真夜中に起き出した鬼塚が廊下を歩いていくと、ダイニングに灯りがついていた。
 そっと覗くと、家主がコーヒーを作っているらしく、香ばしい薫りが漂ってきている。
「眠れませんか?」
 向こうも鬼塚に気がついたらしく、声をかけてくる。
「トイレに起きただけですから」
 声をかけられたからと、ダイニングへ入る。
「飲みますか?」
 コップを出して聞かれるが、鬼塚は首を振った。
「眠れなくなると困りますから」
 コップを戻す洋也は、断られてもさして気にした様子もなく、自分のマグカップだけをテーブルに置いた。
「安藤にも聞いたんですけど……」
 すぐに立ち去るかと思っていた鬼塚に話しかけられて、洋也はコーヒーメーカーに落としていた視線を上げる。
「生活習慣がこうも違うと、お互いに不便じゃないですか?」
「不便とは感じません」
 夜中に起き出してきたのは、実は自分に絡むためだったのだろうかと、洋也は内心うんざりする。
「自宅で昼夜逆転の仕事でしょう。その上に同居人のために家事もするのは、時間的にも負担でしょう」
「ずっと夜中に仕事をしているわけじゃないですよ。料理も好きでいることですし」
 いっそ気持ちの上で彼を切ることが出来たならどれほど楽だろうかという誘惑に駆られる。
 そうすれば存在さえも消せるのに、という危険な考えが浮かぶ。
「安藤はそういう擦れ違いの生活に、とても気を遣うんじゃないかな」
「例えばどんな風に?」
 ただ絡みたいだけなのか、何か深い意味があるのか、つい探りたくなった。
「貴方が仕事をしているときや寝ているときに、物音をたてては申し訳ないとか、反対に貴方が仕事をしているときにのうのうと寝ているのは気が引けるとか」
「そんな程度のことはもう話し合い済みですよ」
 一緒に暮らし始めたとき、確かに秋良は洋也の生活に色々と気を遣っていてくれた。それは鬼塚の言ったような意味ではなく、洋也の仕事の邪魔に自分がならないかということだ。
 忙しければ食事の支度などしなくていい、眠いときには自分の相手をしないで寝て欲しい、など。
「話し合いなんて……。安藤は貴方に気を遣わせまいとして、自分の言いたいことを言わなかったんじゃないかな。そんなところがあるから」
 まるで自分の方が秋良のことはわかるのだという口振りは、耐え難いものがあったが挑発に乗るなという自制心が勝った。
「秋良は自分の言いたいことは、ちゃんと僕に言いますよ」
 コーヒーが出来上がる。眠気覚ましに入れたつもりだったが、精神安定の方に役立ちそうだなと感じていた。
「安藤が言ってるとしたら、それは貴方にそう思わせるためだ。貴方が『言いたいことは言ってもいいよ』と言って、そうしていると思わせるために、貴方の負担にならないことを口にしているだけだ。わからないんですか?」
「そんなことはない。としか言えませんね」
 自分には自信があるが、それで相手が納得してくれるとは到底思えなかった。
「僕に言うのは勝手にすればいいと思いますが……」
 コーヒーを暖めたマグカップに注ぐ。ミルクも砂糖も入れない。褐色の液体が芳醇な薫りを放っているが、心を落ち着かせてくれるほどではないのが残念だ。できる事なら一人でゆっくり味わいたかった。
「秋良に同じように言うのはやめてください」
「何故ですか。やっぱり気を遣わせていると感じているから?」
 薄く浮かんだ笑みがあまりにも暗い。
「貴方ともう一度友人に戻れたことをとても喜んでいるからです」
 暗い笑みが強張り、歪んだまま洋也を見据える。
「おやすみなさい。喉が渇いたのなら、冷蔵庫にミネラルウォーターも入っています。中のものは自由に飲み食いしてくださってかまいませんから」
 新しいガラスコップをテーブルの上に置いて、洋也は自分のマグカップを手にダイニングを出て行った。
 鬼塚は一人で残され、胸に手を当てて大きく息を吸い込んだ。
「まだ……負けない」
 ハァハァと息を繰り返し、水道を勢いよく流して、出されていたガラスコップを突っ込んだ。


 震える指先で並んでいるCDの中から一枚を摘み出す。
 収録されている曲名を確かめるふりをしながら、辺りを注意深く見回す。
 ここは店内に仕掛けたられ監視カメラからはどれからも遠くて、人相や手元がよく見えないと聞かされていた。
 ごくりと唾を飲み込むが、カラカラに渇いた口には飲み込める唾はなく、喉がひりりと痛くなった。
 左手に持っていたカバンの口を開きながら手元に引き寄せる。
 その中へCDを素早く滑り込ませようとしたところで、ガシッと手首を掴まれた。
 息が止まる。それまでも速かった鼓動は、さらに大きく速くなる。
「俺は店員じゃないよ。ちょっとさ、君に話を聞きたいだけなんだよね」
 CDを元に戻すと、自分の手を掴んだままの男に引かれて、店外へと出た。
「君、瀬戸君だよね。陵小学校出身の」
 名前を知られているということに、瀬戸は酷く驚いて、同時に他に何を知られているのかと不安に陥った。
「あ、あの、俺……、その……」
「僕は警備員とかじゃないから。君を店や警察に突き出すつもりもないんだ」
 妙に明るい笑顔は、この場に相応しくない。その明るさが逆に不安を煽る。
「こういう者です」
 男が差し出した名刺を受け取る。人生で名刺を差し出されることなどはじめての高校生は、怯えながらもそれを手に取った。
 フリーライター・森下圭祐と書かれているだけのシンプルな名刺を、どのように受け止めていいのかまったくわからない。
「若い子たちが犯罪に手を染めるのに、児童期をどのように過ごしたのかが関係あるんじゃないかってことを、ルポルタージュにしてまとめようと思っているんだ。いずれ雑誌載せることになるけれど、もちろんな前も写真も出さないから、ちょっと取材させてくれないかな?」
「それ……断ったら……」
 足が小刻みに震えてくる。早く逃げ出したいが、この記者がどうするつもりなのかを知りたい。知らなければ、ずっと怯えなければならない。
「うーん、あんまり見せたくないけどねー」
 森下はデジカメを取り出して、ディスプレイを瀬戸に見せた。
「あっ…」
 瀬戸がCDを掴み、カバンの口を広げて近づけるところが映っている。このシャッターを押してすぐに瀬戸の腕を掴んだらしい。
「話を聞かせてくれたら、この写真は使わない。話を聞かせてもらえないなら、この写真を他の子の話の背景に使わせてもらおうと思ってる」
「そっ、そんな……」
「顔は隠すけれどね、君は未成年だから」
 顔を隠されても、制服は映っている。学校は必死に該当者を探すだろう。そして自分はあいつらに突き出されるのだ。憐れな生贄として。
「話って……どんな」
「簡単なことなんだよ。さっきも言っただろう。少年犯罪者がどんな児童期を過ごしたのかってことを知りたいのさ。君は陵小学校出身で、担任の先生は安藤あきよし先生だね?」
 違う……。そう言いたかった。
 思い浮かんだのは、優しかった先生と、頼りになるクラス委員の顔だった。

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