『うん……。行く』
 電話から聞こえる秋良の声は、直接聞くよりも、少し硬質な感じがする。 それが洋也にとっては、秋良との距離を感じさせる一つの原因でもあった。
 ニューヨークに行きたいと言った秋良の声が、何故かとても切なく聞こえて、 すぐにでも抱きしめに、飛んで行きたいと思った。
 無理をすれば、帰れなくはない。
 今から文字通り飛んで帰れば、明日には愛しい人をこの手に抱きしめること ができるのだ。
 けれど、『行きたい』と言った秋良の言葉と、『行く』と決めた秋良の声とが、 洋也の心配を一つ消した。
 いずれは、できるなら夏休みには、秋良を連れて来たいと思っていた。ある 目的のために。
 それが思いもかけず、早く叶おうとしている。そして、予定より少し早く秋 良に会える。そのことが洋也の気持ちも決めた。
「愛してるよ」
 そう囁くと、電話の向こうから、『僕も……』と控えめな答えが返ってくる。
 家の中には誰もいない。秋良の声を聞いて、からかう人もいないのに、秋良 はその言葉に、自分で照れてしまう。
 それでも『僕も』と返してくれるのは、二人でいれば稀な方で、返事のある ことが、なおさら洋也に距離を感じさせる。離れている寂しさで、秋良が答え てくれているとわかるから。
 回線が切れてしまうと、また二人を隔てる距離が大きくなる。
 心の中の灯りが小さくなってしまったような、なんとも言えない寂しさが広 がる。
 こんな仕事など引き受けなければよかったと思うのは今更で、順調に運んで いるのがまだしもの救いになっている。
 これで長引いたりして、自分の帰国がままならないような事態になれば、間 違いなく捨ててしまっているだろう。
 それほどに気持ちにゆとりがなかった。

 電話が終わるのを待って、デイビットは洋也に近づいて行った。休憩用の喫 煙スペースだが、朝一番なので、辺りには誰もいない。
 私用の携帯電話をかけていたし、日本語を話していたので、上司の通話の相 手が、日本の恋人だろうというのはわかっていた。
 ほとんど表情を見せない上司だが、その電話の時だけは、ほんのわずか、和 らいだ雰囲気を見せる。
 話し掛けやすいのも、この時だ。
『チーフ、少し話があるんですけど』
 部下の中でも一番若いデイビットに呼びかけられて、洋也は振り返った。
 わずかに洋也の方が背が高いが、相手のほうががっちりとした体格をしてお り、オフィスにいても、存在感のある部下だった。
『何か?』
 洋也の無機質な声の問いかけに、デイビットは一瞬、気後れを感じた。
 電話で話していたような、あの声が聞けるかもと少しは期待していたのだ。
それが全くの、無感情で、次の言葉が引っかかってしまう。
『仕事の話なら、デスクで聞く』
 さっさと行ってしまおうとする洋也に、デイビットは慌てた。
 外へ誘おうとするのに、周りに人がいる場所では誘いにくい。
『仕事のことではないんです』
 立ち止まった洋也は、デイビットを見たが、ガラスのような体温を感じさせ ない視線にたじろぎながらも、ようやく言葉を繋いだ。
『個人的なことなのか?』
 問い返され、デイビットは笑おうと努力したが、頬が引きつったように感じ られただけだった。
『そ、そうです。少し、チーフと話がしたくて』
『断る』
 一言で片付けられて、拒否されたのだと理解できるまでに、少し時間を要し た。
 返事はそれだけか?と思ったときにはもう、洋也は完全にデイビットに背中 を見せていた。
『ちょ、ちょっと待ってください』
 慌ててデイビットは後を追った。それで普通なら、誰しも振り返るはずなの に、洋也は歩調すら変えずに、歩いて行く。
『チーフ、少しくらい、話を』
 今度は全く答えても貰えずに、洋也はオフィスのドアを開けて、入っていっ てしまった。
 あとからデイビットが入ってくるという事すら、考えにないようだった。
『ダメよー』
 呆然とするデイビットに、廊下の角から、メイが顔を出した。
『な、なんだよ』
 決まり悪そうにデイビットは睨みつけた。けれどメイは面白くて仕方がない と、とても楽しそうに、デイビットに笑いかける。
『チーフはね、歓迎会すら断ったのよ。彼狙いの女性はことごとく振られたの に、あなたで相手になるわけないわよ』
 それは女性だから断られたんだろと内心では毒づいていたが、全く興味がな いという態度を取り繕う。
『女は下心が見えたからだろ。俺は純粋に相談に乗ってもらおうとしただけだ』
『無理しちゃってー。どうせなら、まっすぐに愛の告白でもすれば?それには まだ少しは真剣に答えてくれるらしいわよ』
『真剣と言ったって、どうせ断られたんだろ?』
『そんな態度だから、あんなに冷たくあしらわれたのよ。チーフの中では、貴 方はかなりランク下がったと思うな。本気で告白した子には、それからも態度 は変わらないのよ。でも、変な誘い方した子は、それからは冷たいってよー』
 からかうような、それでいて適切なアドバイスなのだが、デイビットはプラ イドを傷つけられ、メイに対して、敵愾心さえ抱いた。
『だから、俺はそんなんじゃない』
 怒鳴るようにいうと、メイは首を竦め、けれど楽しそうにまた笑った。
 きっと睨みつけておいて、オフィスへ入ったが、メイの言葉が間違っていな いことを、身をもって知ることになったのだった。

