秋良たちが家に帰りついてインターホンを鳴らしても、中からの応答はなかった。
「あれ? 出かけてるのかな」
 秋良は鞄の中から家の鍵を取り出してドアを開けた。
 白い仔猫が寂しがって飛びついてくる。
「食事の用意が途中だ。急用なのかなー」
 テーブルに出されたままの食材を眺めながら、秋良は何を作ればいいのかを考える。
「何も伝言はないのか?」
 秋良の隣に立ち、鬼塚は茹でるために小さく切られた野菜を摘みあげる。
「ミルク、何か聞いてない?」
 仔猫を抱き上げて聞いてみるが、もちろんミルクはニャーと鳴くだけだ。
「電話してみようかな。鬼塚、もう少し食事待てる?」
「待てるけど……。それよりは外に食べに行かないか? 急用で出かけたんなら、呼び出したりしちゃ悪いだろ」
「そっかー、そうだよね。でも……」
 一度家に帰って来てしまえば、もう一度出かけるのは億劫になってしまう。
 それに本当に夕食はもう少しで出来そうに見えるのである。こんなふうにして出かけたのなら、洋也は本当にすぐに帰ってくるとしか思えない。
「じゃあ、鬼塚は先にお風呂入ってれば? 本当にすぐに帰ってくると思うんだ。こんなにして遠くまで出かけるなんてしないから」
「いいけど……。でも、遅くなったらどうするんだ? お腹空かせたまま待ってるのか?」
 まだ疑っているらしい鬼塚に秋良は苦笑いで答える。
「鬼塚がお風呂に入っている間に、僕が続きを作るよ。大丈夫。洋也ほどうまくはないけれど、僕だって休みの日には料理もしているんだから」
 秋良は明るく答えるが、それでも友人は納得できないでいるらしく、難しい顔つきを崩さない。
「お前、やっぱりあの人に気を遣いすぎてるよ。それにあの人もさ、やっぱり忙しいのに無理してるんじゃないのか? こんな距離の無い付き合いは続き難いぞ」
 忠告はありがたいが、そのアドバイスはやはり二人の関係を知らないので、どこかずれてしまっている。
「あのさ、鬼塚。聞かれなかったから言わないでいたのは悪かったってわかってるんだけど、僕たちは……」
「俺、お前がそんな風にあの人に気を遣って庇うのを見ていたくないな」
 鬼塚が強い口調で秋良の言葉を遮ってしまう。
「え?」
「他人に気を遣い過ぎながら一緒に暮らしているのなんてしんどいだろ」
「そんなことないよ……あのさ」
 秋良が必死で言い返そうとしたとき、玄関の開く音がした。
「あ、帰ってきたみたい」
 ほっとして鬼塚から視線を外し、廊下へと顔を出す。
「おかえり」
「ただいま。すまない、秋良たちが帰るまでに戻るつもりだったんだけれど、話が長引いてしまって。すぐにできるから」
「うん……、仕事? 忙しい……んじゃないの?」
 歯切れの悪い秋良の返事に、洋也はなんとなくわかったように小さく息を吐く。
「的場先生の所に行って来たんだよ。それで少し話し込んでしまったんだ」
「どこか悪いの?!」
 馴染みのある医者の名前が出て、秋良は驚き、心配そうに尋ねてきた。
「違うよ。少し聞きたい事があったんだ。電話だとニュアンスが伝わり難いと思ったから、直接聞きに行っただけだよ。どこも悪くない」
「本当に? 家族の誰も?」
 洋也の方から的場に近づくなど、とても珍しいことなので、秋良はまだ完全に疑惑を晴らしていないようだ。
「誰も悪くないよ。何かあれば、必ず言うから」
「だったらどうして……」
 それでも釈然としない秋良に、洋也は安心させるように微笑んだ。
「すべて済んだらちゃんと話すから。あぁ、鬼塚さん、先に風呂に入られますか? 出てこられるくらいにはできていますから」
「え、えぇ。それじゃあお言葉に甘えて」
 鬼塚は問い詰める秋良を唖然として見つめていたが、洋也に話を振られてはっとした。
 秋良が慌てて風呂の用意をしに行くのに、自分も着替えを取りに行こうとする。
「鬼塚さん」
 背中に呼びかけられて、鬼塚はビクッとして足を止めた。
「なんですか」
「的場先生というのは、県立病院の医者です」
「…………そう、ですか。……それが、何か?」
 振り返らずに鬼塚は話の続きを聞こうとする。
「何でもありません。あなたには、関係ない話でしたね」
「そうですね」
 鬼塚は廊下へ出て行く。秋良が声をかけて、二人で浴室へ行くのがわかる。
 洋也は溜め息をついて、野菜を茹でるための湯を火にかけた。


 コンコンと控えめなノックの音に、洋也はうんざりしながら、「はい」と硬質な声で答えた。
 とうとう偶然を装ってではなく、直接揺さぶりをかけに来たのかと思ったのだ。
「忙しい?」
 だが、薄く開けたドアから顔を覗かせたのは、愛する人だった。
「全然。順調にはかどっていて、ゆとりが出ているくらいだよ」
 洋也が説明すると秋良は安心したように笑って、部屋の中に入ってきた。
「どうしたの?」
 時計を見れば午前一時で、いつもならばぐっすり眠っている時間だ。
「うん……なんとなく寝付けなくって……」
 ソファーに座った秋良の横に洋也も腰かけた。
 そっと腰を抱き寄せる。
「一緒に寝ようか」
 秋良は迷うように首を傾げてから、うんと頷いた。
「子守唄を歌ってあげる」
「嫌だよ、洋也の子守唄って英語だもん」
 秋良の思わぬ抵抗に洋也はくすっと笑う。
「じゃあ、秋良の子守唄を教えて」
「そっ、それはもっと嫌だ」
 顔を赤くした秋良の頬に優しいキスをする。
「もうー」
 洋也の顔を押し返して立ち上がる。
 『もう一人で寝る』と言うかなと心配したが、本当に寝付けなかったのか、秋良は洋也が立ち上がるのを待っていた。
 足音を忍ばせるようにして二階へ上がる。
 しんと静まりかえった家の中で、会話もなく寝室へと入った。
 洋也が先にベッドへ上がり、秋良を腕の中に招き入れる。
「おやすみ」
 頬と唇にキスをしあう。
 パジャマの胸元を握った秋良の背中をトントンと撫でるようにたたきながら、洋也は本当に子守唄を歌い始める。
「やっぱり英語だ」
 秋良がクスクスと笑うのに、洋也も笑い返す。
「これしか知らないんだよ」
「変なのー」
 憎まれ口をききながらも、秋良は小さくあくびをもらす。
 目元にかかる髪を払ってやりながら、洋也はゆっくりと優しいメロディーを奏でる。
 やがて規則正しい寝息が聞こえるまで、洋也はその歌を歌い続けた。


 二人が階段を上って行くのを、鬼塚はドアの隙間から覗き見ていた。
 憎しみに燃えるような、強く悲しい視線で……。



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