「お兄ちゃん!」
 久志は幼い口調で、館旗の制服姿の孝治に縋りついた。
「久志……」
 怜一は唇をきつく引き締めてその姿を見るしかできなかった。
「レイちゃん……」
 どうしていいのかわからずに、孝治は怜一を見た。
 息苦しい空気に、怜一はリッキーに向き直った。
『リッキー、合鍵が欲しいんなら何本だってくれてやる。だから、あいつが持っ ていたキーホルダーを返してくれ』
 怜一はリッキーに向かって手を差し出した。
『何のことかわからない』
 それでもとぼけようとするリッキーに、怜一はじろりときつい視線で睨んだ。
『小さな人形のついたキーホルダーだ。お前が大切なのは合鍵だったんだろう。 お前には人形など何の意味もないだろう。だから返せ』
 リッキーはそれでも身動きしなかった。むすっと唇を尖らせている。
 怜一は返せと差し出していた手でリッキーのシャツを掴んだ。
『返せ! お前には必要ないだろう! だけど、あれはあの子には大切なものな んだ!』
 本気で怜一が怒っている。それはリッキーにも理解できたが、今更素直にはな れそうにはなかった。
『俺は取ってない。どうしてあのこの方を信じるんだ』
『それだけ意味があるものなんだ。俺が本気でお前を嫌う前に返してくれ』
 本気で嫌う前に、という言葉にリッキーは顔を顰めた。
『本気ではないけれど、俺のこと、嫌いになりかけているんだ?』
『当たり前だろう。あの子を泣かせた。それだけで、俺はお前のこと、これから 先も好きになんてなれない。早く返せ。本気だ。力づくで取り上げられたいか?』
 もう好きにはなれない。その言葉が全てだった。
 リッキーはポケットからキーホルダーを取り出した。
 怜一はそれを毟り取るように取り上げ、自分の部屋の合鍵をホルダーから外し てリッキーの胸元に投げつけた。
『アメリカに帰れ。二度と顔も見たくない』
 胸にぶつかり、床に落ちた鍵をリッキーはじっと見つめる。
 そんな彼のことなど、怜一はもう視野にも入らないようだった。

 ウルトラマンのキーホルダーを手に、怜一は久志の側へと歩み寄った。
 久志は孝治に抱きつくようにして泣いていた。
「へーちゃん」
 怜一は思いの丈をこめて呼びかけた。
 久志の肩がピクリと震える。
「へーちゃん、ほら、ウルトラマンの人形だよ。ちゃんとここにあるから」
 優しい声。
 幼い子供に呼びかけるように、甘く囁きかける。
「へーちゃん、見てごらん。もう一度、あげるから。ちゃんとへーちゃんにあげ るから」
 久志がゆるゆると顔を上げた。
 その目の前にキーホルダーを差し出してやる。
 目の前で揺れるウルトラマンに、久志の目の焦点が合い始める。
 片手をあげて飛び立とうとしているウルトラマンに、久志はゆっくり手を伸ば した。
 その手にウルトラマンを握らせてやる。
 ガシッと久志の手の上から自分も握りしめて、怜一は呼びかけた。
「久志、俺を見ろ。俺はここにいる」
 暖かい大きな手。自分を久志と呼ぶ人。
 久志は握り合った手から腕へ、肩へと視線を移し、その人を見た。
 大きな目からぽろぽろと涙が零れる。
「せん…せ……い……」
 涙声が怜一を呼んだ。
「久志」
 手を伸ばすと、今度は過たずに久志は怜一の胸へと飛び込んだ。
「先生……先生……せんせい……」
「ごめんな、久志。辛い思いばかりさせて、ごめんな」
 ぎゅうぎゅうと縋りついてくる細い腕、細い身体。
 二度と離すまいとしっかり握りしめられたキーホルダー。
「先生……」
 久志は何も言えず、怜一を呼ぶばかりだ。
「どこにも行かないから。ずっと、お前の側にいるから。二度と離れたりしない から」
 安心させるように何度も何度も繰り返した。
『そんなこと……馬鹿げてる。みんな、怜一を待っているのに……』
