夕食の下ごしらえをしていると、テーブルに乗せていた携帯電話が鳴り始めた。
 キッチンペーパーで手を拭って携帯を開くと、弟の名前が表示されている。
『ヒロちゃん? アキちゃんのことを調べてる奴がいる』
 もしもしと出た電話に、勝也はいきなり用件を話し出す。しかもとても平静ではいられないような内容を。
「どういうことだ?」
 野菜を茹でるために沸かしていた湯の火を止める。
 簡単に済ませられる内容ではなさそうだ。
『少年犯罪のルポを書くとかで、ゆすられるようにして話をさせられた同級生がいる。今のところそいつ一人だけ。心当たり、ある?』
 心当たりと言われても、今はそれほど機密性の高い仕事をしてはいない。しかも取引経験のあるところばかりなので、今さら洋也の身辺調査で秋良を調べるとは思えない。
「こっちを調べると言うのならわかるんだが」
 ただ一つの心当たりといえば、今現在ここに滞在していて、毎夜チクチクと嫌味を繰り返す男の存在だけだ。彼が洋也のことを調べると言うのならわかるが……。
「秋良のことを調べる必要がない」
『俺もちょっとおかしいと思ったんだよね。そいつアキちゃんの名前、あきよしって読んだらしい。だからアキちゃんのことを詳しく知っていて調べているとは思いにくいんだ。とにかく、ルポライターと名乗ってる奴の名刺は手に入れたから、画像を添付して送る。そっちで調べてくれるだろ?』
「あぁ」
 当然犯人を突き止め、手にした情報は回収するつもりだ。
『同級生と兄弟・後輩関係を経由して教え子たちに口止めはしてる。さすがに小学生には聞きこみに行かないだろうけど、保護者関係も母さんに話は通しておくから。次に誰かに接触があればすぐにわかるようにしてある。こちらから近づくこともできると思うけど、三池の名前を出すのはまずいんだよね?』
「あぁ、多分な」
 勝也の言うように秋良のことだけを調べているのなら、名前の読み間違いはしにくいだろう。反対に本当に少年犯罪のルポを書くためなら、恐喝まがいの方法を取ることはないはずだ。どこかに記事を売るにしても、そういった方法で書いたものは、出版社も後々の苦情を恐れて手を出しにくい。本物のルポライターならばその辺のことはわかっているはずなのだ。
『じゃあ友達の名前を借りるようにするから、接触する必要が出来たら連絡頂戴。他に何かわかったらすぐにメール入れるから』
「わかった」
 電話を切るとすぐにメールが届く。森下圭祐という名前と携帯の電話番号しかわからない。
 これが本名という保証もない。
 けれど携帯の番号がわかれば、それなりに調べる方法はある。
 洋也はいつも利用している調査事務所に連絡を入れた。名刺の画像も転送する。
 勝也が連絡を回してくれたので、これからは教え子達に話を聞けないだろう。ならば次にどうするだろう。どこを調べるだろうか。
 答えは一つしかないように思われた。
 彼らならば問題はないと思われるが、先に情報があったほうが良いだろうし、何か引き出してくれるかもしれないという期待もあったので、洋也は連絡を入れることにした。
 まだ仕事中かもと案じたが、鳥羽はすぐに電話に出てくれた。
『何かありましたか?』
 洋也から連絡をするのは非常に珍しいことなので、余計な会話をせずに本題に入ってくれる。無駄のない対応がありがたかった。
「秋良のことを調べている人物がいます。元の教え子に接触してきました。そちらを止めているところなので、話を聞けないとなると、大学時代の友人に向かうかもしれません」
『あー、そりゃそうですよね。こっちにも不用意に喋る奴はいませんけど、念のために連絡を回しておきます。何か聞き出したいことってありますか?』
 こちらから話を振らずとも察してくれるのも嬉しい。
「どうせ目的は喋らないでしょうから、その人物の出身地を聞き出してもらえますか?」
 もしかすると鬼塚に通ずるかもしれない、というのはただの直感かもしれないが、彼が秋良との再会を狙った理由が知りたくなった。
 そして空白の時間に至った原因についても、こういう事態になってくれば興味が出てくる。
『あー、やっぱり高校の同級生がおかしいかもってことですか?』
「えぇ」
 鳥羽に利用されているんじゃないかと疑われたと、秋良が憤慨していたことを思い出す。
