秋良の帰宅時間は実は不規則なほうだ。
 授業が終わったからと言って、秋良の仕事も終わるわけではなく、色々とやらなければいけないことも多いし、秋良自身が生徒のためにと思って授業に工夫を凝らしているので、学校を出る時間は遅くなることも多い。
 早く帰れそうなときも、遅くなりそうなときにも、心配性な恋人のために連絡は入れている。
 鬼塚が来てからは彼と駅で待ち合わせるために、下校するのはわりと早くなっている。
 友人が滞在するのがわかっていたので、その分は計画的に前倒しにして調整はしてきたが、生徒相手のことなのでどうしてもアクシデントもあったりして、待ち合わせの時間に遅れることもある。 「ごめん、待たせて」
「気にするなよ。元々俺が無理をお願いしているんだし」
 喫茶店でコーヒーを飲んでいた鬼塚は、駆け込むようにしてやってきた秋良を見て微笑む。
 もうカップが空になっているのを見た秋良は、鬼塚が立つのを座らずに待った。
「ちょっとさ報告があるんだ。座れよ」
「う……うん。……でも、もう食事の用意ができてると思うよ。家で聞くのじゃ駄目かな」
 座り心地が悪そうに秋良は椅子の端っこに腰掛ける。
「だって、家だと二人きりになれないじゃないか」
 洋也が邪魔なように言われて秋良は戸惑う。
「話に割り込んだりしないよ、洋也は」
「そうかもしれないけれど、俺は安藤と大切な話をしたいんだ」
 ウェイトレスが水とおしぼりを持ってきてオーダーを待っているので、秋良は仕方なくコーヒーを頼んだ。
「遅れるって連絡を入れておくよ」
 秋良は携帯を取り出してメールを打とうとするが、それを鬼塚は手を差し伸ばして止めた。
「何?」
 秋良は驚いて正面に座る友人を見た。どうして邪魔されるのかわからない。
「そこまで気を遣う必要はないだろう? 確かに食事の用意はしてくれているんだろうけどさ、食費は払っているんだから、食べようと食べまいと、安藤の自由じゃないか」
「え? どういう意味? だって、わざわざ用意してくれているんだよ?」
「それは安藤が頼んだことなのか?」
「頼んだって……。頼んではいないけれど」
 鬼塚の突っかかる理由がわからずに、秋良は本気で困ってしまう。
「だったら向こうが好きでしていることなんだよ。させておけば?」
「そ、そんな。僕がいつも遅くなったり、作れなかったりするから、洋也が気を遣って作ってくれているんだよ? 僕が気を遣っているんじゃなくて」
 秋良としては事実を正確に述べたつもりだった。洋也のことをわかってもらうにはどうすればいいものかと、真剣に考え込む
「それがあの人の手なんだよ。秋良に気を遣わせているのに、自分の方が気を遣っているように思わせているんだ」
「そんなことないよ!」
 あまりの言われように、秋良はついきつい口調で言い返した。ちょうどコーヒーを運んできたウエイトレスがびっくりしてカップがガチャンと揺れる。
「あ、すみません。なんでもないですから」
 秋良は謝ってカップとソーサーを自分でトレイからテーブルへと運んだ。
 気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
「俺さ、今日、内定を貰ってきたんだ」
 気まずさに秋良が苦いコーヒーを口に運んだ時、鬼塚がぽつりと告げた。
「そう、おめでとう。良かった」
 秋良はにっこり笑う。洋也を悪く言われたことには腹が立ったが、鬼塚の就職が決まりそうなことは心から嬉しかった。
 高校卒業時に気まずくなって絶縁したままの友人と和解できて、久しぶりの交流の行く先がまた喧嘩のまま終わってはやりきれない。
「じゃあ、こっちにでてくるんだ?」
「うん、そうなるかな」
 歯切れの悪い返事に、秋良はどうしたのだろうと首を傾げる。
「近くに住めるといいよな」
「冗談だろ、あんな高級住宅街。マンションだって賃貸はないって感じじゃないか」
「そ、そうかな……」
 話すたびに突っかかられて、秋良は頬を引きつらせる。
 そろそろ帰りたくなって、腕時計をちらりと見る。そういえば、鬼塚に止められたまま遅くなる連絡をしていない。
「あの辺は高いんだよ。ものすごく。生活費渡してるって言ったって、本当は全然足りてないと思うよ」
「そうか……も」
 家賃のことを考えるなら、秋良が渡しているだけでは足りないだろう。しかし、それは一緒に暮らし始めたマンションの時からはっきりしていることなので、あまり気にしなくなっていた。
「社宅はないから、不動産屋を紹介してもらったんだけどさ、厳しいんだよなー」
 はぁと大きな溜め息をつかれる。
「大変……だね」
 こればっかりは秋良にはどうしてやりようもない。
「なぁ……一緒に住まないか?」
「え?」
「高級住宅地を外せばさ、二人でシェアするんなら、そんなに高くない感じなんだよな。安藤と二人なら、うまくやっていけるような気がするんだ」
「ちょ……ちょっと……」
「すぐには考えられないと思うし、俺も試用期間終わるまではマンスリーでも借りるつもりなんだ。その間に考えてみてくれよ」
「………………」
 秋良は正面に座る鬼塚の顔を無言で見つめた。
 言葉が出てこない。
「せっかく親友に戻れたんだ。あの卒業の日からやり直したいんだよ」
「それは……」
「色々あるだろうし、あの人と話し合わなくちゃならないだろ? 返事は今じゃなくてもいいよ。じっくり考えてくれよ。なんならさ、短期でもいいんだ。半年とかさ。そうしたらきっと、お前があの人にものすごく気を遣っていたんだって気づくよ」
 秋良が口を開きかけると、鬼塚は早口で遮って、さっさと立ち上がる。
 カップに残ったコーヒーはすっかり冷めていて、黒くてまずそうに見えた。
「俺さ、ずっと後悔していたんだ。安藤と連絡しなくなって。寂しかった。こっちに再就職決めたのも、お前に会いたかったからなんだ。就職なんてどうでもよくてさ」
 帰り道、鬼塚は秋良に会いたかったことを、強く訴えるように話しかけた。
「お前がさ、あの頃と変わらずに話してくれて、久しぶりに会った時も、嬉しそうに笑ってくれて、本当に嬉しかった。だから……俺にやり直させてくれよ。俺さ、安藤といると、本当に落ち着けるんだ。」
 二人で家に向かって歩く道のりは、日も落ちて暗く、長く、遠く感じられた。



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