 デイビットに対する態度にたいした変化はなかったが、洋也からの拒絶はい っそうきつくなった。
 まるで目の前に、厚い透明の壁を建てられてしまったようだ。
 一切の感情の遮断。
 これが他人がされているなら、嘲笑っていただろうが、自分がされると、こ れほど耐えがたいものはなかった。
 見た目にはわからないだろう変化だが、本人にとっては重大な問題である。
 何とかしたい。
 そう思っていると、オフィスと借りているマンションの往復しかしなかった 洋也が、電話の相手と会う約束をしているのを聞いてしまった。
 会話は英語だったので、相手はこちらの人間だろう。
 ホテルのバーの名前を聞きとり、デイビットは緊張する。
 浮気か? それとも……。
 洋也が退社する前に、デイビットは先に会社を出て、ホテルに先回りした。
 バーの入り口に近い席を取り、その人が来るのを待った。
 水割りを頼んで、半分ほどを飲んだ時、洋也は一人の紳士を連れてやってき た。





 洋也が一人の紳士を連れてやってきた時、デイビットは入り口に近い席で一 人、水割りを飲んでいた。
 ずっと出入りの人を注視していたので、洋也が入ってきた時は、かなりの緊 張を伴いながら、その様子を見守っていた。
 洋也は周囲の人間には注意を払わず、奥の席へと、同伴者を連れていく。
 デイビットからは二人の横顔が見える席に座って、緊張を少し解く。
 まだ気づかれていない。
 デイビットは息を呑むようにして、二人の姿を見つめる。
 オーダーを済ませた二人は、打ち解けた様子で、何かを話しこんでいる。
 デイビットは洋也の寛いだ姿を、信じられない思いで見つめていた。
 会社での洋也は厳しくはないが、打ち解けたようでもない。まだ馴染めない のかと思っていたが、そうでもないらしい。
 部下たちの見かたとしては、冗談の通じない、堅物なのかと言われもしたが、 世間の流行にも聡いし、話題も豊富で、決して仕事オンリーの人間ではないこ ともわかる。
 けれど、自分のことは見せない。
 あくまでも仕事場での上司であるという姿勢を崩さないだけである。
 そうなると、女性の中には、そのプライベートに触れようとする勇気のある 者が出てくるわけだが、デイビットのように軽くあしらわれ、それ以後は一切 が、感情面からシャットアウトされてしまう。
 そんな洋也が、見せている柔らかい表情、時には微笑みさえ浮かべている姿 に、デイビットは唖然としながらも、目を奪われてしまう。
 相手は洋也よりは20才は年上だろうか、日本人には見えないが、アメリカ 人にも見えない。
 会話までは聞こえないが、仕事の話とも思えなかった。
 仕事の話なら、上司は絶対、オフィスでするだろうから。
 相手の素性がわからず、デイビットはイライラしながらグラスを重ねたもの だから、自分の許容量を越していることに気づいていなかった。
 誰なのか、知りたい。
 相手が日本に残してきた恋人だとは思えない。
 だったら、これは彼の弱みなのではないか。
 どうせ浮気をしているのなら、自分もその一人でもかまわないのではないか。
 短絡的な思考も、酔いが回れば、もっともらしいように思えてしまう。
 デイビットは片手を上げて、やってきたボーイに、彼らの席に、ウィスキー を一本、運ぶように頼んだ。
 やがてボーイがボトルを持ち、席へと進んで行く。
 二人の会話がぴたりと止まり、ボーイの差し出した手がデイビットを指し示 し、二人はこちらを向いた。
 洋也の顔に、僅かながらも驚きの色が浮かんだのを見て、デイビットはそれ で自分の作戦が半ば成功したように思えた。

