Bitter





 壁の掲示物も、黒板の文字もすべて消え、中身を全部吐き出した軽い机が並ぶ教室は、それまでの賑やかさが嘘のように、素知らぬ他人の顔をしていた。
 卒業式が終わり、空調も切られ、電気もつけていない教室は薄暗く、かつての生徒の立ち入りを拒否しているように思えた。
 この部屋から閉め出された身だからこそわかる。高校生という名前をつけられた自分たちは、この教室とその名前に守られていたのだと。
 窮屈だとばかり感じていたが、今はその拘束がなくなったことに、不安ばかりを感じる。
 この中の自由がいかに輝いていたのかを、失ってから気がつく。
 それでも自分は、この教室が好きだった。
 この中で謳歌した青春を、大切に握りしめていくだろう自分を予想し、唇を歪ませて笑った。
 なくしたくなかった。ここにいた自分と……彼を。
 窓の外、校庭に数人の生徒が残っているのが見える。立ち去りがたい思いは彼らも同じだろうか。
 まだ寒い三月の上旬、マフラーに首を埋めるようにしながら、数人で写真を撮っている。
 空には式の間だけは泣くのを堪えてくれた薄墨色の雲が重く広がっている。
「なんだ、こんなところにいたんだ」
 教室のうしろから、今の天気を吹き払うような明るい声が聞こえた。
 彼の声に驚いて振り返ると、手に卒業証書の入った筒、首には暖かそうなマフラー、厚手のウールのコートを着たままの姿で、声のままの笑顔があった。
 寒がりの彼は、冬の前からそんな恰好で通って来ていた。
「何だか、僕たちの教室じゃないみたいだね」
 同じことを感じたのか、懐かしそうでいて、どこか寂しそうな表情をして、教室を見回しながら入ってくる。
 一年生の時に同じクラスになった彼。
 その時にはそれほど仲良くはならなかった。
 事実、二年生でクラスが離れてしまったら、ほとんど喋ることもなくなっていた。
 それがまた三年生で同じクラスになった途端、自分でも驚くほど、彼を身近に感じていた。
 周りの誰にも“親友”と認められた二人。
 ずっとその友情は変わらないと思っていた。
 その気持ちの変化に、一番驚いたのは自分自身だ。
「もう引越しの準備はできたのか?」
 高校を卒業したら、東京へと出て行く彼。進学先を東京へと決めた彼に、自分もついて行こうと思ったとき、この気持ちに気がついて、恐れ慄いた。
 だから……、もう、無理……。
「うーん、まだなんだよね。向こうへ行くのは今月末だから、それまでにはと思ってるんだけど」
 暢気な様子に、彼らしいなと苦笑いが浮かぶ。
「寂しくなるな、お前が行っちゃうと」
 これは本心。
 けれど心のどこかで、早く行ってくれとすら思っているのもまた事実。
「遊びに来いよ。夏休みとか、案内できるくらいには、慣れておくようにするから」
 屈託なく誘う彼に、やはりその程度の関係なのかと、暗い気持ちになった。
「………い」
「え?」
 聞こえなかったのか、彼は首を傾げて聞き返してきた。
 その仕草が可愛いと思う。
「行かない。もう、会うこともないよ」
 信じられないというような、驚愕が滲む顔に、彼にこれほど衝撃を与えられるくらいには、好意をもたれていたのだと、心のどこかで満足する。けれどそれも『友情』の範囲内だと思えば、また胸に黒い染みができる。
「もう、友達でもなんでもない。ずっとさよならだ」
 何かを言いかけた彼の唇が、少し開いたまま固まる。
 泣き出しそうな彼の横をすり抜けて、教室を出る。
 もう二度と戻れない場所ならば、戻れないくらいに傷つけて去りたい。
 廊下を進み、角を曲がる。階段を一つ下りて、心の中で数を数える。
 もしも彼が追ってきてくれるのなら、もう一つの言葉を告げよう。それで彼を永遠に失くすことになっても。
 イチ……ニ、……サン。
 呼び止める声も、追ってくる足音も聞こえず、一気に階段を駆け下り、その勢いのまま校舎を出た。
 耐え切れなくなったように、空から白いものが落ちてくる。
 粉雪は頬に当たり、すぐに小さな水滴に変わる。
 涙じゃないと言い訳をくれるような雪が、視界を滲ませる。
「…………」
 一人呟いた彼の名前は、耳を切る風の音に、自分にすら届かなかった。











