スペインの、ある日本人闘牛士の記録 その1

(下山敦弘さんの事)

−−−闘牛を始めるまで−−−

出会う前

por 斎藤祐司

99年9月13日

 下山さんは、埼玉で食堂を営む両親のもとで生まれ育った。だからだろうか味にはうるさいようだ。一緒に食事していてもそんなに不味いものでもないのに食べずにいるときがある。聞くと、「美味しくない」という。食べなきゃ体に良くないと思うのだが、本人は平気なようだ。その代わり美味しい物だと直ぐに食べてしまう。

 僕と違う物を注文して、下山さんが食が進まず心配して、「これ、ちょっと食べてみたら」とすすめると、「良いですか」と言って食べはじめる。美味しければ2人で競争のようにしてアッという間に食べてしまう。聞くと、「美味しいから」という。極端と言えば極端だ。でも、病人なのだから好きにした方が良いと思う。いや、病人じゃなくとも人生は好きに生きた方が良いと、言った方が正しい。

 闘牛を始めるきっかけは、映画 『血と砂』 を見たためだ。金と女と名誉。それら全てが手に入るもの。それが闘牛だからだ。単身スペインに渡り本場セビージャに居を構える。セビージャの闘牛学校に通おうと思って申し込みに行ったが、年齢制限のために入学できなかった。

 何処かないものかと捜しているとセビージャ近郊の、アルカラ・デ・グアダイラの闘牛学校に入学できた。そこで、地元の子供達に混じって、元バンデリジェーロの先生から基本的なことを学ぶ。だがそれで、充分だった分けじゃない。

 「全ての闘牛ファンは、闘牛の技術を愛している」と、言ったのはコロンビア人闘牛士のセサル・リンコンだ。闘牛技術は非常に重要なものだ。勇気がある奴はいくらでもいる。無鉄砲なだけの奴も・・・。しかし、技術を伴った勇気がなければ観客を感動させることは出来ない。

 日本人が、『血と砂』と言う映画を観て闘牛士を目指している、と言う新聞の記事を読んで、「自分と同じ映画を観て闘牛士になりたがっている。会ってみよう。」そう思ったのは、ヘミングウェイの本にも出てくるアメリカ人闘牛士で画家でもある、ジョン・フルトンだった。

 下山さんに会ったジョンは闘牛士としての才能を認め、アルカラ・デ・グアダイラの闘牛学校を辞めさせて、闘牛士の元に預けて基本から鍛え上げた。地方の闘牛学校にはなかなか良い教授がいないからだ。みるみる腕を上げていった下山さんは、ジョンのコネなどでフィンカ(牧場)に行って牛を相手にティエンタをする。多くのガナデロに気に入られた。

 ジョンがアポデラードになってノビジェーロのピカを刺さない牛を相手にデビューする。正闘牛士になるまでには何千万も金がかかる。それを、ジョンは引き受けてくれたのどろうか?この辺の詳しいことは話を聞いてないので判らない。が、夢と希望を胸に膨らませて闘牛士への道を歩み始める。

 ジョンがいなかったら下山さんは闘牛士への道を正しく歩めたかどうか判らない。それほど重要な出会いだった。


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