One Way

 

 

初出 ; Vol.108〜117

 

 




 新学年の朝は緊張を孕んでいる。
 高校の3年生ともなれば、この学年が人生で最後のクラスメイトという気もし てくるから不思議だ。
 ほぼ全校生徒が大学へと進学するこの館旗高校でも、始業式の朝は、3年生で も緊張を胸にいっぱいにして登校する生徒がほとんどである。
 その中に杉田久志もいた。
 結局、身長は高校に入っても期待するほど伸びはしなかった。もしかすると学 年で一番小さいかもしれない。
 幼かった容姿も、少しは頬の丸みが取れてきたが、まだどこか少年期のあどけ なさを感じさせる。それは大きな目が印象を変えないせいかもしれない。
 あまりに大きな瞳は、どうしても年よりも若く見せてしまうものだ。
 それでも時折、その大きな目に微かな翳りのようなものが加わり、見ている者 をドキッとさせる。その影が久志をその時だけ、ひどく大人びて見せるからだっ た。
 元々他の生徒のように大きな笑い声をたてたり、騒がない性格のために、薄い 印象を与えがちだが、ほんの少し見せる笑顔が、とても大人びていたり、反対に 子供っぽく見えたりと、見るものを戸惑わせる。
 その印象の不安定さに、いろいろな想像を呼んだりもするのだが、本人はいた って謙虚で、控えめなので、悪い噂は沸き起こらない。いつしか学園の隠された 宝のように噂されていると知るのは、この3年間、ずっと一緒のクラスになって しまった中西孝治だけかもしれない。
「よっ、おはよっ。また同じクラスだって。よろしくな」
 孝治はクラス発表の貼り出しを不安げな顔で見上げる久志に声をかけた。
 久志は声をかけられたことで驚いて振り返る。まず、その大きな目が印象的だ。 それ以外が目に入らなくなる。
 孝治は苦笑いを隠して、ほらほらと1組のクラス表を指差した。
「中西君、理数国立系じゃなかったの?」
 久志はその紙を見上げて、眩しそうに目を細める。
「1組は混合クラス。授業を分けると自然と少人数体勢の出来上がりで、都合が いいんだろう?」
 1組の担任の名前に目を止めて、孝治はいよいよたまんないねと、今度は苦笑 を隠さなかった。
 担任、中西怜一。
 それって公私混同も甚だしいんじゃないの?と思いつつ、それでも怜一がこの 久志を手許から離せない理由も、気持ちもわかる孝治は、敢えてそれには触れな いことにした。
 結局、今までと同じように、この二人に何かがあったときには、久志のフォロ ーに入れということなのだろう。
 甥よりも恋人が可愛いのは、そう、もう12年も前から変わらないのである。 「教室、入ろうぜ。後ろ、とっちまおう」
 久志の返事も聞かないまま、孝治はさっさと歩き始める。お互い3年目。怜一 が出席番号順に並べなどと、堅苦しいことを言わないのを見越しての言動である。

 一人で教室にやってくると思っていた怜一は、一人の外国人青年を伴っていた。
 始業式早々、教室内はざわつく。
「静かに」
 らしくなく、苛立った調子で怜一が発言したので、教室内は一気に静まり返っ た。
「アメリカの提携大学から、講師で来られたリッキー・マクフライド氏だ。数学 の授業を研修するために来ている。たまには英語で数学の授業を受けてみるか?」
 怜一の冗談に、生徒たちはグワーとかエエーとか妙な声で応戦する。
「リッキー、自己紹介を」
 怜一が親しそうにリッキーに話しかけた。その様子に、久志はなぜか小さな曇 りを感じてしまう。そんな風に思うのは敏感すぎるだろうか。
「Hi! everybody」
 リッキーはにっこりと笑顔で話し始める。
 栗色の柔らかそうな髪と、深い青い瞳。鼻梁は高く、目が大きくて、紹介され た年よりはずいぶん若く見える。言われなければ、自分たちと同じ、高校生と思 ったかもしれない。
 早口の英語は生徒たちを圧倒しているが、本人はそれに気づいていないようで、 にこにこと笑う笑顔は、親しみに満ちている。
「リッキー、ストップ!」
 あまりに生徒たちが目を白黒とさせているので、怜一がリッキーの話を止めた。
「Why?」
「Everyone doesn’t understand your En glish.」
 怜一の簡単な説明にも、リッキーは何故だと繰り返した。それに対して、日本 の高校生はヒアリングが苦手なのだと話している。
 リッキーはそれに対してもオーバーアクションで驚き、そして怜一は高校生の 頃でも英語が話せたじゃないかと言っている。
 完全に彼は、教室内の生徒のことは忘れているらしかった。
「とりあえず、みんなも生きた英語を学べる機会だと思って、積極的に話しかけ て、わからないことは何度でも聞くように」
 たまに教師らしいことを言って、怜一はリッキーにも、生徒にはゆっくりはっ きり発音するようにと説明している。
 二人の話す親密な様子に、久志は心の中に小波が立つ。気にしすぎだと思おう としても、その不安は少しもおさまってくれそうにない。
「で、いつまで日本にいるんだ?」
 怜一の質問に、リッキーはまたも早口で答えた。
「向こうの新学期が始まる9月までだそうだ」
 怜一は笑ってそう言ったが、久志は聞き取れてしまった早口の英語に耳を塞ぎ たい気分だった。
 わからなければよかった。
 英語なんて、勉強しなければよかった。
 そうすれば、今、こんな暗い気持ちにならずにすんだのにと思ってしまう。
 リッキーはとても嬉しそうに言ったのだった。
『君がアメリカに帰るって言うまでだよ』







