珍しく早く帰られるんですねと同僚の教師達に軽く驚かれながら、秋良は待ち合わせの喫茶店へと急いだ。
 予定していた面接といくつかの会社も訪問すると言っていた鬼塚は、既に店内でコーヒーを飲んでいた。
 ぼんやりと力なく外を眺めている姿に、うまくいかなかったのかと心配になる。まだ初日ではないかと秋良の方が自分に言い聞かせて、明るく友人に近づいた。
「待った? ごめんな」
 本当にぼんやりしていたのだろう、目の前に座った秋良に、驚いたように顔を上げた。
「ごめん、驚かせた?」
「いや、悪い、なんか、うとうとしてて」
 鬼塚は気まずそうに手の平で顔を撫でた。
「疲れてるんだよね。色々と神経も遣うだろうし。はやく帰って休もうよ」
 秋良はオーダーを聞きに来たウエイトレスも断って席を立った。そのまままた駅へと向かう。
「安藤、もう切符は買ったから」
 秋良は定期を持っているが、友人のために切符を買おうと、改札口で自動販売機に向かう秋良の背中に鬼塚が声をかける。
「あ、そう? さすが、準備がいいね」
 秋良は屈託なく笑って鬼塚に並ぶ。
「鬼塚って教室移動のときとか、よく僕の分も準備してくれてた」
「安藤を待ってたら、いつになるかわかんないよな」
 からかうように笑われて、秋良はギリギリにはできていたつもりなんだよなと、軽く抵抗してみせる。
「安藤のすることだから、遅れはしないんだろうけれど、遅刻しそうだとか自分で慌てて怪我とかしちゃいそうで、見てられなかったんだよな」
「みんなそう言うんだよなー」
 どうしてみんな同じように言うのだろうと、秋良は笑いながらも怒ってみせる。
 さほど待つことなく、電車がやってきて、並んで乗り込んだ。
「みんなって? あの三池さんとかか?」
「あぁ、そういえば、洋也はそんなこと言わないな。言うのは大学の友達」
 口煩い悪友の顔を思い浮かべては、なんだとーと怒る顔まで一緒に浮かんで、秋良はおかしくて笑い出してしまう。
「そいつとは仲いいのか?」
「下宿が隣同士になってさ。今も同じ職業だし、きっと一番仲いいよ」
「じゃあ、どうしてそいつと一緒に住まなかったんだ?」
「え?」
 突然の質問に秋良はきょとんとして鬼塚を見た。
「三池さんとは大学も仕事も違うだろ? 一緒に住むなら、大学の友達の方が気が楽だったんじゃないかなと思ったんだけど」
 最もな質問をされて、秋良はどう答えようかと迷った。
 洋也との関係を打ち明けるのなら今がいいように思う。けれど、決心はついていても、電車の中で彼が恋人なのだとは、やはり言い出しにくかった。
「それはさ、いろいろあって。あとでちゃんと……」
「あの人、無口だし、あまり愛想もよくないし、安藤とは趣味も合わないみたいだし。第一さ、生活習慣が違いすぎるだろ」
「生活習慣?」
 洋也に関する見識はあまりにも現実とかけ離れているのだが、それを訂正するよりも気になったことがあった。
 秋良にとっては快適でしかない生活の何が違いすぎるというのだろう。他人からはどのように見えているのか、それも少し気になったのだ。
「夜中にさトイレに起きたら、あの人、仕事してるって言ってたぞ」
「あぁ、たまに夜中に仕事して、昼に寝るパターンもあるみたい。僕は夜は寝てるし、昼は学校だから、あまり気にならないんだけど」
 洋也が仕事で無理をしていなければいいなというくらいで。
「安藤はさ、誰にでも気を遣い過ぎるくらいだからさ、あの人に対しても無理してるんじゃないかって心配になったんだ。一緒に住んでるって言ってても、あの人はすごく稼いでそうだし、俺たちとはなんだか人種まで違ってそうで、気後れしてしまうよ」
「無理なんてしてないよ。むしろ甘えてるくらいで。甘えすぎてて悪いなぁって、思ってるくらい」
「ほら、それだよ」
 わかったようにしてされても、“それ”が何を指すのかわからない。
「あの人はものすごく頭がよくないか?」
