『怜一はいないよ。君に話があるのは、俺なんだから』
 英語で響いてくる言葉。
 聞きたくない。
 エレベーターが一階に到着し、久志は崩れるように廊下に出た。
 ふらりと身体が揺れるのを、皮肉にもリッキーに支えられる。
『離して……』
 久志が英語で懇願すると、リッキーはニヤリと笑った。端整な笑顔に浮かぶ、 嫌味な笑顔。
『なぁ、俺がただ怜一を研究の仲間に欲しいだけで、こんな遠い国までくると思 うか? わかるだろう? 怜一と俺は恋人同士だった。向こうじゃ誰でも知って いることなんだ』
 聞きたくなくて首を振る。リッキーは強引に久志の腕を引っ張っていくので、 両手で耳を塞ぐこともできない。
『こっちの学校に恩があるから、3年だけ教師として働いてくるって。3年たっ たら戻るって約束だったんだよ。だから俺は待っていたのに、あともう2年待っ てくれって頼まれてさ。どうしてそんなことを言うのか確かめに来たんだよ。浮 気されているって直感したんだ。怜一の悪い癖さ。教え子に手を出しちゃったか ら、卒業するまで責任を持つつもりなんだろうね』
 無理に手を引っ張られ、逃れようと抵抗した。
『向こうでもあちこちで手を出してさ。君みたいにちょっと見は可愛くて、素直 なタイプに弱いんだよ。俺がやきもちを焼くのを見たいのさ』
『嘘だ……』
 つい反応してしまう。反応すれば、相手が喜ぶだけなのに。
『嘘じゃないさ。君は若いんだし、怜一みたいに年上の男は、どうせ都合よくお 金を出させるためだけなんだろう? さっさと身を引けよ。俺が許せるうちに』
 カチャリと音がする。
 抵抗する力をなくし、震える手から鍵が落ちた。
「嘘だ……」
 久志は呟いた。
「そんなこと、信じられない……」
 先生はそんな人じゃない。そう言いたいのに、言えなかった。
『これは怜一の部屋の鍵なんだろう? 返してもらうよ』
 リッキーの言葉にはっと顔を上げた。彼の手に握られたウルトラマンのキーホ ルダー。
『……返して』
 鍵はいい。合鍵は取られてもいい。
 けれど、怜一のいない9年間、自分を支えてくれたウルトラマンを奪われたく ない。
「返して! それは、僕が貰ったものなんだから!」
 それまで弱々しく泣き出しそうになっていた久志が、強く反発したのでリッキ ーは驚いたようだった。
「返せよ!」
 日本語で言われた言葉だが、鍵を返せと言われていると判断できた。
『返さない。これは本来、俺が貰えたはずのものだから』
 リッキーはそれをジャケットの内ポケットに入れ、久志の胸を押した。
『帰れ』
 ドンと押されて、久志は道路にしりもちをついた。
『もうくるな』
 リッキーは冷たく言い放って、座り込んだままの久志に背を向けた。

 ヨロヨロと立ち上がって、久志は鞄を持って駅へと逆戻りする。
 ウルトラマンを奪われた時に零れたきり、涙はもう出なくなっていた。
 悲しいというより苦しくて、苦しいというより心が重くて、何も考えられなく なっていた。
 胸ポケットから定期入れを取り出したところで声をかけられた。
「杉田? ……お前、どうしてこんなとこに……。怜ちゃんのところに行ったん じゃなかったのか?」
 ぼんやりと声のした方を見やると、孝治が心配そうに自分を覗き込んでいた。
声をかけられたときと、顔を覗き込まれたときの距離感がつかめない。
「何かあったのか? 顔色、悪いぞ」
 目も赤い……そうも思ったが、そちらは口にできなかった。
 答える気力もないというような久志に、孝治は何か感じたのか、俺の家に行こ うぜと誘ってきた。
 久志は緩々と首を横に振る。
「だって、お前具合悪そうじゃないか。俺の家、ここから近くだから、な? 親 父が帰ってきたら、車出して送ってもらうから。ちょっと休んでいけよ。そのま ま電車に乗ったら、倒れちまうぞ。それくらい酷い顔色なんだぞ」
 それでも首を横に振る久志を、半ば強引に手を引いた。
 嫌がっていた久志だったが、身体の芯が抜けたような彼は、強い抵抗もなく手 を引かれるままに孝治についてきた。

