資料室で数学を教えてもらい、残り少しの時間を膝の上に抱き上げられ、怜一 の鼓動を聞きながら、ゆっくりと話をしたおかげで、久志の精神状態も落ち着き を取り戻した。
 けれど、土曜日曜とどちらも全然怜一に会えなかった。
 リッキーが、リッキーと。
 怜一が繰り返すその名前を聞くたびに、心にちくちくと痛みが走る。その痛み はいつも同じではなく、だんだんと一回一回が強くなっていくような気がする。
 今までなら電話で怜一の声を聞けばリセットされていた痛みも、その効力は薄 れてきている。
 早くいなくなればいいのに。
 そんな嫌なことを考えてしまい、自分自身を嫌悪する。胸がむかむかして、あ まり食べられなくなってしまう。
 どうして自分はこんなに弱いのだろうと思ってしまう。
 ぐるぐると意味もないことで悩みを深くし、抜け出せなくてまたもがく。
 終わることのない悪循環にどっぷりつかってしまう。
 今までなら、言いたいことをいえなくても、その分甘えることで解消できた。
それに、何も言わなくとも、怜一が汲み取ってくれていた。
 その甘えのつけが一度に押し寄せてきたのかもしれない。
 そう思うと誰も責めることなどできなくなった。
 悪いのは怜一じゃない。リッキーでもない。
 自分だ。
 心にしっかり鍵をかけて、何も考えないようにしよう。リッキーが帰るまで。
 リッキーがアメリカに帰ったら、ちゃんと怜一と話をしよう。
 今まで甘えていたことを反省し、これからの二人のために、もっと自分で考え るようにならなくては。
 そこまで考えて、自分なりの決断をしたときに、その疑問は泥の中から浮かび 上がる泡のように、ゆっくりと浮かび出て、久志の目の前で弾けた。
 もしも、怜一が一緒にアメリカに行ってしまったら……?
 そんなことない。あるはずがない。
 必死で言い聞かせる言葉は、何よりも久志の心を傷つけた。

 月曜日の1時間目は担任の教科で始まるので、数学からだった。思えば、三年 間、数学で一週間が始まっている。
 クスッと笑った久志に、孝治がどうした?と目を向ける。
「中西君もだよね。三年間、数学で一週間が始まる」
 久志が言うと、孝治は今気がついたとばかりに叫んだ。
「げー、信じらんない。悪夢だぜ」
 本気で嫌がっている孝治に、久志はクスクス笑った。
「なんかいいことあった? 休みの日にデートしたとか?」
 久しぶりの久志の笑顔に、孝治も笑いながらからかう。
「ぜんぜん。どうして?」
 質問には質問を返せば、相手はそれ以上聞き難い。わかっていて聞くと、やは り孝治は「楽しそうだからさ」と答えて、深く追求しては来なかった。
「出席をとるぞー」
 怜一が教室に入ってきて、出席簿を広げる。朝の挨拶も無しだ。月曜日という のに。
 それでも皆は慣れたもので、自分の席について、名前を呼ばれると低い声で「お ー」とか「はーい」とか返事をしている。
 リッキーは怜一と一緒に教室に入ってくるが、教室の一番後ろに折りたたみの 椅子を運び、授業中ずっとおとなしく聞いている。
 日本語はわからないだろうと思うのだが、一番後ろの生徒は、間違っていると 英語で指摘されるという。
 数学の図式や数字に国境はない。問題の日本語は読めなくても、何を解かせた いのかはわかるのだろう。
 図式や数字だけでわかるというのは、それだけ彼が優秀である証なのだろう。
 ひとつの質問に四苦八苦している自分とは大違いである。
「ここ、また同じ勘違いをしている。それじゃあかなり遠回りで答えを間違える 可能性が高くなる」
 ひとつの質問で停滞していると、生徒の間を歩いていた怜一が、久志のノート を見て指差してヒントをくれる。
「あ……」
 先日教えてもらったばかりなのに、また同じように間違っていて、慌ててその 部分を消した。
「しっかりしろよ」
 軽く怜一が久志の頭を撫でていく。
 特に変な行為ではなかった。怜一にとっては無意識の行為で、久志も慣れてし まっていた。そしてクラスメイトもまた、その光景を見慣れていた。
 頭を撫でるのは久志に対してだけなのだが、怜一の他のスキンシップ……少々 手荒いスキンシップなら、皆も経験している。
 そして授業は何事もなく、済んだように思えた。

