Cosmos −前編−
部屋の中に広がる大きな宇宙。一切の遮蔽物をとりのぞいた星空は、怖ろしいと感じるほどにたくさんの煌めきに溢れていた。
足元には細波。ホログラムによる映像なので、実際には濡れることはなく、幻想的な光の中にいると、これが現実なのか夢なのかわからなくなりそうだった。
並んで星空を見上げていると、世界に二人だけで取り残されたような錯覚に陥る。
何一つ、二人の間に入り込むものはない。言葉さえも。
肩に感じていた秋良の重みが次第に増していく。
「……洋也」
眠ったとばかり思っていた秋良に名前を呼ばれる。
「……何?」
「洋也、頑張りすぎだよ。どうやってお返しをしたらいいのか、わからない」
秋良の言葉に洋也はそんなに考えなくていいよと笑う。
「秋良が傍にいてくれる。僕にはそれだけでいいんだ。お返しなら、僕の誕生日に一緒にお風呂に入ってくれれば、大満足」
「ま、また、それ?」
秋良が慌てたように身体を離す。
「一年に一度の行事でもいいんじゃない?」
「だ、だって、それなら、先週も……」
一緒に入ったじゃないかと言いかけて、秋良はもごもごと言葉を濁す。
「頑張ってね、秋良」
先週はのぼせたふりをしてさっさと浴室から逃げ出してしまった秋良に頑張ってと励ます。
「う……うん」
どうやら覚悟を決めてくれたらしいとわかって、洋也は微笑んで秋良を抱きしめた。
秋良に頑張りすぎと言われて、洋也はこっそりと苦笑する。
秋良の誕生日には、つい自分にできる限りのことをしようと、限界を超えることも厭わない。何故そこまで……と考えて、明白な一つの答えに行き当たる。
秋良と出会って初めての誕生日。その日、自分は日本から逃げ出していた。
もう会わないと告げられ、秋良の身体のことを思えば、その通りにするしかなかった。決して二度と会わないつもりはなく、弟が卒業するまでの期限付きだと思っていたが、大切な人と感じ始めていた人の最初の誕生日に、おめでとうも言えないのは、思いのほか辛かった。
それまでは人の誕生日など、何が楽しいのかわからなかった。自分の誕生日すら、両親が祝ってくれることもバカらしいと感じていた。
それなのに。自分の変わりように自分で驚いたくらいだった。
秋良がこの世に生まれ出た日。その日がなければ、自分の存在価値もないのだと思うと、一年で一番大切な、かけがえのない日だと感じた。
その日を祝えない辛さに、日本から逃げ出したのだ。
イタリアの青い空の下、独り言のように言ったおめでとうの言葉が、乾いた空気に掻き消えて、陽気な街を一人、暗い顔で歩いた。
最初の誕生日がそうだったから、毎年、秋良の言うように頑張りすぎてしまう。
秋良がいればそれだけでいい。その人が生まれた日なら、やはり特別なのだ。
そんなことを考えていると、肩の重みが本格的に増した。どうやら本当に眠ってしまったようだ。
「秋良?」
洋也が呼びかけても返事は聞こえない。顔を覗き込むと、軽い寝息が聞こえてくる。
膝の上に抱きあげるようにして、楽な姿勢にしてやる。
安心しきって眠る秋良の頬に優しいキスを落とす。
「おやすみ、秋良」
生まれてきてくれてありがとう。
センターラグへ秋良を下ろし、今夜はこの宇宙の中で眠ることにして、部屋の隅に置いていた肌掛け布団をかけてやる。
プラネタリウムのスイッチを切ると、本物の星空が小さく瞬いた。
「でさー、洋也さんの誕生日プレゼントってなんだったんだよ?」
とても言葉では言い表せないような素晴らしいプレゼントを貰って数日、秋良は鳥羽に呼び出されて、興味津々で詰め寄られていた。
「プラネタリウムだよ。室内用の。とっても綺麗で感動した」
「室内用の? って、あれか? ほら、おもちゃ屋で売ってるような。……まさか」