 孝治の家は、その辺りでは珍しい日本建築の二階建てで、引き戸の玄関を潜る と、出かけようとする父親とばったり会った。
「何で親父、家にいるのさ」
「今からばあさんを本家に送っていくんだ」
 父親はそう言いながら、息子の横に立つ友人をちらりと見た。
 高校生にしては幼い外見。その友人の酷く具合の悪そうなのが気にかかった。
「クラスメイト。そこでばったり会ったんだ。ちょっとしんどそうだから、送っ てやって欲しいんだけど」
「だったら怜一に言えばいいんじゃないのか? あいつももうすぐ帰ってくる頃 じゃないか?」
 怜一の名前が出て、久志の身体がぴくりと反応する。
「怜ちゃんはちょっと……。ちょっと俺の部屋で休ませとくから、本家から戻っ たら送ってやってよ」
「……それは構わないが……」
 そこへ孝治の祖母がやってきて、同じような会話を繰り返す。
「私の用件はすぐに済みますから、ここで待っていてもらいなさい。怜一など待 っていたら、そのお友達が病院に行く時間もなくなりますよ」
 とことん次男を信用していない彼女はあっさりと、すぐに戻らせるからと言い 置いて出て行ってしまう。
「そうだよな、杉田、病院に行った方がいいか? お前んち、迎えに来てもらえ る人、いる?」
 そのどちらにも久志は首を横に振った。
「送ってもらわなくても……一人で帰れるから」
 呟くような小さな声に、孝治はぽんぽんと肩を叩いて、自分の部屋へと久志を 連れて行った。







 ガレージに車を入れた怜一はマンションの自分の部屋を見上げた。
 灯りのついた部屋にほっと安堵の溜め息を漏らす。
 孝治を使ってまで連絡を取ったのは、かなり卑怯な手だという自覚はあったが、 なんとしても今、久志を掴まえておかないと取り返しがつかないような恐れがあ ったからだ。
 部屋に呼んでしっかり話をする。久志が感じているだろう不安や、心配を取り 除き、誤解も解きたい。
 そんな企みをもちながらエレベーターに乗ろうとしたところで、携帯電話が鳴 り始めた。表示を見ると、滅多に見ない兄の名前。
 これは部屋に帰る前に話を済ませておかないとと判断する。兄からのこの時間 の電話が決して兄弟の普通の会話になるはずがない。
 帰れだの、結婚しろだのという今更な会話はさっさと済ませてしまおうと電話 に出た。
「もしもし?」
『お前、今どこにいる?』
 いきなりだ。挨拶をしろとは言わないが、せめて今電話をかけてもいいかくら いは聞いて欲しい。
「自宅前だけど? あ、今から大切な用件があるから、帰れないから」
『お前の生徒がうちにいる』
「あ? そりゃ孝治は……」
『孝治が連れてきたんだ。クラスの生徒だと言っていた。具合が悪そうで、後で 送ってくれと頼まれたんだが』
 意外な話の展開に、怜一は眉をひそめた。
「なんていう名前かわかる? 今、そこにいる?」
 孝治が連れて帰る生徒など、今のクラスに一人しか思いつかない。けれど、と もう一度外へ出て自分の部屋を見上げる。灯りにほっとしながらも、それでも眉 間の皺は消えない。
『名前は聞かなかった。ちょうどお袋さんを本家に送っていくところだったから。 目が大きくて、小さい子だったな』
「すぐに行く」
 それ以上聞く必要はなかった。電話を切って、エレベーターに乗り込む。
 灯りをつけたのは誰か。それを確かめないことには、久志の元へ行けない。
 何故久志が孝治といるのか、部屋の灯りをつけているのは誰なのか。
 玄関のノブはあっけなく回り、ドアは何の抵抗もなく開いた。久志が一人の時 には鍵をかけ、チェーンもするように言ってあるので、中にいるのは久志とは思 えなかった。
 玄関に並んだ靴は、通学用のものではなかった。けれどその靴に見覚えがある。
『お帰り、怜一』
 思ったとおりの人物が出てくる。
『リッキー、どうやってここに入れたんだ?』
『この前泊めて貰った時に、合鍵を借りたじゃないか』
 そうだっただろうか。返してもらったような気がするが、確かな記憶はない。
『誰か尋ねてこなかったか?』
『誰も。誰か来るはずだったのか?』
『いや……それならいいんだ。ちょっと、家に戻ってくるから』
『ええっ、俺も行くよ。ずっと怜一を待ってたんだから』
『駄目だ』
 久志をリッキーに会わせたくない。
『今夜は帰れ。忙しいんだ』
『じゃあ、車に乗せてってよ。怜一の家からの方が、俺の下宿に近いもんな』
 苛立つ気持ちを抑えて、怜一は一刻も早く行きたいばかりに、靴も脱がないま ま外へと飛び出した。