「Hi,Little boy」
 明るい声に、久志はぴくりと肩を震わせた。けれど、気づかないふりをする。
 リッキーは珍しく一人だった。
 一人で、久志に声をかけてきた。まるで久志が一人になるのを待っていたよう に。
『君だよ、リトルボーイ。英語がわからないなんて、嘘だろう?』
 リッキーは笑顔で話しかけてきた。
『君は英語が話せる。俺の言ってることもわかる』
 久志はわからないふりで通り過ぎようとした。
『待てよ。怜一のこと、どう思っているのか、聞かせて欲しいね』
 首を振って、逃げようとするが、腕を捕まれて引き止められる。
『怜一は俺にとって、とても大切な人なんだ。君が引き止めているとしたら、返 して欲しい』
 どうしてそんな風に言われないといけないのか。
 どうして「返して」と言われないといけないのか。
 返して欲しいのはこちらのほうだ。ずっとずっと我慢をしているのに。必死で 笑って、笑っていないと、心が壊れそうだから、無理して笑っているのに。
『一言、怜一に言ってくれよ。リッキーの代わりにされるのはもう嫌だって』
 その言葉に反応してしまった。
 リッキーの代わりって、どういう意味だろう。
『ほら、やっぱり英語がわかるじゃないか』
 しまったと思っても遅かった。それでも英語は話すまいと、閉じた唇に力をこ める。
『わかったんだよ。怜一はさ、誰にでも優しいし、オープンな性格だ。アメリカ でも皆に好かれていた。スキンシップも少々大袈裟で、日本人らしくないところ がある。そんな彼だけど、頭だけは誰も撫でなかった。俺を除いてはね』
 その指摘に久志は目を見開いた。リッキーに言われるまで気づかなかったが、 そう言われて思い返せば、怜一が他の生徒の頭を撫でるところは見たことがない。
 軽く叩いたり、肩を抱いたり、ぐりぐりと頬を小突いたりはして、痛い系のス キンシップで生徒たちは逃げながらも、怜一と親しく話をしている。
 けれど、教師と生徒、それ以上でもそれ以下でもなかった。久志以外は。
 そして、彼以外は……。
『その大きな目で怜一を誘惑したのかい? それも俺の代わりだと気がついて る? 怜一はさ、責任からか、この学年が終わるまではアメリカには行けないっ て言うんだ。それだと困るんだよ。俺自身も怜一が必要だけど、向こうの研究機 関も怜一の頭脳を欲しがっている。君も怜一の足を引っ張りたくはないだろう?  アメリカに戻れば、怜一は一流の研究者として、名誉もお金も手に入れられる。 そして俺もね』
 わかりたくない。
 この英語の意味など、わかりたくない。
 なのに、久志の気持ちを嘲笑うかのように、リッキーの言葉は頭の中で意味を 成していく。
 パキパキと心にひびが入っていくのを……久志は他人事のように感じていた。







