玄関で秋良たちを出迎えた時、秋良の様子がおかしいことにはすぐに気がついた。
「ごめん、遅くなって。ちょっと寄り道してたんだ」
 明るく振る舞おうとする秋良に、今は気づかぬようにしてやらなければと、洋也はごく普通に微笑んだ。内心の怒りは最大の努力で押し隠して。
「食事も済ませてきたの?」
「それはまだ」
「もう用意はできてるよ。すぐに温め直すから」
 秋良はありがとうと笑って、足早に二階へとあがっていった。
「鬼塚さんも先に着替えてこられますか?」
 睨み付けないようにするには苦労した。今すぐにでも追い出したいが、それをしてしまえば苦しむのは秋良だ。
「はい。あぁ、そうだ。どうやら内定をもらえそうなんですよ。ずいぶんお世話になって、ありがとうございました」
 そんな喜ばしいニュースのあとで、友人同士がぎこちないのはどういうわけだと、問い質してしまいそうになる。
「そうですか。良かったですね。まさか本当に就職活動をしているとは思いませんでした」
 さらっと流すようにお祝いの言葉だけは口にする。心がこもらないのは、この際どうしようもない。
「どういう意味ですか」
「就職活動中の学生はたくさん見てきました。彼らはみんな事前にたくさんの資料を調べたり、提出書類を揃えて面接に臨み、帰ってきたときには内定が貰えるにしろ、貰えないにしろ、たくさんの書類を抱えてきていました。貴方は一度も書類らしきものを見もしなかったし、捨てもしなかった」
「新規採用と、中途採用では違いますよ」
「そうでしょうね」
 別にどんな答えが返ってこようとかまわない。かまをかけてみただけだ。動揺の端すらも見せないとは、なかなかに図太いようだ。
 洋也はあっさりと質問を切り上げてダイニングへと戻る。
 二人の間に何かあったとしても、自分のスタンスは一ミリも変わらない。
 鬼塚が秋良に何を言い、どんな揺さぶりをかけたのかはまだわからなかったが、秋良を信じ自分も信じてもらうという点では、二人の間に揺らぎなどない。
「あー、お腹空いた」
 テーブルに食器を運んでいると、秋良がひょいと覗きこんでくる。
「美味しそう。手伝うね」
 その笑顔はすっかりいつもどおりで、洋也もまた微笑みを返すことができた。


 内定のお祝いだと乾杯をして、食事は和やかに進んだように見えた。
 さすがに疲れたからと鬼塚が部屋に引き込んで、洋也が後片付けをしていると、背中から秋良がぴたりと抱きついてきた。
 とても珍しいシチュエーションだが、洋也はそれを茶化すような真似はしなかった。
「どうしたの?」
 優しい声で秋良に問いかける。
「勇気をわけて貰うんだ」
 洋也の胴に腕を回し、背中に頬をぴたりとくっつけている。
「わけるなんて言わないで。全部あげるよ」
 秋良の望むものなら何でも。そんな台詞に、秋良はくすっと笑う。
 エプロンで手を拭いて、洋也はくるりと振り返った。腕の中に秋良を抱きこむ。
「洋也ってさー、僕が人を殺したとしても、かばっちゃいそうだよね」
「当たり前だよ」
「即答するなよ、そんなこと」
 秋良が笑うのに、洋也は抱きしめた腕に力をこめる。
「迷う余地なんてないんだけど」
 秋良は困ったように笑っている。
「ちょっとは考えろよ。僕が洋也のことを騙してたらどうするのさ」
「ずっと騙されててあげる」
「もう、本当にバカだよな」
 ドンと胸を叩かれて洋也も苦笑する。バカと言われるのなら、十分に自覚している。
「だから僕がどんどん甘えた人間になるんだ」
 洋也のせいだとばかりに責められるが、それこそ洋也の望むところだった。
「もっと甘えてもいいよ。僕がいなければ生きられないくらいになって欲しい」
 怖いくらいの本音を、冗談に聞こえるように言うのは、かなりの自制を要した。
「もうなってるよ」
 なのに秋良は、洋也が泣いてしまいたくなるほど嬉しい返事をしてくれる。
「勇気は出た?」
「うん。……洋也さ、僕がどんな酷いことをしたとしても、お帰りって出迎えてくれる?」
「もちろん」
 これも即答だ。迷う必要もないことだった。
「ありがとう、洋也」
「愛してるよ、秋良。どんな秋良も、僕の秋良だから」
 頬にそっと触れるだけのキスをして、ぎゅっと抱きしめる。
 伸び上がってきた秋良が洋也の唇に口接ける。
 洋也は嬉しくて微笑んだ。
 秋良は照れたように笑って、ぎゅっと抱きついたあと、すぐに離れていった。