それだけであんな大騒ぎになるだろうかと、洋也を狙っていた女の様子を思い出す。
「それがどんなのかは知らないけどさ、室内に半透明のドームを作って、それがプラネタリウムになるんだよ。立体映像みたいに地球も見えて、すごかった。宇宙のガスとか、地球からの光とか、すべての影響を消した本当の宇宙が見られたんだよ。月の上にも立ってさ、月から地球を見たんだよ。もう、びっくり」
秋良の説明にとてもおもちゃ屋で売っている規模のものではないことがわかり、なるほどなと感心する。秋良の好きなものを把握し、一般の人では入手すらもできないものを用意してしまう。
「すげーな」
あの時の口振りだと、仕事一つ分との引き換えだったようだが、その前に企業一つを買収すらしようとしていたことを考えると、たかが誕生日プレゼントの価値に平民としては溜め息が出てきてしまう。
「そう、すごかった。また見たいけど、洋也に無理をさせるのは悪いし、早く売り出されないかなぁ」
だから、それは教師という地方公務員では買えない値段になるに決まってるだろ。とは思ったが、市場に出さえすれば本気で買いそうな人の影を親友のうしろに見てしまう。
「買ったら俺にも見せてくれ」
「いいよ。もうね、絶対感動する」
思い出すだけでこれだけ目をキラキラして話すくらいなら、その時の秋良をあの人がどのような気持ちで見ていたのかは想像に難くない。
「生徒達にも見せてあげたいなぁ。学校で買ってくれるといいなぁ」
学校の予算で買えるわけがないだろっ。と突っ込みたくなったところへ、「安藤先生」と声がかけられた。
「え? ……あ、こんにちは」
コーヒーショップで話していた二人だったが、店の入り口で目敏く秋良を見つけたらしい男が、満面の笑みで近づいてくる。
「偶然ですね」
ニコニコ顔で話す男はまだ若く、十代にすら見えた。
「そうですね。あ、彼は僕の大学の友達で、春日小学校の先生です」
「どうも、鳥羽です」
名前を紹介しろよと思いつつ、その辺のフォローは慣れている鳥羽だ。
「こんにちは。僕は陵小学校の近くの交番の巡査をしています、円谷です」
「警察官なんですか」
「そうそう。生徒を送っていく途中でさ、職務質問されちゃったんだ」
秋良が笑って話すのに、鳥羽も苦笑する。色んな事件が起こっているこのご時世では、若い男性が平日の昼に小学生の女の子を連れて歩いているというだけで、怪しいとされる。
鳥羽自身も職務質問をされたことがあり、学校側も校外に出るときには身分証明になるものを身につけるようにと口煩く言っている。
「あの時はすみませんでしたっ」
「いえいえ、それがお仕事ですし、生徒のためにも声をかけてくださるのは、防犯にも繋がってありがたいですから」
円谷という警官は秋良の言葉にニコニコしている。
「それからも警ら中によく会うんだよね。仕事熱心なおまわりさんなんだよ」
「ありがとうございます」
学校にも見回りに来てくれるんだと聞いて、へーと心の中で感心する。
見るからに秋良と偶然この店で会えたことを喜んでいるようだが、仕事を通しての知り合い以上の熱心さを警官に感じてしまう。
彼がどれだけ秋良に近づきたいと感じているのかは、大学の四年間を一緒に過ごし、秋良に擦り寄ってくる相手を選別していた鳥羽には、ありありとわかった。
可もなく、不可もなく。薬にもならなければ、害にもならない。
鳥羽の円谷に対する評定はそんな程度だった。
余計な手を出すようなら……と考えて、それを排除するのはもう自分の役目ではないことを思いだす。
さてさて、どうなるのか、お手並み拝見。
楽しそうに話す二人を、たまには洋也の行動を見物するのも悪くないと、鳥羽はにこやかに見ていた。
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