 笑っていればいい。
 何も考えなくていい。
 笑っていればきっと楽しくなる。
『僕は先生を引き止めたりしない』
 日本語で言ってから、英語で言い直した。
 リッキーが疑わしそうな目で見返してくる。
『連れて行けばいい』
 嘘を重ねる口。けれど胸が嘘で痛むことはない。別の痛みだけで一杯だから。
『じゃあ、君から怜一にアメリカ行きを勧めてくれよ』
 どうしてそんなことまで。
『引き止めたりしないんだろう? その証明をして欲しいな』
『僕と先生は何の関係もない。だから、話すこともない』
 これ以上は話すまいと、口をぎゅっと閉じて、気持ちさえ振り払うようにリッ キーに背を向けて走った。
 彼が追いかけてくるとは思えなかったが、とにかく早く、少しでも遠くに離れ たかった。
 はーはーと息を弾ませて教室に戻ると、孝治が心配そうに話しかけてきた。
「どうかしたのか?」
「なんでもない」
 笑え。笑え。笑え。
 痛みを覆うほどの笑顔を作れば、きっと忘れられる。
「でも、ちょっと気分が……早退する」
 小刻みに震える手で鞄に教科書を、らしくなく乱暴に詰める久志に、孝治は心 配そうに顔を見た。
「大丈夫なのか? 怜ちゃんには言ったのか?」
「先生は関係ないよ!」
 ついきつく言い返してしまって、二人の間に気まずい空気が残る。
 仲のいい二人が珍しく言い合っているので、クラスメイトも何事かとこちらを 見ている。
「ごめん。でも、本当に気分が悪いんだ。……帰るね」
 まだ残っているものがあるかもしれないが、もう気にしていられずに、鞄を持 って教室を飛び出した。
 とにかく学校に残っていたくなかった。
 怜一やリッキーのいる場所から逃げ出したかった。

 帰りの電車の中で携帯が鳴り始めた。
 周りの視線を集めてしまい、久志は急いで携帯を取り出す。
 ディスプレイに表示されている怜一の名前を見て、久志は電源を切ってしまっ た。
『怜一はこの学年が終わるまではアメリカには行けないって言うんだ』
 来年の3月にはアメリカに行ってしまうのだろうか。
 もう未練などないのだろうか。
 久志のことは高校が終われば、それでさようならなのだろうか。
 信じたい。
 信じたいのに、どうしても不信が持ち上がってくる。
 家に帰りつくと母親が驚いた顔で出迎えた。
「どうしたの?」
 調子が悪いと申告すると、よほど酷い顔色をしていたのか、あっさりと信じて もらえた。大騒ぎでベッドへ追い立てられ、熱を測られる。
 考え過ぎていたせいか、少し熱があった。
 病院へ行くかと聞かれたが、それは首を振った。
 少し頭痛もしていたので、鎮痛解熱作用のある薬を飲んだ。
 そのまま眠りこんだ。

 階下から響いてくる妹の声で目が覚めた。
 喉が渇いたので、下へ降りると、母親がスポーツドリンクをコップに入れてく れた。
「先生からお電話を頂いたのよ。少し熱があるので休ませてますって言っておい たから」
「……うん、ありがとう」
 携帯の電源を切ったままだったことを思い出す。
「夕ご飯は食べられそう?」
「うん、たべる」
 いつもは切れ目なくしゃべる妹が、心配そうに久志を見てくるので、少しおか しくなってしまった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だよ。もう平気」
 それでもいつもよりずっとおとなしい妹と一緒に食事をして、自分の部屋へ引 き返す。
 携帯の電源を入れると、メールを受信した。
 メールは怜一からだった。
 表示された名前に、指先が震える。
 中を見るのが怖かった。
 それでも、力の入らない指でボタンを押してしまう。
>>大丈夫か?暖かくしてゆっくり休めよ。目が覚めて話せそうだったら電話し てくれ。
 何の変哲もないお見舞いのメールだった。
 電話はかけられなかった。
 声を聞けば泣いてしまう。泣いて縋ってしまう。
 行かないでと言ってしまう。
 だからもう少し。笑えるようになるまで。それまでそっとしておいて欲しい。

