パソコンの電源を入れると、しばらくしてから画面が明るくなる。
 じじ、じじと音がして、クラスで写した写真が画面いっぱいに現れる。
 秋良のパソコンのデスクトップだ。
 設定は洋也がしてくれた。
「うーんと」
 メーラーをダブルクリックすると、画面が切り替わる。
『送受信』をクリックして、メールを受信する。
「あ、きてる」
 メールが来ていることを知らせるガイドが出て、すぐにそれらは取りこむこ とができた。
 1通は洋也からで、もう1通は鳥羽からだった。
 秋良は微笑みながら、洋也からのメールを開いた。
『今日は雨。そっちは晴れらしいね。
 仕事は順調で、予定通りゴールデンウィークには帰れるよ。
 食事は抜いてない? 身体に気をつけて。
 愛してる。早く会いたい』
 短いそのメールを読むと、ほっとする。
 毎日電話をしているけれど、洋也は暇を見つけてはメールも送ってくれる。 時には日に2通、3通と届くこともある。たいていは短い、その日の出来事だ ったりするのだけれど。
 電話だと余韻が残らなくて、あとで淋しいと言ったら、メールを送ってくれ るようになった。そのメールもかなりの数になった。
 秋良も返事を書くが、1日に1通がやっとで、書いてる途中で洋也から電話 が入ったりすると、そのメールも出さずに終わることが多い。しかも秋良のメ ールは文字にするととても素っ気無くなってしまい、送るのに気が引けてしま う。
 洋也はそれでも読みたいと言ってくれるので、思い切って送るようにしてい るけれど。
 洋也は『愛してる』とか『愛をこめて』とか臆面も無く書いてくるけれど、 秋良はまだその文字をメールに打ち込む事ができずにいる。
 何度か同じように打ってみた。けれどそれが文字になった途端、とてつもな く恥ずかしくなって、すぐに消してしまうのだ。
 だから無難に、『元気で』『無理するなよ』とかで結んでしまう。
 電話でも洋也は、切る前に必ず『愛してる』と言ってくれる。それに対して も秋良は『うん……』とか、せいぜい言えて『僕も』が精一杯だ。
 洋也はそれを責めたりしないし、それで嬉しそうにしてくれるので、秋良は ますます言わなくなって、どんどん言えなくなる。
 洋也への返事を書く前に、鳥羽のメールを開いた。
『よっ。もうメールに慣れたか?
 もう少し長い文章も書けよ。
 全然近況報告になってなかったぞ。
 秋良の学級通信みたいに、楽しいメールをくれよ。
 で、秋良君のゴールデンウィークの予定はどうよ?
 洋也さん帰ってくるのか?
 帰って来ないなら、俺様が遊んでやるから、
 淋しいーって泣くなよ』
 相変わらずの鳥羽のメールに、秋良はむっとしながらも、一人暮し状態の秋 良を気遣ってくれる友情に感謝する。
「ゴールデンウィークかぁ……」
 秋良は溜め息をこぼす。
 今年は土曜日も休みになり、創立記念日をずらして、秋良の小学校では6連 休になった。
 洋也が帰ってきたら、しばらく二人でゆっくりできると思っていた。
 それが……。
 地域の公立学校の教師代表をさせられた秋良は、本部研修がその間に催され ることになり、出張で行くことになりそうだった。
 最悪の場合、帰国した洋也と入れ替わりで、3泊の研修。
「鳥羽と遊ぶどころじゃないよ、もう……」
 転勤を断わった仕打ちとしては、あまりにも大人気無いと校長に言いたいほ どだった。
 クラス運営も、学校行事も、そして降りかかってきた教員関係の用事も、す べてに手を抜くことができずに、毎日駆け回る日々が続く。
 以前なら、それでも秋良の体調を気遣ってくれる人が、監視に近い形で管理 してくれていたが、今はそれすらも自分でしなくてはならない。
 そして、手を抜くなら、自分のことになってしまう。
 日頃の無理は、食欲に如実に現れた。
「食べたくない……」
 洋也も鳥羽も、周りの人間の誰もが、まず秋良の食事を心配する。
「食べてる」「大丈夫」