 始業式が終わると、クラスメイトたちはそれぞれに帰る支度を始める。
 5月から6月くらいまではクラブを続けるものが多いので、それぞれに荷物を 持って出て行く。昼ご飯をどこで食べるのか、話し合っている者もいる。
 ざわざわと落ち着かない教室で、久志はこっそり重い溜め息をこぼした。
「どうした? 帰らないのか?」
 ぽつんと座ったままの久志に、孝治が話しかけてきた。
「う……ん」
 本当は怜一と約束をしていた。怜一はこのあと職員会議があるので、昼食を資 料室で一緒に食べて、久志は先に怜一のマンションに行く。夕食をどこかで食べ て、ドライブでも……と予定を立てている。
 けれど、昨日の電話では、研修の講師の話など怜一はしなかった。
 今朝突然に講師が来るとは思いにくい。
 しかも相手は怜一ととても親しそうで、昨日怜一が知らなかったとは思えない。
 どうして教えてくれなかったのか、それが心に棘のように引っかかっている。
「一緒に昼飯、食いに行く? 俺、クラブがあるから、学食に行こうと思ってた んだけど」
「……でも」
「怜ちゃんと約束してるのか?」
 はっきりしない久志に、それでも孝治は根気よく尋ねてくれる。
「そう……だけど……。中西君、あの講師の人、知ってる?」
「あ? さっき怜ちゃんが連れてきたアメリカ人?」
 久志が頷くと、孝治は全然と首を横に振った。
「でも、中西先生、親しそうだったよね?」
「そうか? 怜ちゃんは誰にでもあんな風だぞ。気にすんなって。な? 昼飯、 食いにいこうぜ」
 多少強引に孝治は久志の腕を掴んだ。ガタガタと椅子を鳴らせて立ち上がり、 孝治に渡された自分の鞄を両手に抱える。
「えっと……先生に言ってくる。学食で食べるって」
 もしかしたら孝治の言うように、自分の気にしすぎかもしれない。あの人が傍 にいなければ、こんな不安なんて、要らぬ心配だったと笑えるようなことかもし れない。
「だったら、先に行って席を取っといてやるよ。何食べる?」
 オムライスを頼んで、久志は資料室へと走った。
 3年生の教室は2階にあって、資料室は別棟の3階になる。
 渡り廊下を渡り、久志は階段を駆け上がる。
 あまりに急いだので、資料室に着いたときには息が切れて、ぜいぜいと喉が鳴 るほどだった。
 資料室のドアに手をかけて開けようとした時、中から楽しそうな笑い声が聞こ えて、久志は手を止めた。
 その陽気な声に、せっかく立て直した気持ちが、またも沈みそうになる。
 話し声までは聞こえない。けれど、弾けたような楽しそうな笑い声が、間断な く聞こえてくる。
 どうしよう……と久志はドアの前に立ったまま、荒い息を繰り返した。
 中にいるのは怜一とあのリッキーという講師だろう。
 怜一以外の教師が、この資料室に来るとは思えなかった。資料室となっていて も、実質は物置と化しており、怜一が仕事を持ち込んで私物化していることは、 他の教師も知っているのだ。
 そして……。久志はこの学校の中で、この資料室が一番居心地のいい部屋にな っている。
 喧嘩したり、仲直りしたり、勉強を教えてもらったり、時間を忘れて話をした り。
 怜一との時間の多くをこの部屋で、二人は共有しているのだ。
 だからと言って、この部屋が二人のものだとは、久志も思ってはいない。他の 教師が使ってもいい。ここは資料室で、古い資料が確かに置かれているのだから。
 けれど、怜一が彼を連れて入っているということが、久志には泣きたくなるほ ど、辛いことのように感じられた。
 できることなら、それはして欲しくなかったと思ってしまう。
 そしてすぐにそんなことを思ってしまう自分がとても醜く感じられた。
 久志は足音を立てないように、一歩、また一歩とさがって、廊下を曲がった。
 鞄の中から携帯電話を取り出し、怜一あてにメールを送る。
『ごめんなさい。中西君に誘われて、一緒にお昼を食べることになりました。食 べたらマンションに行っててもいい?』
 送信を済ませて、久志は階段を駆け下りた。食堂まで走ると、また息が切れて 苦しくなる。
 この息苦しさは、走ったせいだと自分を誤魔化して、食堂の中に孝治を探す。
「こっち!」
 孝治が立って手を振ってくれたので、ほっとして席に着いた。
「ごめんね。これ、お金」
 テーブルの上にオムライスの料金を置いたところへ、メールの着信音が鳴った。
「電話、出ていいぞ」
 メールの着信を電話と勘違いして、孝治が言う。久志は小さく笑って、メール だよと携帯を開いた。
 メールは予想したとおり怜一からだった。
『悪い。今夜はリッキーの下宿の片づけを手伝うことになってしまったんだ。そ のあとで飲みに行くことになったから、遅くなる。何時になるかわからないから、 約束は次にしてくれ。今度埋め合わせをする』
 メールの中の名前に、久志は唇を噛んだ。
 なんだ、そうなんだ。
 仕方ない。仕方ない。
 何度もそう思おうとする。
 けれど怜一が自分との約束より、何かを優先するということが今までなかった ので、ショックは隠し切れないほどに大きかった。
「何? 悪い知らせか?」
 孝治が顔色が悪くなった久志を、心配そうに覗き込んだ。
「なんでもない……」
「なんでもないって、お前……」
 久志がこんな風になるなんて、怜一のこと以外に考えられないとわかるのだが、 それでも怜一がそんなことをするとも思えない。
 なにしろ、叔父としての怜一は、甥の孝治よりも、ずっとずっと久志を大切に してきた。もう、何年も前から。孝治が久志を知る、ずっとずっと前から。
「急に予定があいちゃっただけだよ。これを食べたら帰る」
 とても食欲は沸きそうになかったが、久志は無理にも笑って、スプーンを手に とった。
 久志がこんな笑い方をするとき。それは二人の危険信号だ。
 どうして怜一は……。そこまで考えて、孝治は頭を振った。
 きっと大丈夫。この二人は。どんなことも乗り越える。そう信じることにした。
 不安を振り払うように孝治も割り箸を割った。