 結局、次の日も休んでしまった。
 携帯の電源も切ったままだ。
 日をおけば話しにくくなる。わかっているのに、いつもそうして引き伸ばして しまう。
 一日置いて学校へ行くと、廊下でばったりと怜一に出会ってしまう。
「もう大丈夫なのか?」
「……はい」
 笑え。笑え。笑わないと変に思われる。
「辛くなったら言えよ」
「はい」
 笑おうとした顔が引きつりそうになる。
「あのな、何かあるのなら……」
『怜一!』
 怜一の言葉に陽気な呼び声が重なる。
『怜一、昨日行ったレストランだけどな』
「昨日も一緒だったんだ」
 別に非難できることではない。なのに、それが笑えるほど辛かった。
「久志、あのな……」
『怜一!』
「呼んでますよ」
「久志、今夜時間取れるか?」
「まだ身体が本調子じゃないから」
「そうか……そうだな……」
『怜一、今夜は飲みにいくって約束だろう』
「それじゃあ、先生」
「あ、あぁ……」
 にっこり笑った久志に、怜一はかける声を失って、その背中を見送った。







 久志を捕まえることができない。
 教室に行けば久志はいるが、怜一と目を合わせないようにしているのを無理に 呼び出すことはできなかった。
 放課後に会いに行こうとすれば、リッキーが邪魔をする。最近は以前にも増し て怜一に張り付くようになった。
 家に帰って電話をかけようとするが、久志の携帯電話の電源は切られたままだ。 家に電話をかけるのはどうしても気後れしてしまう。
 ただの担任なら、沈んだ様子の教え子の家に電話をかけることは何の躊躇いも ない。けれどただの教師と生徒ではない。その自覚の方が大きい。
 それでも学校からの用事なら電話をかけられるが、今は久志のご機嫌を取りた いだけなのだ。
 未成年の、しかも教え子に手を出した罪は大きい。久志の母親への後ろめたさ から、電話をかけにくい。
 さて、どうやって久志と話をしようかと思い悩む。
 新学年が始まってからゆっくり話もできていない。
 それがこんなに苛立つこととは思いもしなかった。
 今までにも、久志から別れを持ち出され、離れていた期間もあった。そのとき はこんな風に苛立ちを感じなかった。あの期間は久志の心配をしていれば良かっ たのだ。
 外から久志の様子を伺い、体調を気遣い、自分にできないことは孝治を使って まで手を回した。
 久志が自分から離れていくはずがないという確信があった。いや、確信という より、自分たちの土台が揺るぐはずかないという、年月の重みを信じていた。
 けれど明らかに久志から避けられると、その理由が自分にあるとわかりすぎる ほどわかるだけに、余計に苛立ちは募る。
 リッキーがアメリカに帰るまでには、まだかなりの日数が残っている。いい加 減、なんでも自分でしろというのだが、この国は英語が通じないと言って、怜一 を引き回す。
 しかも、どうやらリッキーは久志と怜一が何かあると感じているらしい。
 久志の方からリッキーに近づくとは考え難いので、リッキーを久志に近づけな いようにしようとすれば、自分がリッキーの側にいるしかなくて、ますます久志 と接触を計れない。
 全然話もできないのに、どうしたわけか久志は怜一のこうした不機嫌を感じ取 っているらしく、授業中ですら視線が合わなくなってしまっている。
 リッキーにこそこの不機嫌を感じ取って欲しいと思う。そして少し遠慮という ものを持って欲しい。それがかなり無理な話なのであるが。
 アメリカからのしつこい誘いを適当に断っていた。そしてついにもたらされた 正式な要請を、怜一なりに誠意を持って辞退した。それで終わりだと思っていた ら、直接交渉人がやってきた。怜一にとっては、最悪な人選で。
 向こうもリッキーなら絶対説得してくれるという期待があるのだろうが、さっ さと諦めて帰って欲しいところである。
 何度も、リッキーにもかなりきつく、数度にわたって絶対アメリカには戻らな いと断言したのだが、リッキーはまだ諦め切れていないようである。
 このままでは自分の方が切れてしまいそうである。
 いっそ切れたほうが楽にリッキーを帰らせることができるかもと、甘い空想を 描いてしまう。
 その後の混乱……リッキーが久志に害を与えるとか、学校にばらされるとか… …を考えると、何とか思い止まっているのだが。
 とにかく、久志と会いたい。
 この苛立つ気持ちを、久志を抱きしめて忘れてしまいたい。
 それがだめなら、先生と呼びかけて笑って欲しい。せめてそれだけでもと思う ほど、怜一は追い詰められていた。