 夕食の準備をしていると、家の電話が鳴り始めた。
 急いで手を洗い、簡単に手を拭いて子機を持ち上げたので、相手の番号を見るのを忘れた。
 仕事の電話は携帯の方にかかってくるし、ファックスは別回線を引いてあるので、この電話にかけてくるのはごく限られている。それ以外ではセールスばかりなので、自分からは名前を名乗らないことにしている。
『洋也さん? ごめんなさいこんな時間に。お忙しいかしら?』
 受話器の向こうから聞こえてきたのは、愛する人の母親の声だった。
「ご無沙汰しております。皆さん、お元気ですか?」
 秋良の母親は、どうしたわけか、用事のある時には洋也の方に電話をかけてくる。帰宅時間のまばらな息子よりは、確実に電話に出てもらえる番号へとかけているのだと思われる。
『えぇ、ありがとうございます。秋良はまだですか?』
「もうすぐ帰ってくると思うんですが、戻ったらかけるように伝えます」
『それがね、ちょっと寄り合いで出かけなくちゃならないの。洋也さん、伝言を頼めるかしら?』
 洋也はリビングのカウンターへと移動して、ペンを手に取った。メモ用紙も手元に引き寄せる。
『鬼塚君から電話があって、秋良の番号を教えたわよって伝えて下さい』
 漢字は一つしかないと思いながらも、念のためにオニヅカとカタカナで表記した。
「鬼塚君ですね? 秋良にそう言えばわかりますか?」
『えぇ、高校の時に一番仲の良かったお友達なのに、あの子ったら年賀状も出してなかったみたいなのよ。しょうがないわねぇ』
 適当に相槌を打ちつつも、そんなことがあるだろうかと、僅かに疑問が生じる。
 秋良に届く年賀状のほとんどは元と現生徒たちからのものだが、学生時代からの友人たちのものも多い。
 洋也がパソコンで住所録を作ってやったので、ファイルを細分化して、小・中・高・大学時代別の友人、学校関係、生徒も年代別に分けてある。
 ちゃんと高校時代の友人も含まれていたが、それを今ここで弁解しても埒が明かないので、必ず伝えることを約束する。
 寄り合いに出かけると言いながらも、少しばかり近況を報告しあって、電話は切れた。
 自分で書いたオニヅカという名前を見て、大丈夫だろうかと心配になる。
 秋良から故意に連絡を絶ったとすると、電話番号を教えられてしまったのは痛い。が、対策を取れないわけでもない。
 夕食の支度を再開しながら、どうすれば秋良の心理的負担が少なくなるだろうかと、そればかりを考えていた。

「ただいまー」
 帰宅の第一声で秋良の機嫌がわかる。
 今日はとてもいいようだと、洋也も柔らかい気持ちで出迎えに行く。
「おかえり」
 玄関でミルクとじゃれていた秋良をふわりと抱き寄せる。
 それだけでクスクス笑う秋良はよほどご機嫌らしい。
 頬と唇にお帰りのキスをする。
「今夜は唐揚げ?」
 キッチンと洋也のエプロンから漂う匂いに、秋良はメニューを言い当てる。
「そうだよ。早く手を洗ってきて」
「わかった。すぐに行くから待ってて」
 秋良が歩くとミルクもそれについていく。笑顔で見送って、洋也は食卓の準備をする。
 ちょうど揚げたての唐揚げをテーブルに置いたところで、秋良がダイニングへとやってきた。
「おいしそうー」
 ニコニコと笑う秋良に、洋也までもが幸せな気分になる。
「何かいいことがあった?」
「ん? 特にはないよ」
 唐揚げを口に頬張る秋良に、今は言いたくないなと思いながらも、いつ電話がかかってくるかもわからないので、とにかく先に伝言を告げることにする。
「お母さんから電話があったよ」
「ええ、また洋也の方に電話をしたの? もうー、しょうがないなー」
 同じような口調でしょうがないと言われ、洋也は少し笑ってしまう。
「留守番電話が嫌いなんじゃないかな」
「それにしてもなー。どうせつまんない用事なんじゃないの?」
「高校の友達の鬼塚君という人に、秋良の電話を教えたからって」
 その名前を言った途端、秋良の顔から笑顔が消えた。どこかが痛いような表情に、やっぱりよくない相手だったのかと、洋也も真顔になる。
「秋良、もしも電話に出たくないなら、着信を拒否にもできるよ」
 まずはすべき対策を口にすると、秋良は首を横に振る。
「大丈夫。電話に出たくないとかじゃないんだ……」
 それでも気分が晴れないらしい秋良は、視線を電話へと向ける。
「きっと大丈夫」
 自分に言い聞かせるような声に、洋也は軽く眉を寄せる。
「もしも困ることになったら、必ず相談して」
 力づけるように言うと、秋良はようやく洋也を見て、うんと頷いた。
 そしてまた電話を見た秋良は、電話がかかってほしいのか、かかってほしくないのか、洋也には判断がつきかねた。



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