 埋め合わせをすると言った怜一だったが、新学年が始まって忙しいのか、なか なか二人だけの時間を持つことは難しくなっていた。
 それに校内では怜一に付きまとうようにリッキーがいて、話しかけるタイミン グも少なくなってしまった。
 結局、ほとんど会話もないまま、一日が過ぎることもあった。
 夜に電話がかかってくるが、優しい声を聞くと、わがままは言い出せなくなる。
 3年生になって、生徒ももちろんだが、教師たちも大学入試に向けて緊張して くる。
 それにまつわる会議も多く、今からもう受験体制に入ってしまったようなもの だ。館旗の生徒はほぼ100%進学するので、学年をあげてピリピリしはじめる。
 久志も他人事ではないのだが、久志は地元の英語系の大学と決めていて、成績 も今のまま維持できれば、合格も間違いないだろうといわれている。だからあま り焦った気持ちもない。
 勉強を疎かにするつもりはないが、気持ちが不安定だと、余計なことを色々考 えてしまう。授業も集中しなければと思う時点で、集中できていないということ に気づいていない。
「今日の授業、わかったのか?」
 電話を通して、響いてくる怜一の少し低い甘い声。
 けれど話の内容は久志の痛いところをついてくる。
「ちょっとわからなかった……」
「仕方ないなぁ」
 仕方ないと言いながら、低く笑う声。
 その声にドキッとする。
 優しい腕の中で聞く、その笑い声が好きだった。
「明日の放課後、資料室にこいよ」
「いいの?!」
 つい、声が弾んでしまう。
「こらこら、ちゃんと勉強もするんだぞ」
 怜一の笑い声に、久志もわかってると笑い返す。
「でも、あの先生、……来ない?」
 つい心配になって聞いてしまう。いつも怜一と一緒にいる明るい青年。
「リッキーのことか?」
「……うん」
「あいつは明日、昼から研修に大学に行くから、いないんだ」
「……そうなんだ」
 なんだ、そうなんだ。
 あの人がいないから、自分の居場所ができたんだ。
 久志の沈んだ様子に気づくことなく、怜一はお休みと言って電話を切った。
 あの人は誰?
 どんな知り合い?
 あの人と一緒にアメリカに帰るの?
 そのどれも聞くことはできなかった。
 自分の知らない怜一。その時間はとても長い。
 だから、自分の知らない怜一がいっぱいいる。それを受け入れなくてはならな いのはわかっているが、とても難しい作業だった。
「出逢ったのは僕のほうが早かったのに」
 早い者勝ちではない。けれど、自分たちの場合、早い者勝ちな感覚がある
 お互いに恋という意識すらない出逢い方をし、もう一度逢うためだけに歩いて きた。
 二人の道がようやく重なったのだ。
 いまさら別の道なんて、考えたくない……。