 リッキーが思わず呟いた。
 久志の身体がびくりと強張る。
『まだいたのか。出て行けと言ったはずだ』
 自分の冷たい表情を見せないように久志を自分の胸にしっかりと抱きこんで、 怜一はリッキーを睨んだ。
『何のために……あんなに素晴らしい論文だって残して……研究者として望まれ ているのに……何ために留学したっていうんだ……』
『アメリカに帰れ。そして仲間に言うんだ。中西はラプラスの魔を信じている。 数学者としては失格だ、と』
 リッキーは首を激しく左右に振る。
『嘘だ!』
『本当だ。俺は……信じてる。だから、こうして欲しいものを手に入れた』
 怜一はしっかりと久志を抱きしめ、リッキーを睨んだ。







 ラプラスの魔………膨大なる知識と計算力を持った存在……
 細かい文字と数式の並んだページを閉じて、久志は深いため息をついた。

 現代においてラプラスの魔を信じる数学者や物理学者はいない。
 それをどうして怜一は「信じる」と言ったのだろう。
『アメリカに帰れ。そして仲間に言うんだ。中西はラプラスの魔を信じている。 数学者としては失格だ、と』
 リッキーはそれを聞いて激しい反応を見せた。嘘だと叫んだ。
『俺は……信じてる。だから、こうして欲しいものを手に入れた』
 欲しいものとは自分のことだろうか? と久志は考えた。
 数学が苦手な自分には、この本に書かれている事の半分もわからなかった。
 ぼんやりと、未来に起こる事象はすべて計算でき、予測できるというものだろ うかと考える。
 それについては「そんなバカな」と思う。
 未来がすべて計算できれば、それは素晴らしくもあり、怖くもある。第一、そ こに人の心理が働く限り、全く同じ結果や完璧な未来予測など出来るはずがない と思う。これは文学的な考え方に過ぎるだろうか。
 昨日の夜、呆然とするリッキーを怜一の実家に放り出したまま、久志は怜一に 送り届けられた。
 久志は家族に、担任が幼い頃に懐いていた「お兄ちゃん」だとは言えずにいた。そして母親は怜 一のことを覚えていなかった。当然かもしれない、あれから10年の月日が流れ ている。高校生だった怜一は社会人となり、少年期を過ぎて精悍さを増していた。
 怜一は自分の身分を名乗った。遅くなってしまったこと、久志が最近塞ぎこん でいた理由について説明し、一人の人間として守りきれなかったことを謝罪した。
 そして……。
「これからも、久志君の将来についても、僕に預からせてください。責任はどの ようにも負います」
 驚く両親に、怜一は深く頭を下げた。そこにどんな意味が含まれるのか、普通 なら判断は出来なかっただろう。
 母親は悲しそうに微笑んで、「預けられないわ」と言った。
 固まったように動かない怜一に、母親は続けて告げた。
 久志の将来は久志のもの。そして私は生きている限りこの子の母親。親だから どんな責任だって取りたい。その責任を人に預けるつもりはない。けれど、久志 の将来は自分で決めるべきこと。一緒に肩を並べる人が誰であるのかは、久志が 決めること。久志が決めたのなら、親としてそれを見守りたい。
 諭すように降りてくる母親の言葉に、怜一は頭を下げたまま、ありがとうござ います、と礼を言った。
「この子が館旗に入りたいと言ったときから、なんとなくわかっていたんです。 お兄ちゃんを探すつもりなんだなって。先生はおられかったからわからなかったで しょうけれど、私達はずっと逢いたいと言い続けたこの子を見てきたから、こう なることは、予測できていたというか、決して喜んでは受け入れられないんです けど、反対もできないんです」
 母親の言葉に父親も苦く笑いながらも頷いてくれた。
