BED−2−

 

 

初出 ; Vol.50〜59

 

 

 トライプラネット社の自社ビルはマンハッタン地区からは少し外れるが、ニ ューヨークの大きな通りに面して建っていた。
 業務内容はコンピューターのソフトなら何でも扱う。新しいソフトの開発か ら、企業のソフト作成やバックアップまで、全般的に請け負っていた。
 アメリカの同業種の中では、五指に入る優良企業でもあった。
 その中にできた新しい部署。
 コンピューターの次世代化を狙い、そのハードとソフト面を同時に開発する ために作られた。
 その部署のチーフが、日本人だと言われた。
 オフィスの内部も、メンバーも、完全に集められたあとで、その事実を知ら された。
 デイビッドはそれを知らされて、唖然とした。そしてエリートとして選ばれ ていたと喜んでいた自分に怒りが込み上げてきた。
 入社して三年目。そろそろ自分が小さいプロジェクトのチーフとして選ばれ てもいい頃だ。
 それが外国人の部下になる。
これでは、プロジェクトとは名ばかりで、体のいいリストラなのかもしれない と、本気で思った。
 いつ辞めてもいいが、せめてそのチーフという日本人の面だけでも拝んでや ろうと、辞職の日を延ばした。
『どうせさ、背も低くて、メガネかけて、腹の出っ張った親父だぜ』
 デイビッドは仲間達と笑った。みんなもどうせすぐに辞めるだろう。その点 も仲間だと笑いあった。
『英語は話せるのかねー』
『通訳を雇うんなら、当然、ポケットマネーだろうな?』
 会う前から不満と揶揄の入り混じった会話ばかりをしていた。
『なんかさー、こちらには住まないで、日本から短期で通うらしいぜ』
『はぁ? そんなんで、仕事になるのかよ』
『こっちの自由にしていいってことじゃねえ?』
『すぐに逃げ出せるようにだよ、きっと』
 笑い声には嘲りが多分に含まれていた。
 もし、そんなふうに逃げ出してもらえるなら、急いで辞めることもない。
 新しい有能なチーフが決まるまでの我慢だと思えば、給料も上がるのだし、 踏み止まろうかと思った。

 彼は、4月の半ばにやってきた。
 フロアマネージャーのレナードが彼を連れてきた時、デイビッド達は彼を通 訳なのだと思い込んだ。
 日本人には見えなかったのだ。
 レナードは誰に遠慮することもなく、早口の英語で彼をみんなに紹介した。
『このプロジェクトをまとめて、導いてくれる、私たちのチーフマネージャー である、三池氏です』
 驚きを通り越してぽかんとしている部下たちをさらりと見渡して、彼は自己 紹介をした。
『三池洋也です。よろしく』
 ごく簡単なそれは、やはり英語が話せないからか?とデイビッドは思ったが、 すぐにそれが間違いであることがわかった。
 レナードと簡単な打ち合わせをしている時には、彼は流暢な英語を話してい た。聴いた限りではイギリス圏の英語のように感じたが、それでも彼が日本語 を話すとは信じられないほど、日本人には見えなかった。
 それは彼の身長の高さも関係しているだろう。デイビッドよりも数インチは 高く、肌もどちらかと言えば白い。
(だからって、有能であるかどうかはわからない)
 いくら日本人離れしていたって、いくら英語が堪能だからって、上司と認め るにはそれなりのものを見せてもらってからだ。
 反感の目を多数感じながらも、洋也は平然と仕事についた。
 どんな風に自分が判断されてもかまわない。どんな風に思われてもかまわな い。
 部下たちが優秀で、望むだけの仕事をしてくれるなら。
 こうして洋也のアメリカでの仕事は始まったのだった。