 学校でのリッキーは、その明るい性格でたちまち人気者になった。
 誰にも遠慮することなく英語で話しかけ、生徒に日本語で話しかけられても臆 することなく、電子辞書を通した不思議な会話を繰り広げている。
 怜一と一緒にいるので、久志のクラスと生徒たちとは特に仲がいい。
 久志が新しいクラスメイトに馴染むよりずっと打ち解けているように見えた。
 そんな久志は、リッキーの最初の言葉がどうしても忘れられずに、自分から話 しかけることはできずにいた。
 むしろリッキーを避けているといった方が適切かもしれない。
「あいつさ、怜ちゃんの向こうの下宿で一緒だったらしい。怜ちゃんがやってた 研究を引き継いでやってるってさ」
 孝治の情報に、久志はふーんと気のない返事をする。
 知りたくないという気持ちが強い。知ってしまえば、何かが変わるような気が する。例えば、怜一がいなくなるとか……。
 そんなことを考えて、久志は首を左右に振った。
「滞在は一ヶ月だけの予定らしいぞ」
「それ、中西先生に聞いたの?」
「まぁな。ほら、あいつ、言っただろう? 怜ちゃんを連れ戻すとか。どういう ことかなと思って」
 孝治もあの英語は聞き取れていたのだ。
「どうも向こうでの研究がうまくいってないらしい」
 聞かせないで。
 久志は耳を塞ぎたい気分だった。
「大丈夫だよ。怜ちゃんだって、こっちに仕事があるんだから」
「……うん」
 曖昧に笑う。笑っていないと、泣きそうだった。
『どっちが怜一の甥なんだ?』
 突然割り込んできた英語に、久志はびくりと身体を震わせた。
「おれー」
 孝治はにかっと笑って手を上げる。
 久志は英語がわからないふりをして俯いた。
『怜一のお母さんに会いたいな。豪傑なんだって?』
 リッキーの言葉に孝治は噴出した。
『ばあさんはアメリカ人が嫌いだよ。それでも会うかい?』
 孝治の突っ込みにリッキーは両手を上げて、アメリカ人らしいリアクションを する。
『でも、帰国までには挨拶したいな。よろしく伝えてくれ』
『OK』
 ふと視線を感じて、久志は顔を上げた。リッキーが久志をじっと見ていた。
『彼は英語は?』
『少しだけ。シャイなんだ。人見知りするし、打ち解けるには時間が必要だよ』
 孝治のフォローに、リッキーはにっこり笑って、「よろしく」と覚えたての日本 語を話す。
 頷くように俯いて、久志は顔を隠した。
 見ていたくない。見られたくない。
 この人は……怜一を連れて行ってしまう。自分の知らない遠くのところへ。
『また話そう』
 リッキーは気にすることもなく、孝治と会話をして離れていった。
「……ごめんね」
「無理するなよ」
 ぽんと頭に置かれた手が、怜一を思い出させて、久志は胸が痛くなった。

「先生っ」
 資料室に入るとほっとする。
 ぶつかるように怜一の胸に飛び込むと、優しく抱きしめられる。それだけでと ても安心できる。
「こーら。勉強にきたんだろう」
 そう言いながらも、怜一は久志を抱きしめる手に力をこめる。
「今度の日曜日にリッキーを秋葉原に連れて行くことになったんだ。へーも行く か?」
 心地好い胸の中で目を閉じていると、その甘い感覚を引き裂くような怜一の言 葉が聞こえた。
 今度の日曜……。時間があるのなら、先日の埋め合わせをして欲しい。
 一緒に過ごせなかった時間を取り戻したい。
 そっと怜一の胸から離れた。
「妹と出かける……から」
 だから行けない。
 無理矢理に用事のあるふりをして、久志は首を横に振った。
 どうか気がついて。
 以前の怜一ならすぐにわかってくれた久志の変化。けれど、怜一は「残念だな」 と言って、久志の頭を撫でただけだった。



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