「あの時、一年して帰国したはずのお兄ちゃんを探すことはできました。そうし なかったのは、この子のためにはその高校生と会わないほうが良いと思ったので す。誰かに強く依存し、その存在を求めるにはこの子は幼すぎた。すぐにも忘れる だろうと軽く考えていたこともあります。高校に入ってから明るくなったり、暗 くなったり。理由を話してくれないので見ているだけしかできませんでした。そ ろそろ大人としての扱いをしてやったほうがいいのか、親の庇護の元で守ってや って方がいいのか、とても判断ができませんでした。先生ならそれが出来る。私 達は安心して送り出してやれる」
 どうか守ってやってくださいと父親に言われ、怜一は固く約束して帰っていっ た。
 昨日の出来事を思い出し、久志はもう一度ゆっくりとため息をついた。
 今朝の両親は、普段と何も変わらなかった。久志からもう一度聞くことはでき なくて、そのまま家を出てきた。
 題名からして難しそうなその分厚い本の表紙から目を離してわからないと首振 って立ち上がり、それを書架に戻し、図書室を出た。
 と、その足が止まる。
「先生……」
 図書室の出口で怜一が、壁に背を預けて立っていた。どうやら久志を待ってい たらしい。
「どうして……」
 久志は図書室に来ることを誰にも話していない。久志自身、ぽっかりあいた空 白の時間に、急に思いついてここを訪れたのだ。
 あの本を読んだばかりだからか、自分がここに来ることを怜一が計算していた のではないかと思いこんでしまった。母親も久志と怜一が再会することは予測で きていたと言ったし。
 ラプラスの魔を信じると言った怜一。そこに何かの計算が出来るのだろうか。
「あの意味を聞いてこなかったから、自分で調べるんじゃないかなと思っただけ だ。勿論、計算などできるわけがない。俺は久志をよく知っているつもりだから、 久志の行動を予測できたというだけだ」
 ポンポンと頭に手を置かれ、久志は怜一を見上げた。
「本当に信じているの?」
「あぁ、あれか。ちょうどいい、説明しなくちゃいけない相手もいるし、ついて 来い」
 怜一は久志を資料室へとつれてきた。
 中にはリッキーがいた。
『準備は出来たのか?』
 怜一が尋ねると、リッキーはちらりと久志を見て悔しそうに顔を歪めた。
「これから空港に送ってくる」
「空港……?」
『帰るよ。怜一に嫌われてまで、ここにいる理由はないから。だけど、俺たちは 諦めない。怜一は俺たちの研究に必要な仲間なんだ』
 久志はそれを聞いても、昨日までのようには胸が痛くならなかった。
 怜一が傍にいてくれると実感できる。怜一はどこにも行かないと約束してくれ たし、両親に向かって責任を取ると言ってくれたことも心理的に大きく働いてい る。
『さっさと諦めるんだな。俺は日本を離れない。あぁ、でも、久志がどこか外国 で働くというのなら、ついていくかもしれないがな』
 その言葉には久志の方が驚いてしまう。
『それじゃまるで、怜一はこいつの言いなりになるみたいじゃないか』
『リッキー、君は何のために数学の研究をしている?』
 突然の話題転換に、リッキーは口篭った。
『何のためだ? 君がしなくても、いずれ同じ研究は誰かがやり遂げるだろう』
『俺は……数学が好きで、未知の領域に踏み込むことが楽しくて、第一やりがい がある。誰かが見つけるよりも、俺が先んじて見つけたい』
 研究者らしい答えに、怜一は笑った。
『全部自分のためだな』
『違う。新しい理論が見つかれば、世界の役に立つ』
『世界ねぇ。それが本当に浸透する頃には、リッキーはこの世にいない』
『俺の名前は残る』
『ラプラスのように? 偉大な功績もあれば、後世で否定される理論も出てくる』
 同じ研究者でありながら、怜一は徹底してリッキーを言葉の魔力で貶めようと している。