 そう言うために無理をしてでも食べるが、思うほどには食べられないし、何 より、一人の食事はあまりにも淋しくて。
「1回くらい抜いても、わからないよね」
 疲れた身体と、胃の痛み。
 寝れば治るから。
「うーんと……、メールの返事は明日書こう」
 もう、今日は何もしたくないから。
 秋良はベッドに身体を投げ出し、洋也の電話を待つことにした。
 眠るつもりはなかった。ちょっと横になるだけ。
 けれど、電話が鳴ってもそれに気づかぬほどぐっすりと眠ってしまっていた。





 電話の応答がなくて、洋也は顔を顰める。
 何日か前からは秋良の声から元気さが少しずつだか減っていくのがわかって いた。
 それでも大丈夫、平気だという秋良を元気づける以外に何ができただろう。 実際、話すうちに秋良の声に張りが出て、明るくなっていくと安心できた。
 戻りたい気持ちで胸はいっぱいだったけれど、それを即実行できるほど、仕 事の方は落ち着いていなかった。
 帰国すれば何にかえても秋良中心の生活ができるわけだし、そのために早く 予定のところまで仕事を進めようとしてきた。
 予定通り、ゴールデンウィークに日本に戻れるということが、洋也にとって も、秋良にとっても支えになっていた。
 アメリカの祝日はもちろん日本とは違い、ゴールデンウィークなどないが、 4月末が一つの目途になっていた。
 日本時間で夜、電話に秋良が出なかったので、起きる頃を見計らって電話を かけてみた。
『もしもし?』
 電話の向こうでまだ少し眠そうな声が聞こえて、洋也はほっとする。
「おはよう」
 洋也が喋ると、秋良は目が覚めたようだった。
『ごめん、昨日電話してくれたよね。早く寝ちゃって、気がつかなかったんだ』
 秋良の慌てた言い方に、洋也は頬を緩める。
「大丈夫? 疲れてるんじゃないの?」
『ううん、大丈夫。忙しかったから、ちょっとだけ疲れてたんだと思う。たっ ぷり寝たからすっきりした』
 秋良の声に変な様子はなく、洋也はとりあえず、それで安心した。
「朝ご飯は?」
 つい、いつもの心配をする洋也に、秋良は笑っているようだった。
『今食べてるところ。メニューも言おうか?』
 秋良の笑い声に、洋也も笑う。
「こっちは夕ご飯がまだだから、聞くのは遠慮するよ。お腹が空く」
『なんだよ、僕にはちゃんと食べろってうるさいのに。ちゃんと食べてるの か?』
「食べてるよ。太って秋良に嫌われないか、それが心配なほどね」
『やっぱり、肉類が多い?』
「和食が恋しいね」
 和食ではなく、秋良が恋しいのだが、それはまた二人きりの時に話したい。
 いくら日本語で話をしているとはいえ、オフィスにはまだ人の目があった。
『練習しておくよ。洋也が帰ってくるまでに』
「楽しみにしてるから」
 本当に味わいたいのは、甘い香りのする恋人の身体だが、それを言えば我慢 が効かなくなると、洋也は無難な返事をして、気をつけていってらっしゃいと、 電話を切った。

 珍しく携帯電話で話をしている上司の姿を、数人の部下が遠巻きに見ていた。
 洋也は表情に感情を見せることが少ない。部下を叱るときにも、誉めるとき にも。
 そういう人だと思っていたが、時折日本に向けてかける電話は、皆が驚くほ どに優しい顔をする。
 相手は誰なのだという疑問が浮かぶ。
 それはもちろん恋人だろうという話になった。
「どうして日本に恋人を置いてきたのだろう?」という話になって、部下たち はそれぞれに勝手な想像をしていた。
 恋人も仕事をしている。だから離れられない。
 しかしと異議を唱えるものがいた。あれだけのキャリアのある恋人がいて、 遠距離恋愛なんて、メリットがあるとは思えないというのである。
 洋也のキャリアなら、夫婦単位で暮らすには、十分過ぎるだろうという計算 だ。
 離れているデメリットのほうが大きいわよ。というのは、遠距離恋愛ならつ けいる隙があるわと、最初から洋也狙いであることを隠さないモニカだ。
