は洋也からだと確かめて、通 話ボタンを押した。
「もしもし?」
『迎えに来てるんだ。振り向いて』
 意外な内容に、僕は返事も忘れて振り返った。通りの校門から伸びた道路の 向こうに、確かに見慣れた銀色の車体があった。
 正直、歩いて帰るのは辛いなと思っていたので助かった。
 僕はホッとして携帯を切り、洋也の車へと近づいていった。
「どうしたの?」
 助手席に座り、シートベルトをかけながら聞いてみた。
 洋也は力なく笑って、ハンドルにかけた腕に額を乗せる。
「あんな手紙を残して家を出られたら、びっくりするだろ?」
「あんな手紙?」
 僕はただごめんとしか書いていないのに、それがそんなに心配をかけたんだ ろうか?
「また、出て行ったのかと思った」
「また、って……。そんな、そんなに出てってないよ」
「まあ、そういうことにしておいてもいいけど」
 洋也は苦笑混じりに言い、静かに車を発進させた。
「眠れそうなら寝ていいよ」
 心地好い振動に身を任せていると、確かにまぶたは重くなってくる。
 けれど……。
「ん、いい。大丈夫」
 夕暮れの風景が綺麗で、どうにも目を閉じたくはなかった。
 隣にある精悍な顔に、昨夜の寝顔を重ねては、くすっと笑ってしまう。
「何? 思い出し笑い?」
「うん、昨日、洋也の寝顔、見てた。なんか、始めてかなあ、とか思ってさ」
 ついと、ハンドルを離れた手が、僕の頬をその甲で撫でる。
「起こせばいいのに」
「だって、気持ち良さそうに寝てたし。僕が眠れないのに、付き合う事ないよ」
「でも、目が覚めてあの手紙だけは勘弁して欲しいよ」
「……ごめん」
 そんなつもりではなかったけれど、洋也に言われて、確かにごめんだけでは そんなふうに受け取れるのだと反省した。
「今夜は……」
「何?」
「いや、いい……。あとでね」
 そういうと洋也は硬い表情で、前を見ていた。

「これ……」
 食事をして、入浴して、寝室へ行こうとしたときだった。
 洋也がテーブルの上に『これを飲んで』と言って、錠剤を置いた。
「軽い睡眠薬だよ。常習性もないものだし、笠原教授に頼んで出してもらった 物だから、安心して」
 笠原先生は僕があの病気になったときにお世話になっているから、それは安 心だろうけれど……。
「でも……」
「とにかく今夜はこれを飲んで寝て。明日はカウンセリングに行こう」
「そんな、大袈裟だよ」
「大袈裟じゃない。これ以上は、心配なんだ。秋良の身体が」
 そこまで言われては何も言い返せず、銀色の台紙からその錠剤を取りだし、 僕は口に含んだ。
 差し出されるコップから水を飲み、ゴクリと飲み下した。
「効き目は早いそうだから」
 差し出される手に手を重ねて、寝室へと誘われる。階段を上りながら、何故 だか、涙がこみ上げてきた。
「秋良?」
「ごめん、僕、自分の部屋で寝るから。洋也はゆっくり寝て。僕に付き合う事 ないよ」
「秋良、そんなつもりで睡眠薬を飲めって言ったんじゃないよ」
「わかってる。わかってるけど」
 涙を見られまいと階段からすぐのところにある自分の部屋のドアに手をかけ た。
「秋良。一人で寝るなんて言わないで。傍にいて」
「駄目だよ」
 力いっぱい抱きしめられて、その時僕は、何が足りないのかわかってしまっ た。
「洋也……」
 それを欲しいと願う自分の心が、なんだかあさましく思えた。そう、こんな に力強い腕がありながら、それでも願うのだから。
「秋良……。一緒に寝よう。眠れなくても、ずっと一緒に起きているから。朝 までまた話をしよう」
 僕は頭の上から降ってくる哀しい響きの声に、そっと彼の首に腕を絡める。
「洋也……、好き」
 大切な言葉は、自分の口から伝えたくて。
「秋良、愛してるよ」
 欲しかった言葉が聞こえた途端、ずっと心の中に広がっていた空洞が塞がれ、 そこからじわじわと暖かさが広がっていくのがわかった。
「それ、言って欲しかったみたい」
 だから素直に言えた。
「え?」
「愛してるって、言って欲しかったみたい」
「だって、毎日言ってただろ?」
 当然のように言う洋也に抱きつきながら、僕は首を横に振った。
「聞いてないよ、あの夜から」
 突然目覚めたあの夜。淋しくて僕は目が覚めた。
「そんなはずは……」
 ないと続くはずの言葉は、記憶力のいい彼には言えなかったのだろう。だっ て、本当に聞いていないのだから。
「これからは毎日言うよ」
 なんとも言えず苦々しい声に聞こえるは、後悔しているからなのかと思って、 僕が顔を上げると、洋也はとても優しい顔で微笑んでいた。
「愛してるよ、秋良。毎日、何度でも繰り返して言うよ」
「一度でいいよ」……けれどその言葉は、洋也の唇に奪われた。
 寝室に入り、洋也の胸に潜り込むようにして目を閉じた。
「愛してるよ、秋良」
 遠くで響く声に、僕は頷いて、『僕も』と言ったつもりだった。
「今夜は起きていて欲しかったな。あんな告白されたのにねぇ?」
 クスクス笑う洋也の胸の振動さえ、僕の眠りには心地好く響いて……。


                        …………おわり。