『あちらのお客様からのプレゼントです』
 差し出されたボトルと、言われた方向を見て、洋也はそこに部下の姿を認め て驚いた。
 ここに彼がいるのが、偶然だとは到底思えない。
 彼に連れがいたのなら、偶然だと思えないこともなかったが、一人でいると なると、そこに何かの作為を感じてしまう。
『知り合いか?』
 向かいの席から聞かれ、洋也は曖昧に頷いた。
 その洋也の反応を見たからか、デイビットは自分の席を立って、こちらにや ってきた。
『こんばんは、チーフ。偶然ですね』
 見え透いた笑顔に不快感が増すが、洋也はそれを無表情の下に隠す。
『こんなものを戴く理由がないが』
『いつもお世話になっているお礼です。チーフとは滅多なことで外では会えま せんから』
『洋也、君の部下かい?』
 イエスと短く答えた洋也の代わりに、デイビットはにこやかに紳士に挨拶を した。
『ハイ。チーフにはいつもお世話になっております。デイビットです、ミスタ ー。初めまして。ニューヨークの方ですか?』
 相手が洋也をファーストネームで呼んだことにかなり驚いたが、この機会を 逃してはいけないと、デイビットは必死になっていた。
 酔いもかなり回っていることが、判断力も失わせていたのだろう。
 洋也の無表情の上に重ねられた、不愉快さを重い図ることができなくなって いた。
『初めまして』
 デイビットの差し出した手に、相手は愛想よく手を重ねてくれる。握手を済 ませたが、洋也は同席を促してはくれないので、デイビットはその場で立って いるしかできない。
『ですが、このボトルは戴けません。私のほうで支払わせていただきましょう。
貴方の今夜の分も。お連れの方はいらっしゃらないのですか?』
 洋也が無口な分、相手の方が優しくデイビットに話しかけてくれる。
『とんでもないです。これは僕から、ぜひ、お二人に。僕は連れが急に来れな くなって、もう帰ろうかと思っていたところですから』
 同席させて欲しいと言外に言ったつもりだったが、洋也は冷ややかな目をデ イビットに向けた。
『私たちももう出ようと思っていたところだ。ここは私が支払って行くから、 このボトルはまた、君が会社の者達と来た時に飲めばいい』
 そう言って洋也は席を立った。取り付くしまもない。
 連れの紳士も仕方ないないとばかりに苦笑すると、一緒に立ちあがる。
『もう少しゆっくりするつもりだったのに』
 思わぬ退席の苦情を洋也は取り合わなかった。
『失礼します』
 紳士の方がデイビットに挨拶してくれて、二人は出て行こうとする。
 呆然と見送っていると、洋也がカードで払おうとするのを紳士が止め、レシ ートにサインするのを見た。
 とすると、紳士はこのホテルの宿泊客なのだろう。
 デイビットは慌てて後を追った。
 だが、運悪く、洋也達にとっては運良く、エレベーターはこの階に止まって いたのか、デイビットが追いつく前に、ドアが閉まってしまう。
 表示される数字が下がっていく。けれど、その数字は22階で止まった。
 そして、そのまま下へは動かなかった。
 デイビットがボタンを押すと、そのままあがってくる。
 つまり、二人は同じ階で降りたのだろう。
 紳士の泊まっている部屋へと……。
 デイビットはそれを見届け、唇を歪めて笑った。
 やった。
 俺は弱みを握ったのだと。