 何度かアタックしているものの、モニカの気持ちを知ってか知らずか、洋也 はあっさりとモニカの誘惑をかわしている。
 だからデイビッドは、洋也はモニカの気持ちを気づいてて、はぐらかしてい るのだろうと思っている。
 デイビッドは日本語は分からないが、たまにかけている私用電話の最後に必 ず彼が言う言葉の意味くらいはわかるつもりでいた。
 アメリカ人だって、恋人にかける電話の最後には言うものだ。『愛してる』と。
 それを日本人が言うのは少し驚きであったが、今はもう、洋也が昔イギリス で暮らしていたというのも聞いていたので、それくらいの習慣は当たり前だと 思う。
 そして電話の中で繰り返される名前に、デイビッドは少なからず嫉妬する。
 日本に詳しい友人に『AKIRA』という名前は日本ではほとんどが男性と 聞いて、その手の疑問がわいた。
 洋也はゲイなのだろうかと。
 だからモニカの誘いにも乗らないのだろうと。
 なら、少しは……、期待が持てるかも。
 デイビッド自身はバイセクシャルであるが、理想なのは、洋也のような綺麗 な男性である。
 白人特有の体臭のきつさも洋也には感じられなくて、それもデイビッドの好 みだった。
 同性を相手にした場合、デイビッドは抱く側のことが多かったが、それには こだわらない。洋也が相手なら、抱かれるのもいいと思った。そういう仲にな れば、また抱く機会も持てるだろうし。
 洋也より少し背は低いが、デイビッドのほうが筋肉質なので、どちらが見劣 りするということもない。
 現地限りの恋人であれば、ばれることもないし、男が相手なら、後々の面倒 もない。
 浮気ならゲイのほうが落としやすいということもまたデイビットは経験で知 っていた。
 さて、どのようにコナをかけようか。
 デイビッドは、間もなく一度帰国するという上司が、こちらにいる間にと、 その方法に思考をめぐらしていた。





『愛してるよ』
 そう告げて切れる電話に、秋良は深い溜め息をつく。
 最近、溜め息の数が増えた。それを思うとやるせない。
 大丈夫。元気にしている。
 その言葉の嘘に、自分で嫌気がさす。
 それでも、学校へ行っている間は、洋也の不在の寂しさを忘れていられた。
 子供たちといると、この上もなく幸福だと思える。
 だから、これをなくさないで良かったと実感できる。
 なのに、一歩家に入ると、例えようもない寂しさに襲われるのだ。
 こんなにも洋也の存在が大きかったのかと、今更ながら実感してしまう。
 それでも、カレンダーの日数は、洋也が渡米した日から数えると、帰って くる日のほうが残り少なくなっている。
「もうすぐ……」
 洋也が帰ってくるまでに、新しい料理くらいは覚えたいと思っていたのに、 それはどうもできそうになかった。
 2回日曜日を通り越したのに、半日をぼんやり過ごし、半日を慌しく掃除 に費やしてしまい、結局、簡単なものを食べればそれでいいやとなってしま って。
 その日も、学校の帰りにスーパーに寄って、自分にできる料理の中で、時 間のかからないものを考えて、材料を買う。
 店を出て家路へと歩いていると、そのポスターが目についた。
「新しいポスターだ」
 書店の大きな窓一面に貼られていたのは、新聞全紙の大きさのニューヨー クの景色だった。
 自由の女神を中心に、マンハッタンのビル郡がそびえたっている。
「ニューヨーク」
 それはとても遠く感じられる。
 太平洋を隔てた遠い外国。
 洋也が行かなければ、秋良の中ではずっと遠いままになっていた国だった だろう。
 今は毎日、その国にいる人と電話で話をしている。まるで隣にいるような 近さで。
 けれど、彼は近くにいない。
 体温を感じることもできない。
 毎日一緒にいる時には、洋也の過保護ぶりにほんの少しの煩わしさを感じ て、一人になりたいと思ったこともあったのに……。
 ポスターに惹かれて、秋良は本屋の中に足を踏み入れた。