 門の灯りは、日が暮れたら自動で点灯するようになっている。玄関も鍵を開 けると、センサーが反応して、灯りが点く。
 だが……。
「ただいま」
 声をかけても、答えてくれる人はいない。
 力ない溜め息を零して、その気鬱さに自分でも驚いてしまうが、その溜め息 すら、聞いてくれる人は……いない。
 リビング、ダイニングと電気を点けて、買ってきたスーパーの袋をテーブル に無造作に置く。
 夕食を作らなくてはと思うのに、そんな気持ちになれない。無理をして作っ ても食べる気持ちにはなれないだろうと思う。作る前から。
 こんなにも一人が寂しいなんて、想像もできなかった。
『大丈夫だよ』
 今ではその言葉がただの強がりだったと認めずにはいられない。
「はー」
 今更隠す相手もいないと思い、思い切り息を吐く。
 顔を上げると、部屋が異様に広く思えた。
「何もしたくない」
 秋良は独り言を呟き、それでも買ってきたものを冷蔵庫に入れた。そこには たくさんの食品が詰まっていた。
 まだ一人用の食材を買い慣れない。そして買ったものをすべて食べきれない。
 そうしてどんどん冷蔵庫の中身が増えていく。
 洋也がアメリカに行ってもうすぐ1週間。一人になった秋良は寂しさを持て 余していた。
 振り返るとそこに洋也がいるような気がする。笑って自分に両手を伸ばして くるような気がする。なのに、振り返ってもそこには空間だけが広がっている。
「シャワー、で済まそうかな」
 何もする気になれない。
 秋良は足を引きずるように二階へ上がる。上着を脱いで、ベッドに寝転んだ。
 ふわりと恋人の残り香がする。
 洋也の枕を抱き寄せ、顔を埋める。涙が溢れそうになって秋良は仰向けにな った。
 疲れていた。とても。
 新学年が始まって、秋良は昨年度から持ちあがって6年生を受け持っていた。
だがそれは、校長の教育委員会へ行けという要請を断わった結果だ。
 その時は単に嬉しかった。けれど4月になってから、秋良は忙しくなった。
 PTA運営委員の教育者側の代表。生活指導教員として、地域との連絡係。
 雑務が否応無しに押し寄せる。
 そこへ、洋也の不在は堪えた。
 食べなくちゃ。ちゃんとしなくちゃ。
 そう思うのに、身体は何もしたくないと言っていた。
「痛い……」
 昨日から胃がしくしくと痛み始めていた。
「大丈夫……」
 そう言いながら、胃を手で押さえる。
 洋也が帰って来るのは3週間後。それまでには元気になっていないとと思う。 また心配をかけてしまうから。
 このまま寝てしまおうかと目を閉じた時、電話が鳴った。
「あ……」
 秋良は慌てて起きあがり、ベッドテーブルに置いていた電話を取った。
『秋良、帰ってた? おかえり』
「ただいま」
 ニューヨークからの電話は、こうして毎日かかってくる。向こうはちょうど これから仕事を始める時間だという。
『今日は何かあった?』
「うーん、別に。あ、体育の時間中に雨が降ってきて、大変だった」
『濡れなかった? ちゃんと頭拭いた?』
「それは僕が生徒に言うことだよ」
 言いながら秋良は笑っていた。二人の他愛無い日常を報告し合う電話。
 国際電話は高いからと気遣う秋良に、洋也はたいしたことないよと全然平気 で、秋良も楽しくて、つい時間を忘れて話しこんでしまう。
『もう夕食は食べたの?』
「え、あー、今帰ってきたとこで、これから」
『ちゃんと食べないと駄目だよ。朝も』
「だからぁ、それも、僕が生徒に言うこと」
『ちゃんとしてるって聞かないと、僕が心配なんだよ』
 洋也の曇った表情が目に浮かぶようで、秋良は慌てて付け加えた。
「大丈夫。ちゃんと食べてる。洋也が帰ってくる頃には、新しいメニューも増 えてるかもよ?」
『楽しみにしているよ』
 本当にちゃんと食べろよと念を押されて、秋良は笑いながらわかってるよと 返事した。
 電話を切ると、途端に部屋の静けさが身に迫ってくる。
「ご飯、食べよう」
 秋良は1階へと急いだ。
 何時の間にか胃の痛みは忘れていた。