「いいと思う」
 大学は国立だし、その大学院にまで行けるくらいだし、何ヶ国語も話せるし、ちょっとした会話でも博識ぶりにびっくりすることがよくある。
「あの人は秋良に『甘えすぎてて悪いなぁ』って思わせるようにしているように感じるんだよ」
 秋良は鬼塚の言った意味を考えて、次の瞬間には爆笑していた。
 電車の中で視線を集めてしまい、秋良は声を潜め、顔の前で手を振った。
「ないない。それだけはないよ。確かに見た目は怖い感じだけど、本当にとっても優しいんだよ」
 あまりフォローとは言えないながらも、洋也はそんな奴じゃないと断言する秋良に、鬼塚は申し訳なさそうに謝ってくれた。
「変なこと言って悪かったな。安藤が心配で、つい」
「いいよ。洋也ってさ、誤解されやすいみたいなんだ。さっきも鬼塚は無口って言ってたけど、全然無口なんかじゃないよ。口煩いって言ったら、また誤解されるかもしれないけど、たくさん話もするよ。色んなこと知ってるし、いい奴なんだよ」
 鬼塚にも洋也のいい所を知って欲しい。
 一週間もあれば、きっと鬼塚も洋也がいい奴だとわかってくれる。
 秋良はそう確信して、吊革をぎゅっと握った。


 玄関を開けると、今日も白い仔猫がお迎えにでていた。
 そしてキッチンからはいい香りがしている。
「今日の夕飯はなんだろう。なんだか和食のような気がしない?」
 秋良は本当に楽しみだというように鼻をくんくんと鳴らす真似をする。
 甘辛い醤油と出汁の匂いに、鬼塚も緊張の一日を忘れるように、空腹を感じ始める。
「おかえり」
 やはり言葉は短い。必要でないことには言葉も惜しんでいるかのようだ。
「ただいま。美味しそうな匂い。今夜は何?」
 秋良はさっさと靴を脱いであがっていく。気持ちはもうテーブルに座っているかのようだ。
「鬼塚もほら、早く行こうよ。お腹空いただろ?」
「あぁ、うん」
 秋良に続いてキッチンに入って、今日もまたすごいなと鬼塚は目を見開いた。
 完璧ともいえそうな和食が並んでいる。
「味噌汁を温めておくから」
 今度も続きを言わなかった洋也だが、秋良はわかっているというように、鬼塚に着替えてこようと声をかける。
 無口なのは、二人の間に言葉は必要ないというのを見せられたような気持ちになる。
「鬼塚、行こうよ」
 秋良は嬉しそうに手を洗うために浴室へと向かう。
 じっと鬼塚を見つめる視線に軽く頭を下げて、横をすり抜けて友人の後を追っていく。
「和食も作れるんだな」
「何でも作れるよ。あ、もしかして、苦手なメニューがあった?」
 テーブルに並べられていたメニューを思い出す。
 焼き魚とふろふき大根、煮豆腐に鯛の子の煮凝りと若布の味噌汁。
 疲れた身体に、消化の良さそうな料理はありがたかった。
 昨日と同じように鬼塚は先にお風呂を勧められて、言葉どおりにする。毎回、どうぞ、いやそんなと遠慮するのもおかしい気がしたのだ。
 さっぱりとして風呂から出て廊下を歩いていくと、二人の会話が聞こえてきた。食事の後片付けは終わったようで、秋良の少し高めの声がよく響いてきた。
 盗み聞くつもりはなかったと、心の中で言い訳をする。
「僕が体調悪い時のメニューだよね。鬼塚が疲れてるの、気遣ってくれたんだ」
「彼だけのためじゃないよ。秋良が気を遣いすぎて、胃を悪くしないように、予防のメニューだよ」
「僕はそんな……」
「僕にも彼にも、気を遣っているだろう? 僕のことは気にしないで、一週間やりたいようにしていいよ」
「ありがと……」
 嬉しそうに礼を言う秋良の声に、鬼塚は無意識に一歩二歩と下がる。
 秋良の言ったように、洋也は決して無口なのではないらしい。
「それでも……悔しいんだ……」
 鬼塚は自分の足元に呟くようにして、ぎゅっと目を閉じた。







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