 レジの前のワゴンにポスターと同じ表紙の大判の写真集が置かれていた。
 ニューヨークのビル郡の写真集という、一風変わった写真集に手を伸ばす。
 2000円という値段に少し迷って、それでも買い求めた。
 少しでも、その遠い国を近くに感じたくて。
 食事と入浴を済ませて、リビングのソファに寝転んでページをめくった。
 そこにはテレビなどで見かける風景が綺麗に切り撮られている。
 遠景は見たことのある景色だったが、それが街並みに入ると、そこは全く 秋良の知らない場所だった。
 大きな通りと、それとは正反対の路地。
 陽気な人々と、陰鬱な表情を浮かべ、焦点の合わない人。
 それはニューヨークという街の夢と現実、光と影を対称的にとらえた写真 集だった。
「洋也……」
 洋也が出かけた頃、秋良は何かの拍子に、ついその名前を呼んで、答えの 返らない寂しさと、この家の広さを感じたものだった。
 今はいないことを確かめるように、その名前を口にする。
「会いたい……な」
 遠慮がちに言ってみる。
 断定してしまえば、もっと会いたくなるから。
 再び写真集を広げる。
 このビルのどこかで洋也は働いているのだろうか。
 そこはどんな場所なのだろう。
 借りているマンションはどんな部屋なのだろう。
 秋良の知らない洋也の生活。それが想像できなかった。
 出会った時から、秋良は洋也の生活の中に入りこんでいた。
 まだそこが洋也の場所とは知らずに、そこに入り込み、抜け出しを繰り返 し、その住人に収まってしまった。
 だから、二人の生活で秋良の知らない場所というのが、うまく想像できな い。
 想像できないことが、秋良をより不安にした。
 この街の中に洋也が立ち、歩いている。
 やはりうまく想像できない。
 この家の中でなら、どんな洋也も思い浮かぶのに。
 そう、今も顔を上げれば、秋良に微笑みかけてくれているような……。
 けれど、秋良は顔を上げることができなかった。そこに想像通りの笑顔が ないことを、いやと言うほど知っているから。
 その時、電話のベルが鳴った。
 秋良はあわててテーブルの上に置いていた子機を取る。
「もしもし?」
『秋良、おかえり』
 電話を通した優しい声を聞いて、微笑が浮かぶ。
「ただいま。洋也はおはようだね」
『おはよう』
 答える洋也の声も微笑を浮かべているのがわかるように弾んでいる。
「今さ、ニューヨークの写真を見てたんだ」
『ニューヨークの?』
「うん、本屋さんで見つけたんだ。ビルばっかりだね。洋也がどのビルで働 いているのかなーって。見ててもわかんないんだけどさ」
『同じ写真集があるなら、ページ数で教えられるんだけど。さすがに日本の 写真集までは売ってないだろうな』
 洋也の言葉に、小さな不安が言葉になる。
「行きたい……な」
『ん?』
「ニューヨークに行きたい。洋也の部屋、見てみたい」
『来る? 飛行機だと、すぐだよ』
 来るかと聞かれて、行きたいと思ったことが具体性をおびる。
「洋也は……、帰りたくない?」
『僕は秋良に会いたい』
 まっすぐに言われて、同じ願いに気づく。
「うん……。行く」
 遠いだろう。言葉が不安。色んな思いより何より、気持ちが先に言葉になっ ていた。
『本当に?』
 洋也の驚いた声の様子に、秋良はますます行きたくなった。
「行く。えっとー、ゴールデンウィークの後半なら、休みがまとまってるから。
すぐに飛行機のチケット取るよ」
『一人で大丈夫か? 日本まで迎えに行こうか?』
 洋也の提案に、秋良はそんなバカなと笑ってしまう。
 会える。
 そう思えば、途端に色んな物が輝いて見えるから不思議だった。
 とりあえず、待ち合わせなどは飛行機が決まってからにして、いつものよう にその日にあった事を報告しあう。
『愛してるよ』
 囁かれて電話が切れても、溜め息は出なかった。





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