 新しいチーフは、通訳などまったく必要なかった。
 アメリカ人か?と思うほど綺麗な英語を話した。こちらの問いにも即時で英 語で答えた。つまり、彼の頭の中では、聞いた英語を自国語である日本語に訳 していないのだ。
 言葉が話せたからって、有能とは限らないと、デイビットたちは冷ややかな 目で、異国人の上司を見た。
 彼は部下達よりも尚、冷ややかな目をしていた。
 その態度もアメリカ人の部下たちを戸惑わせた。
 ……日本人は、都合が悪いと笑いで誤魔化すのではなかったか?
 ……日本人はNOと言えない人種ではなかったのか?
 そんな偏見は、ミツイケという上司を見ていれば、数日で改めなくてはなら なかった。
 そして与えられる指示を、少しでも理解が遅れると、容赦なく、その仕事は 他の者に奪われることになるらしかった。
 デイビットはまだミツイケの指示に遅れたことはなかったが、落ち零れてい く仲間達を見ていると、恐怖を感じた。
 何が、追い返してやるだ。
 まだ見ぬ上司を、相応しくなければ追い出すのだと息巻いていた自分が恥ず かしくなった。
 だが、同時にその上司の冷淡さが恐ろしかった。
 自分たちは、取替えのできる部品として扱われているのではないだろうか。  その疑惑が拭えなかった。
 そして、その上司さえ、本当は人間ではないのではと、つい子供じみたこと を考えてしまう。
 ミツイケはまるでアンドロイドだ。
 そう囁かれるようになるのに、たいして時間は必要なかった。

 馬鹿にしたような視線が、次に驚きに変わり、恐怖になり、反発に塗られて いく。
 おかしいほどに、わかりやすい反応だった。
 それは、洋也にとっては馴染みの反応でもあった。
 日本にいた頃は、馬鹿にしたようなではなく、それは羨望の視線であったと いう違いに過ぎない。
 馬鹿にしたような視線と羨望の視線ではまったく正反対だが、洋也にとって は、どちらも同じ、『嫌な視線』に過ぎなかった。
 それは相手にすべきではない種類のものとして、洋也の中に存在している。
 驚きや恐怖も、洋也はまるで意に介さなかった。
 そんな個人の感覚は、洋也の前には邪魔なものでしかなかった。
 問題とするなら、それはやはり反発であろう。
 その空気が感じられるようになった時点で、洋也はやり方を変えた。

 適材適所。
 優秀と思われる人材を把握したあとは、能力を最大限に活かせる仕事をして もらうようにした。
 そして、足りない分は育てることにした。
 仕事を与えるふりをして、憶えてもらうべき資料を渡した。
 憶える早さによって、仕事を変えていった。
 まだプロジェクトはスタートしたばかりで、本来なら洋也の仕事は、会議ば かりだ。
 企画を出し、会議を重ねる。
 それに辟易した洋也は、上層部と掛け合って、プロジェクトそのものをトラ イプラネット社から切り離した。
 極秘で進行するプロジェクトであることを利用し、会社の中からも組織を切 り離した形に整えた。
 それで余計な会議に出る必要はなくなった。

 ニューヨークに来て1ヶ月近くがたとうとしていた。
 そろそろ帰りたい。
 毎夜、一人で寝るベッドは、喩えようもなく空虚だった。
 秋良がいない。
 それだけで、自分の身体ではないように感じられる。
 毎日電話で声は聞いているが、それがかえって会いたいという欲望を募らせ た。
 昔の自分なら、これが当たり前だったと考えて、そんな過去の自分が気の毒 に思えた。
 一人のシーツ。
 秋良のいないベッド。
 せめて……。
 このベッド秋良の残り香があればと、願わずにはいられなかった。
 夏休みには無理を言ってでも、秋良を連れて来ようか……。
 洋也は遠くにいる恋人を思って目を閉じた。


NEXT