 ニューヨーク、JFケネディ空港に到着すると、事前に覚えてきた英語がど れだけ通じるだろうかと不安になる。
 アメリカ向けのガイドブックと、勝也に書いてもらった税関用の受け答えの マニュアルで通りぬけられる事を祈りつつ、秋良は入国審査の列に並んだ。
『アメリカでの滞在は?』
『4日です』
『入国目的は?』
『観光です』
『どうぞ』
 心配しているよりも更に簡単な問答だけで、呆気なく秋良はアメリカの大地 を踏んだ。
 飛行機の中で親しそうに話しかけられた日本語の上手なアメリカ人に、到着 ゲートに着くまで、『案内する』と何度も誘われたが、ゲートを潜った途端、彼 の表情が固まった。
「洋也!」
 約2週間ぶりの恋人を見るのはなんだか照れくさい気もしたけれど、洋也が 英語でアメリカ人を追い払ってくれたので、正直なところほっとした。
「会いたかった」
 洋也に耳元で囁かれ、そう言いたいのは自分の方だと主張したくなったが、 秋良はその言葉を口に出せずにいた。
 ……洋也が先に言っちゃうから。
 だからいつも言えなくなる。
 そんな言い訳さえ自分の胸の中に収めてしまい、肩を抱かれるまま、駐車場 へと連れて行かれる。
 妙に言葉少なくなるのは、やはり照れがあるからで、もちろん興味もあった が、助手席から流れ行くニューヨークの街並みを執拗に眺めてしまう。
 日本で見たニューヨークの写真集と同じだと思いつつ、実際に見る街は、や はり異国の土地として、秋良を拒んでいるように感じてしまう。
 ビルの名前を教えてくれながらハンドルを握る洋也が、既にニューヨークに 溶け込んでいるような気がして、手を繋ぐ事もできる近さなのに、日本とニュ ーヨーク間の電話より、洋也を遠く感じてしまい、秋良はつい無口になってし まった。
「フライトで疲れた? 観光は後にする?」
 秋良を気遣うその声に、ただ無言で頷く。
 洋也と二人でいる時間を感じさせて欲しい。もう離れていなくていいんだと 思わせて欲しい。
 それを願いながら、秋良はまた車窓に目を転じた。

 久しぶりに同じベッドで眠り、温もりをわけあった翌朝、秋良は洋也の腕の 中で目を覚ました。
 まだ時差ぼけですっきりしないのか、髪を撫でるその手に薄く微笑み、また 目を閉じる。
「洋也、仕事は?」
 眠そうな声に洋也は柔らかな頬に唇を寄せて、「もうこっちでの仕事は終わ ったから、ずっと一緒にいるよ」と告げた。
「ふーん」
 納得したような声がしたが、また静かな寝息に変わる。
 その様子に洋也は唇に笑みを浮かべ、力を入れ過ぎないようにして抱き寄せ た。
 この身体を抱けないことに苛立ちを感じた幾夜の苛立ちがゆっくりと消えて いく。
 冷たかったベッドが秋良の甘い香りを移して、ようやく休むための場所へと 変化していく。
 けれどまだ足りないと感じながら、洋也はまどろむ秋良のまぶたに口づける。
「……ばか」
 逃げるように秋良が首を振るが、身体は反対に洋也へとすりよせてくる。
「秋良の『バカ』を聞くのがこんなに嬉しいなんてね」
 洋也は笑いながら、また更に、秋良を抱きしめた。


 あくびをかみ殺しながら、洋也の作ってくれたブランチを食べていると、テ ーブルの端で携帯が振動した。
「電話?」
 秋良が尋ねると、洋也は眉を寄せて携帯のディスプレーを見た。
「仕事?」
「……いいよ。本当はもう日本に帰っていることになっているから」
「でも……」
 かかってきた電話を無視する、……しかも仕事の電話絡みとなると、秋良は 落ち着かない様子を見せた。
 一度は無視をすると決めた洋也も、その電話が再度かかってくると、秋良の 懇願するような視線に苦笑しながら、通話ボタンを押した。
 電話はやはり職場からで、まだニューヨークにいるなら、大切な来客がある ので来て欲しいというものだった。
 もういないと言わせようとしたが、電話に出てしまったため、嘘の片棒を部 下に担がせるわけにもいかず、一時間程度で終わるだろうと判断して、待って もらうようにと指示をした。
「仕事?」
 洋也の難しそうな顔を見て、秋良が苦笑しながら聞いた。
「一時間程で戻るから、待ってて」
「うん、いいよ。うーんと、もう少し寝る」
 秋良の答えに洋也は笑って、出かける用意を始めた。
「見慣れないけど、似合うね」
 家ではたいていラフな姿をしている恋人の、スーツ姿を見るのは面映かった。
「僕も慣れるまで、堅苦しかったけれどね」
 ネクタイを締め、秋良を抱き寄せる。
「ちょっとドキドキする」
 秋良のくすくす笑う声に、洋也も微笑み、『行ってくるから』とキスを交わし た。