『そりゃおかしいですよね。だから言ったのに、素直に信じすぎるから』
 今のように鳥羽は秋良を諭すように言ったのだろう。二人の会話が想像できて、電話の相手に気づかれないように苦笑する。
『そうなってくると、ちょっと楽しみかな。俺の所に聞きに来ないかなぁ。いじってやるのになー』
 口調はとても楽しそうだが、心情はどうだろう。
 内心ではかなり腹を立てているのではないだろうか。洋也と同じように。
「まだこちらが調べていることに気づいていないと思わせておいて下さい」
 油断させたい。その瞬間まで手の内は見せたくない。そして秋良には何も気づかせたくない。
『秋良にもでしょ? ちょっと甘い気もするけれど、わかりました』
 簡単に打ち合わせをして、通話を終える。
 もう一件、調べてもらっていた結果を聞こうと数字を押しかけて、思い直して手を止めた。
 代わりに車のキーを手に取った。
 込み入った話になるとすれば、電話越しよりは直接の方がいいだろうと思ったのだ。
 秋良たちが帰るまでには戻れるだろう。
 洋也は戸締りをして、車に乗り込んだ。



「もしかして、今日は調子よかった?」
 既に馴染んだ待ち合わせの場所と時間。そこで待っていた鬼塚を見つけて秋良は駆け寄った。
 今までは疲れた顔をしていた友人が、今日は調子が良さそうに見えた。そう思うと、顔色もよく、表情も明るく見えてくる。
「何だよ、昨日まではどうだった?とか、聞きもしなかったのに」
 そう答える声も軽く感じられる。
「だって、一目見ただけで駄目だったのかなーっていう顔してたし。うまくいったら鬼塚から話してくれると思ってたから、良くなさそうな時は、そんなこと聞くのもプレッシャーになると思ったから」
「気を遣ってくれてたんだ、安藤なりに」
「うん……まぁ、そう。下手で悪かったけど」
 相手が聞けば怒り出しそうな台詞も、秋良はそのままの意味に受け取り、腹を立てるどころか謝ってくる。
「じゃあせっかく喜んでもらって悪いけど、今日も全然駄目だった。調子良さそうに見えたんなら、ここまで駄目だと、吹っ切れるっていう感じかな」
 途端に秋良の顔が曇る。
「いや、そう落ち込むなよ。何しろ本命はまだなんだからさ」
 反対に慰めるように、鬼塚が秋良の肩を叩く。
「そうか……。何か手伝えることがあったら言えよ。協力するし」
「面接の練習とかか?」
 鬼塚が笑うのに、秋良もつられて笑った。
「家に泊めてもらうだけでも、もう十分に協力してもらってるんだからさ、あんまり気を遣うなよ? それでなくてもさ、あの人に気を遣ってるだろ?」
「え? いや、洋也には気を遣ってないよ? 僕のほうが甘えてるくらいなんだよ。昨日も言っただろ?」
 この誤解をどうやって解けばいいのだろうかと、秋良は首を傾げて悩む。
「あんまり無理すんなって。ほら、高校の時も言っただろ、俺。安藤は自分でも知らないうちに人に気を遣いすぎて、突然体調を崩したりするんだよ。おばさんも心配してたぞ。一度胃を悪くして入院したんだって? 今の生活が負担になっているんじゃないか?」
「母さんはもー、余計なことまで喋るんだなー」
「俺が聞いたんだよ、安藤は元気ですかって。今は元気よ、って仰るから、どこか悪かった事があったのですか、って俺から聞いたんだ。おばさんが悪いわけじゃないから」
「あの時は赴任して一年目で、生徒の事でいろいろあったからだよ」
 そこに洋也のことも絡んでいたのは、今は絶対に言わないほうがいいだろう。誤解している上に、さらに洋也を悪く思われてしまう。
「田舎に帰るって話もあったんだろう? 安藤が帰るんなら、俺も無理をせず、向こうで探すんだけどな」
「え?」
「ちょっと収入は悪くなるけどさ、向こうはそもそも物価が安いから、贅沢しなけりゃやっていけるんだよな。だけど、俺はこっちに出てきて、お前ともう一度親友に戻りたかったんだ」
「鬼塚……。戻るも何も、ずっと友達のままだよ。僕はそのつもりで……」
 秋良が混乱気味に答えると、鬼塚は嬉しそうに笑った。
「ありがとな、安藤」
 だけど向こうには帰らない。その台詞は電車が目的の駅に到着してしまったので、言えないままになってしまった。





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