 重い空気が漂う。
 部屋に流しているCDの効果はまったくない。
 母親が運んでくれた晩ご飯も、久志は「ごめんなさい」と言ったきり、半分以 上を残してしまった。
 見るからに具合は悪そうなので、残したことを心配はされたが、母親も不快な 顔はしなかった。
 父親が帰ってくるまでにはもう少しかかるということで、久志はぼんやりと孝 治の部屋で壁のポスターを眺めていた。
 女性アイドルがにこやかに微笑んでいるポスターを見ていても、考えているの は一つだった。
 返して欲しい……。どうすれば返してもらえるだろうか。
 他には何もいらない。怜一さえも。
 涙が溢れそうになって、あわてて制服の袖で目をこする。
 窓の外を光が流れた。まぶしい光に、孝治が立ち上がる。
「親父が帰ってきたみたいだな。俺も一緒に送ってくよ」
 久志は小さく頷いて立ち上がった。
 鞄を手にとり、部屋のドアを開けた孝治のあとに続いて廊下に出ようとした。
「あ……ちょっと……」
 ドアのところで孝治が立ち止まったために、久志は背中にぶつかってしまう。
 押し戻そうとする孝治に、どうしたのかと久志が顔を上げた。
「久志!」
 その呼び声に身が竦む。
「レイちゃん……」
 孝治の呟きに久志は一歩、二歩と下がる。部屋の中に戻ると、怜一が孝治を押 しのけて入ろうとしていた。
「レイちゃん、ちょっと待てって」
「退け、あいつに話があるんだ」
「今は話ができる状態じゃないって」
 必死で押し止める孝治の腕を怜一が掴んで引き離そうとしている。
「久志、こっちに来い」
 顔だけを部屋に突っ込むようにして怜一が呼ぶ。久志は弱々しく首を振った。
「久志!」
 叱りつけるような怒鳴り声に、久志はぎゅっと目を閉じて、鞄を抱きしめて俯 いた。
「レイちゃん、だから無理だって」
「へー、おいで」
 優しい呼びかけ。懐かしい響きの呼び声に、久志は顔を上げた。
「へー。こっちにおいで」
 久志が何かを言おうと口を開きかけたとき、せっかくの雰囲気をぶち壊す声が 響いた。
『怜一! 話は済んだか?』
 一歩を踏み出そうとしていた久志の足が止まる。見る見る強張る顔に、怜一は 手を伸ばそうとした。
「いい加減にしろよ、レイちゃん。どうしてあんな奴を連れてくるんだよ」
「ここから帰るはずだったんだ」
「ここまででも連れてくるなんて」
『ここが怜一の育った家? 日本らしい素敵な家だな』
 処置無しと言ったように孝治は首を振りながら部屋に戻ってきた。
『リッキー、約束が違うだろう』
 怜一はリッキーを帰そうとするが、そのリッキーに久志が掴みかかった。
「ねぇ、返して、返してよ。あれ、僕のなんだよ!」
 リッキーの腕を掴み、揺す振りながら、久志は幼い口調で詰った。
「返して! 僕のウルトラマン、返してよ。大切なものなんだよぉ!」
「ウルトラマン……だって?」
 怜一の顔が険しくなる。
「お兄ちゃんに貰った宝物なんだ! あれがないと、お兄ちゃん、帰ってこない じゃないか!」
『リッキー、お前、こいつから合鍵を奪ったな……』
『し、知らないよ』
「返して! 返して! 僕のウルトラマンなんだから!」
「久志……」
 怜一が久志の肩に触れると、久志はびくりと身体を震わせた。
「お兄ちゃん! 僕のウルトラマン……返してくれない……」
 久志が叫びながら縋りついたのは、館旗の制服を着た孝治だった。
「久志……」



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