「あのさ、これ」
 孝治が苦笑しながら、久志に折りたたんだ紙を渡した。
「何?」
 久志は不思議そうに孝治とその紙を見比べる。何か言いたいことがあれば言え ばいいのにという目である。
 孝治がそんな回りくどいことをするとは思えず、手を伸ばすのを考えてしまう。
「預かってきたんだ。とにかく受け取ってくれよ。な?」
 預かってきたという言葉に、その相手が思い浮かぶ。そうすると、ますます受 け取り辛くなってしまう。
 受け取ってしまえば、書かれてあることを無視するわけにはいかなくなる。
 それに読むのが怖い。
 そこにアメリカに行くと書かれていたなら、どうしようもなくなるという気持 ちが沸き起こる。
「受け取ってくれないと、今ここで大きな声で読むぞ」
「そ、そんな」
 泣き出しそうになった大きな目に、孝治はこの手紙を預けた人物をおおいに恨 んだ。この貸しは大きい。小遣いのピンチには泣きついてやると決意する。
「とにかく受け取ってくれよ。中に書いてあることが嫌なら、俺から断ってやる からさ」
 そこまで言われて断るわけにもいかず、久志は紙を受け取った。
 怖々開いてみる。
 白い紙に、怜一の文字が見えた。
『今夜、部屋で待ってる』
 あまりにも短い文章。
 何を話したいとかは書かれていない。それどころか、何時に来いとかもない。
 合鍵は持っているので、困りはしないが、行かなければ怜一はいつまでも待っ ているのだろうか。
「メッセンジャーは必要か?」
 何が書いてあるのかは詮索せず、伝言はあるのかと気遣ってくれる孝治に首を 振った。
「ううん、ありがとう。返事は必要ないから」
 行こうと決めていた。
 怜一から何か言ってくれるのなら、それを受け止めるほうがいい。
 誰かに……リッキーに言われたことを信じかねて、怜一を疑っていたくない。
 受け止められないことでも、怜一に言われたのなら諦められると思った。
「大丈夫だって。怜ちゃん、教師を辞めたりしないよ」
 何かを感じ取っているのか、孝治も力づけてくれた。
「いいんだ……先生の答えがどっちでも」
「どっちでもって……そんな風に言うなよ」
 じれったそうに言う孝治に、久志は力なく笑った。
 笑っていれば、大丈夫。
 笑えるうちは大丈夫。
「僕が平気にならないから、先生も困るんだよね」
 幼い頃のように、怜一に両手を差し出して抱き上げてもらうのでは駄目だ。
 言っちゃ嫌だというのでは駄目だ。
 離れてしまうことが、気持ちまで離れてしまうのではない。それを自分たちは 長い年月をかけて証明したではないか。
 だから今度も大丈夫。
 自分に言い聞かせる。
 今更、他の誰も好きになんてなれない。
 怜一しかいない。
 頭を撫でて、抱き上げてくれたあの大きな手の持ち主しか……。

 マンションまで電車に乗って歩いて行った。
 怜一はまだ学校にいる時間だ。
 マンションが見えてくると、ひさしはキーホルダーを取り出した。
 ウルトラマンのキーホルダーに、怜一の部屋の鍵がついている。
 それを握りしめるようにしてエレベーターに乗った。
 ドアが開いて廊下に出ようとしたところで、乗り込んでくる人とすれ違う。
 脇に寄るように外へ出ようとして腕を掴まれた。そのまま、またエレベーター に押し込められる。
 驚いて声を上げようとした久志は、その人を見て息をのんだ。
 何故、ここに。
『怜一はいないよ。君に話があるのは、俺なんだから』
 足が震えた。
 エレベーターが下がっているのか、自分の身体が貧血を起こしているのか、わ からない……。
 ぐらりと箱が揺れたような気がして、久志はずるずると床に座り込んだ。



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