「……これは、どういうこと、ですか」
 鬼塚はよろけるように椅子に座り込んだ。目の前の医者は唇の端に軽い笑みを刻むだけでこちらの様子を気にしてくれそうにはなく、その隣に立った男は氷のような視線で見下ろしてくるだけだ。
「どうしてここに……。俺のことを……調べたのか」
「偶然ですよ」
 感情のこもらない口調。家で居るときとは天と地とほどに違う。
 これがこいつの本性なのではないかと気がついた。やはり秋良は騙されているのだ。
「ここの病院は患者の個人情報を漏らすのか。守秘義務はどうなってるんだ。訴えてやるからな」
 開き直ったつもりが、自ら患者であることをばらしてしまっている。
「僕は何もこの病院から聞き出してはいませんよ。訴えられるのならどうぞご自由に」
「し、しかし」
「僕は自宅で拾ったゴミが薬の台紙であることを知り、もしかして秋良が何か病気なのではないかと心配になり、その薬についてどんな病気の人が飲むものなのかを、旧知の的場医師に尋ねただけです。的場先生はその薬について説明してくれただけです、個人の情報など欠片ももらしてはいません」
 淡々と述べる説明におかしいところは見つけられない。
「だったら、どうしてここにいるんだ」
「たまたま病院に来たら貴方を見かけた。点滴を受けていて、どこか悪いのか気になった。けれどここまで僕は車で来ているので、貴方を乗せて帰ることができる。だから的場先生に点滴が終わったら呼んでくださいとお願いしただけです。何か不審な事がありますか?」
 不審だらけだ。だが、齟齬はないように思える。
「じゃあすぐに帰ろう」
 腰を浮かせかけると、洋也は薄く笑った。確かに笑ったのだが、それは背筋が寒くなるような冷たい笑顔だ。
「まぁお待ちください。この薬、貴方が飲んだものですね?」
 テーブルの上に銀色の台紙が置かれる。確かに嫌というほど見覚えがあった。


 鬼塚が捨て損ねたゴミを拾ったあの夜、洋也は気軽にインターネットで調べようとした。
 だが、それは簡単には検索には引っかからなかった。
 製薬会社のホームページも見てみたが、消費者向けページでは全くわからなかった。そこで少しばかり裏の手を使い、社内用コンピューターに忍び込んだ。
 そこまでは簡単だった。が、新しいと思われるこの薬についてはとても厳重なセキュリティーがかかっているらしかった。
 外部と繋がっているコンピューターに情報を残すことはしていないようだ。
 もう少し手を考えれば出来ないこともなかったが、それよりはもっと簡単に情報を得る方法を選んだ。
 できる事ならば一番頼りたくない相手だが、この場合最も相応しいのはその人以外にいない。
 患者のことまではさすがに教えてくれないだろうが、薬のことなら教えてくれるのではないか。
 真夜中だったが、洋也は携帯電話のメモリーから名前を選び出した。
 呼び出し音の代わりに、軽快なメロディーが聞こえてくる。メロディーコールを使うとはなかなかの中年である。
『もしもし?』
 不機嫌そうな声に、もしかして寝ていたのだろうかと心配になる。
「三池です。ご無沙汰しています」
『何かあったのか? 嫁さんか?』
 夜中にかかる電話にろくなものはないと以前にぼやいていたのを聞いたことがある。今回も洋也より秋良の心配をしてくれているらしい。こんな時間に起こしたにもかかわらず。
「すみません。お聞きしたいことがあったんです」
『あー? つまんねーことだったら、今度来たとき、注射するぞ、この野郎』
「ですから、すみません。薬のことなんですが」
『お前の好きなパソコンで検索しろや。近頃じゃ隠したいことまで素人が調べやがるんで、やりにくいったらありゃしねー』
 薬の検索サイトに対する文句を洋也にぶつけてくる。
「調べてもわからないから電話したんです」
『こんな夜中に?』
「それはお詫びします。でも先生は夜中の方が捕まえやすいので」
『まぁいいけどよ。で、なんていう薬だ?』
 口調の悪さとは反対に、突き放さないところが的場らしい。
 洋也はアルファベットと数字の組み合わせを口にする。それを聞いた的場が電話の向こうで黙り込む。
「先生?」
『その薬、安藤君やお前の関係者じゃないだろうな?』
 急に口調と声が変わった事で、深刻さが伝わってくる。
「違います」
『ちゃんと調べてから電話するわ』
「お願いします」
 電話は唐突に切れた。