『それを信じてると言ったじゃないか』
『信じているんじゃない。実践しただけだ』
『実践?』
『俺が君と出会ったのは俺の二度目の留学の時だった。俺はこの子に会うために 留学した』
 怜一の言葉にリッキーは眉を寄せる。
『その子は、日本にいたんだろう?』
『そうだ。一度の留学の前に出会って、俺が日本に戻った時には会えなくなって しまっていた。もう一度出会うために、俺は留学したんだ』
『その説明はおかしい。矛盾している。留学して離れてしまったのに、もう一度 留学するなんて。第一、その頃の彼はもっと幼かったはず……』
 そこまで言ってから、リッキーははっとした。愕然としたように目を見開いて 久志を見つめた。
『まさか……、まさか、あの話は本当だったのか?』
『俺はいつも言っていた。嘘でも冗談でもなく。日本に逢いたい人がいる。その 人と会うために必要な道を歩いている。これが終われば日本に帰って、高校の教 師になる。どこにも嘘はないだろう?』
『見つかるなんて……。だって、どこの誰かもわからないって……。その代わり を見つけただけじゃないのか?』
 怜一はふっと笑った。
『代わりで満足できるわけがないだろう? 一生の恋だ。この子を見失って、も う一度会うために、小さいこの子がこの高校に入るという言葉を信じて、俺は… …未来を予測し、ここで待っていた』
『そんな……不確かな』
『だから言っただろう? 俺はその未来に賭けた。ラプラスの魔を信じた。17 の俺は、26の俺に一つの道を繋いだ。その他の道なんてありえない。君と出会 ったのは、その道の途中だ。邪魔はされたくない』
『もう会えたんなら、……アメリカに一緒に……』
 怜一は笑って首を振った。
『案外気に入ってるんだよ。教師という仕事が。一生の仕事にしてもいいと思う くらいにはな。研究よりも俺に向いている』
 な? と振り向かれ、久志は小さく頷いた。
 生徒たちを乱暴に扱いながらも、彼の生徒に対する思いやりは暖かいのがよく わかる。生徒たちも彼をとても慕っている。
『一人で空港に行ける』
 リッキーは憮然としたように鞄を持ち、二人を押し分けるようにして部屋を出 て行った。
 やれやれと怜一は開いたままのドアを閉めた。
「いいんですか?」
「何が?」
「本当は研究をしたいんじゃ……」
「俺が部屋に閉じこもって、数式と睨めっこしている姿を想像してみろよ。…… できると思うか?」
 その姿を思い浮かべて……久志はクスッと笑った。とても似合わない。むしろ、 校庭で生徒たちとサッカーボールを追いかけているほうが似合う。
「やっと笑ったな」
 怜一はそっと壊れ物のように久志を抱きしめた。
 昨日はあんなに強く抱きしめてくれたのに、今日の怖々という態度が面白い。
「僕も、強くなりたい。先生に、依存してばかりの僕じゃ、……嫌だ。あの人み たいに、いざとなれば、遠い国にでも追いかけていけるくらいに、強くなりたい」
「お母さんの言ったことを気にしているのか?」
 怜一の胸の中で久志は首を振った。
「僕にもっと自信があれば、先生はあの人を僕から遠ざけようとして先生まで離 れていっちゃうようなことにはならなかったと、今ならわかる。あの時には、た だ悲しくて、不安ばかりで、自分で自分をだめにしちゃったから」
「強くなんてならなくていい。俺がいつでも守ってやる。お前一人くらい、全然 負担じゃないぞ」
「でも、自信を持てるようになりたい」
 それなら大丈夫と怜一は笑った。
「毎日、愛してるって言ってやる。そうしたら愛される自信がつくだろう?」
 そういうことじゃないのに……。
 そう思ったが、反論は怜一の唇に塞がれて、言えなくなってしまった。



おわり