 一人、洋也のマンションに残された秋良は、今度は遠慮なくあくびをしなが ら、背伸びをした。
「もう少し寝ようかなー」
 高層のマンションからニューヨークの街並みを見下ろす。
 お腹の辺りがくしゅりとするほどの高さに感動しながらも、秋良はベッドに 寝転んだ。
 秋良が起きた時に、洋也が新しいシーツに取り替えてくれたので、寝心地は とてもさっぱりしていた。
 そして強く感じる洋也の香りに、秋良は唇をほころばせる。
 目を閉じて、ゆっくりと訪れようとしている眠りに引き寄せられそうになっ た時、軽やかな音が室内に響いた。
 目を開けて頭を持ち上げる。
「?」
 それはインターホンの音のように思えた。
 ここはオートロック式のマンションなので、洋也ならそんなものを鳴らさず に部屋を開けてくるだろう。
「どうしよう」
 もし誰かが訪ねて来たにしても、ここは日本ではない。当然、相手は英語を 話すだろう。
「居留守って言うか、洋也はいないんだし、いいよね?」
 ここは留守ですよーと言いながら、秋良は音のするリビングへと移動する。
 秋良の期待に反して、インターホンは何度も部屋の主を呼ぶ。
 モニターをONにすると、そこにはやはり、アメリカ人と思われる青年の姿 が映っている。
「あのー」
 恐々声を出すと、相手はモニターの向こうで人懐っこそうな笑みを浮かべた。





 モニターの中では、一人の青年がにこやかな笑みで、こちらを見ている。
「どうしよう……」
 話しかけるには英語が思い浮かばず、そうしている間にも相手はまたもベル を押した。
 そうなると、無視を決め込むのも気が引ける。
「はろー」
 とりあえず、とりあえず最初の言葉を口にしてみる。
 すると青年はとても喜んで、早口で何かをまくし立てた。もちろん英語なの で、秋良には何を言っているのか、少しもわからない。
 やっぱり失敗だったかも……。
 そう思うが、今更、間違いでした、帰ってくれともいえず、秋良は暫し途方 にくれた。
「電話してみよう」
 誰に言い聞かせるわけでもなく、自分に確かめるように、独り言を言って、 秋良は携帯を手にした。
「じゃすともーめんと、ぷりーず」
「イエース」
 待っててくれと言ったのが通じたとわかり、秋良はほっとする。
 けれど携帯の番号を押しかけて、仕事中の洋也に電話をかけていいものかど うか迷ってしまう。
「仕方ないよね。本当なら、休みなんだし」
 言い訳をするように言って、秋良は番号を押した。
 何度かの呼び出しコールのあと、それは留守番電話へと切り替わった。
「やっぱり、仕事中はまずかったのかな。……でも、……どうしよう?」
 オートロックを開けるのは怖い。
 けれど、このまま待たせるのも気の毒で。
「とりあえず、出なおしてくれって、どう言えばいいんだろう?」
 旅行のための英会話という本をめくってみるが、そんな都合のいい文章は出 てこない。
 モニターを見ると、青年は少し苛立ち始めた様子で、カメラを覗きこんだり、 外の様子をうかがうように、うろうろし始めている。
「やっぱり出なきゃよかった……、……あ」
 もう一度謝ろうとした時、画面の向こうに洋也の姿が見えた。
 予定の時間より早く帰って来た洋也にほっとするが、モニターの中では何や ら、険悪な気配がし始めていた。
「どうしよう……」
 二人の表情はカメラからは死角になってしまい、うかがい見ることはできな い。
 離れてエレベーターに乗ろうとする洋也に、青年が腕をつかんで引きとめよ うとしている姿が見えた。
「大丈夫なのかな」
 犯罪の多いアメリカ。銃などが出てきても不思議ではないかもしれない。
 そう思うと、秋良は居ても立ってもいられず、部屋を飛び出した。