 もう病名まで知られているのだろうと覚悟をして、鬼塚は吐き出すように言った。
「俺が飲んだとして……あんたには関係ないだろう」
「えぇ、もちろん無関係です。ですが秋良に少しでも関わってくるとしたら、僕は黙って見過ごすことはしません」
 きっぱりと言われ、唇を噛む。
「そんなこと、どうだっていいだろう。俺は病気のことは言うつもりはない」
「そしてまた秋良の前から黙って姿を消すというわけですか」
「なっ…!」
 思わず立ち上がると、椅子が倒れてガタンと嫌な音が鳴る。
「高校三年生の貴方が何も言えずに秋良を遠ざけた気持ちはわからなくもない。けれどどうして今また、同じことを繰り返そうというのか、僕にははなはだ疑問です」
 痛いところを指摘され、鬼塚は挑むようなきつい視線で洋也を睨んだ。
「同じとは限らないだろう! 俺はわけを話してっ、そっ、それで安藤をあんたから引き離すんだっ」
「秋良の意志は?」
 少しも動じずに聞き返され、鬼塚は苛立ちを募らせる。
「安藤はきっと俺の頼みを聞いてくれる。あいつは弱い立場のものの言うことは断れないんだ」
「病気を盾に同情させて、断れないようにするというわけですか」
 ずばりと指摘されて、鬼塚はかっと顔に血を上らせる。
「それは無理でしょうね。秋良は貴方の頼みを断る」
 同道と宣言されて、鬼塚は悔しそうに顔を歪ませる。
「どうして言い切れる。安藤は弱い立場の人間の頼みを断れない……必死の懇願を嫌とは言えない……」
 洋也は目を閉じ、軽い溜め息をついた。そしてゆっくりと目を開く。
「貴方の言う秋良は……高校三年生のままなんですね」
「そ……」
「それから何年経っていると思いますか。僕と秋良の過ごした時間は、とても長く、楽しいばかりじゃなかった。今の時間を得るために、どれだけのことを乗り越えたのか貴方は知らない。貴方は今の秋良を何も理解していない」
 鬼塚はうなだれた。一つ一つの言葉が鬼塚を打ちのめす力となって襲ってくるようだ。
「確かに……そうかもしれない。けど……」
「貴方は十八歳で時間を止めてしまった。自らの意志で。秋良から逃げることによって。僕は貴方が時間を進めようとして秋良に会いに来るのだと思った。なのに貴方は時間を巻き戻そうとしている。無理なことはわかりきっているのに」
 鬼塚は力なく床に座り込んだ。
 肩が震えているのは、泣いているからだろうか。
「貴方は時間を進めるべきだ」
 今までとは違う声音。まるで別人だと、涙を堪えているのに笑い出してしまいそうになる。
「俺にはもう……っ、進める時間なんて……ないのに」
 わかっているはずなのに、酷いことを言う奴だ。きっと秋良のことしか考えてないんだなと思った。
「踏み切るために会いに来たんでしょう? 秋良なら貴方の背中を暖かく押してくれるでしょう。それに、貴方は一人じゃない。時間を進めなければ、そのことに気がつけませんよ」
 意味ありげな台詞に、鬼塚は赤くなった目を上げた。
 目の前に一枚の名刺が差し出される。そこに記された名前を見て目を瞠る。
「秋良の事を調べていました。たいした事は調べられなかったようですが。秋良の友人に忠告を受けて帰ったようです」
 白い小さな紙の中で、その名前が酷く頼りなく見えた。
 必死に自分を見てくれていたのに、その笑顔に思い切れなかった想い人の笑顔を重ね、報われない寂しさを埋めようとしていた。
 この病気に罹ってしまい、一人で絶望を抱え、全てを捨て去るときに一緒に捨ててきた。なのに……。
「馬鹿だ……俺なんかのために……」
 堪えていた涙が頬を伝う。
「秋良のことでは泣かなかった貴方が、今彼のために泣く。それが答えでしょう」
 座り込む鬼塚の横を足音が通り過ぎていく。
 送ってくれるんじゃなかったのかよ。
 部屋に入ってきたときの会話を思い出して笑ってしまう。
 それはちっとも笑い声にはならなかったけれど。







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