 細い管の中を透明の液体が伝っていく。
 その流れが見えるわけではないが、液体を溜めたバッグの中身がポトポトと落ちていくのが見え、わずかずつでも減ってるのと、だるかった身体が軽くなっていくのを感じるので、確かに液体は細いチューブを辿り、自分の中へと入っているのだろう。
 これが二本目。
 一日二本の点滴が、今の自分の命を繋ぎ止めている。それも単なるごまかしでしかない。それは自分自身がよくわかっていた。
 思い残すことを持ちたくなかった。
 脅しのような言葉に、周りは悲しそうに顔を歪ませながらも、引き止めることはしなかった。
 思い残したくなかった。
 なのに……。
「終わりましたねー」
 考えに耽っているうちに、まだまだだと思っていた点滴は空になっていた。
 看護士がテキパキと手際よく注射針を抜き、ガーゼを押し当ててテープでとめてくれる。
「ありがとうございました」
 ガーゼを手で押さえながらベッドから降りた。
「鬼塚さん、最近顔色がいいですね。外出が良かったのかしら」
 愛想のいい看護士の、おそらくは元気付ける言葉は、今の鬼塚には嫌味にも取れた。
 顔色がよく、体調がいいのは、食事内容が充実しているからだとしか思えなかった。
 病院内の給食よりも食べやすく、栄養面が整えられた朝食と夕食は、弱りきっていた身体にわずかばかりの力を取り戻していた。
 友人がいつもあんな食事を食べさせてもらっているのだとしたら、それはとても幸せなのだろう。
 わかっているのに……。
「あ、鬼塚さん」
 靴をはいて帰ろうとした鬼塚を看護士が呼び止めた。
「先生が少しお話があるそうなので、二階の第一相談室にいらしてください」
「わかりました」
 今頃なんだろうとは思ったが、十分わがままを聞いてもらっている身としては、嫌だとはねつけることもできずに、点滴室を出て階段を上がっていく。
 まだここはよく知らないので、院内の案内図を見ながら進んだ。
 第一相談室というプレートを見つけて、ドアをノックすると、中からどうぞと低い声が聞こえた。
 主治医の声ではないような気がして、もう一度プレートを確かめる。間違いがないことを確認して、ドアを引いた。
 中は思っていたよりも狭い部屋で、正方形のテーブルとホワイトボードがあるだけだった。手前に二客の椅子が置かれており、テーブルの向こうに見慣れない医者が座っていた。
 中年の医者は白衣の腕を捲りあげ、聴診器をだらしなくぶら下げている。
 精悍な顔立ちだが、無精ひげが目立って、どこか野蛮な印象も受ける。
 主治医の細く神経質そうな外見とは正反対だ。
「あの……?」
「鬼塚忠博さんですね。どうぞ」
 部屋は間違えていなさそうだ。鬼塚は戸惑いながらも頷いて、部屋へと入った。
「どうぞおかけ下さい。私はここの外科部長で的場といいます。貴方に少しお話があって、ご足労願いました」
 外見に似合わない丁寧な口調。促されるままに座ろうとして、その名前をどこかで聞いたような気がした。
 どこで聞いた名前だろうと医者の顔を眺めていると、的場は苦い顔をする。
「どうされました?」
 的場……的場……。そしていつ名前を聞いたのか、はっきりと思い出した。
「あっ」
 思わず腰を浮かせたら、目の前の医者は笑う。不敵な笑みで。
「貴方に会わせたい人がいるんです」
「俺は……」
 会いたくないという言葉は、うしろでドアが開いて振り返ったので、そのまま言葉にはならなかった。
「君は……」
「どうぞおかけ下さい。身体に障るといけませんから」
 家で聞くのとは大違いの冷たい声。
 秋良が寝てしまって、二人でやり合っていた時でさえ、こんなに冷たい声ではなかった。
 威圧感に押されるようにして、鬼塚は椅子に座り込んだ。
 そんな彼を洋也はガラスのように感情の感じられない視線で見下ろした。







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