 マンションのエントランスでは、洋也と青年が何かを言い争っているように 思えた。
 だがよく見ると、喋っているのは、一方的に青年のほうであった。
 秋良には興奮して話す青年の言葉は何一つわからないが、洋也がほとんど無 視をするようにしているので、青年はよりいっそう激しく言い募っているよう に思えた。
「洋也……」
 そのうち、青年が乱暴でも働かないかと心配になり、秋良は恐る恐る声をか けた。
 誰かがいるなら、青年も少しは興奮を収めるかもしれないと思ったのだが… …。
 秋良の姿を認めて、洋也はまずいという表情をして、青年から秋良の姿を隠 すように、二人の間に立ちはだかった。
 それを見て、更に青年は何かをまくし立てる。
 うるさそうに洋也が何かを言う。
「大丈夫? 知ってる人?」
 秋良は背中越しに洋也に声をかけた。
「会社の部下」
「じゃあ、仕事の話?」
 とてもそうは見えなかったが、仕事上の行き違いから、何かを訴えようとし ているかもしれない。それにしては、かなりのエキサイティングぶりではある が。
「違うよ。どうやら、彼に嵌められたらしい。僕を偽の客で呼び出して、どう やら、秋良に会おうとしていたらしいね」
「僕に? どうして?」
 二人で日本語で話すのが気に入らないらしく、青年はますます、激しい口調 で何かをわめいた。
「何て言ってるの?」
「……僕がニューヨークで浮気をしているんだ。あなたは知っているのか、っ て」
「ええ? 浮気?」
 秋良は驚いて洋也を見上げた。苦々しげに洋也は笑う。
「証拠もあるそうだよ。見る?」
 少し意地悪そうに言い、洋也は何かを英語で話しかけた。
「……見たくないような、……見たいような」
 秋良の言葉に、洋也はまた英語で話しかけた。
 多分、見せろと言ったのだろう。
 青年は勝ち誇ったように、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
 デジカメで撮ったらしいその写真は、粒子が粗いものの、洋也と一人の紳士 が映し出されているのがわかった。
 そうっと手を差し出して、秋良はその写真を受け取った。
 見るのが怖いが、そうも言ってられない。
 見なければ、後々、洋也を疑ってしまいそうで、それも嫌だった。
 じっと一枚の写真を見つめて、秋良はふっと笑った。
「なんだ、お父さんじゃない。ニューヨークに出張だったの?」
 秋良は笑って、写真を洋也に返した。
「本当はカナダだったんだけれど、足を伸ばしたらしいよ」
 何かを言って、洋也は写真を青年に突きつけた。
「Father?」
 青年は目を細めて、洋也とその写真を見比べた。
「いえす。ひず、ふぁーざー」
 秋良は微笑んで頷いた。
「こんなによく似ているのに、わからなかったのかな?」
 洋也はそれを英語に訳して、デイビットに伝えた。
 デイビットは驚き、言葉をなくしていた。
『今度私がアメリカに来るまでに、君の席の始末をしておきなさい』
 英語で言ったその言葉は、秋良にはよくわからなかったが、デイビットは目 を見開いて聞き入った。
 そして、ショックを受けたデイビットを秋良から隠すように、洋也はさっと 秋良をエレベーターに乗せた。
「いいの? 彼」
「仕事で来たのでなければ、赤の他人さ」
 洋也の言葉には納得できないものの、洋也の浮気写真だと言って、そんなも のを持ってくる人に、さすがの秋良も同情はできなかった。
「これから、仕事、やりづらくない? あの人と」
「仕事は仕事さ」
 あっさりという洋也に納得して、秋良もそうだねと呟いた。
 部屋に戻ると、まだ一日しか滞在していない部屋だが、とてもほっとした。
「でも、びっくりしたなぁ。洋也が浮気だって」
 秋良は楽しそうに笑う。
「浮気してたら、……どうする?」
 苦笑しながらも、洋也は秋良を背中から抱きしめて囁いた。
 胸に回された手に、自分の手を重ねる。
「うーん……、まずは、……飛び出しちゃうかな」
 洋也が浮気をしたらと仮定しても、……全く予想も立てられない自分に、秋 良は少し戸惑った。
 遠く離れていても、洋也が秋良の傍にいるという事が実感できる。
「ニューヨークには、鳥羽君はいないよ」
 洋也は微笑んで、軽いジョークを返す。
 秋良はクスクスと笑った。
「困ったなー」
 洋也が浮気をする事より、飛び出す先がないことのほうが困ったと言う秋良 を、洋也は強く抱きしめた。
「浮気できないように、秋良の存在をベッドに残して」
 熱く囁かれる言葉に、秋良はどきりと胸を震わせ、そして……頷いた。


                         END