por斎藤祐司
1953年12月23日カルタヘナ生まれ。本名、ホセ・イグナシオ・オルテガ・カノ。
始めての闘牛。1972年7月15日。
ノビジャーダ・コン・ピカーダ(見習い闘牛士)、デビュー。1973年9月9日ビスタ・アレグレ。19歳。
トマール・デ・アルテルナティーバ(正闘牛士認定式)
1974年10月12日、サラゴサ。パドゥリーノ、ホセ・マリア・マンサナレス。テスティーゴ、パコ・バウティスタ。
コンフィルマシオン・デ・アルテルナティーバ(正闘牛士確認式)
1978年5月14日。パドゥリーノ、アントニオ・ロハス。テスティーゴ、ロレンソ・マヌエル・ビジャルタ。
マドリード、ラス・ベンタス闘牛場。出場60回。耳18枚。プエルタ・グランデ4回。
−−−ラス・ベンタス闘牛場「プログラム」より−−−
1991年6月6日、マドリード、ラス・ベンタス闘牛場で、セサル・リンコンとやったマノ・ア・マノ(一対一の闘牛)は、凄かった。あの日のことが忘れられずに闘牛を見続けていると言っても過言ではない。
何も分からずに行った、91年のサン・イシドロ。闘牛場の切符を買うための長い列の中で知り合った日本人が「オルテガ・カノは芸術やでぇ」と言っていた。本当かなと思って観たオルテガ・カノは、彼女が言うように最も芸術的だった。
カポーテが上手い、ムレタが上手い。こんな闘牛士がいるんだな、と驚いたことを覚えている。当時のアフィショナード(闘牛ファン)は、エスパルタコ(7年連続NO1闘牛士だった)よりオルテガ・カノの方が上だと思っていたのだと思う。
今でも思い出すのが、92年に行ったアルメリアの闘牛場でのことだ。ソル席(日向席)コントラ・バレラ(前から2列目)に座っていると隣には地元の闘牛ファンの家族が5,6人で見に来ていた。隣に座ったのが17,8の女の子だった。髪の毛が金髪と茶髪の間のような色だった。競走馬で言えば尾花栗毛だ。他の家族はみんなバレラにいたが、左足か右足にギブスをしていたので足の伸ばせるコントラ・バレラに座っていた。
元気のいい子で、闘牛の話をしきりに話してきた。彼女は「今日は出ていないけど、オルテガ・カノが一番良い闘牛士よ」と、言っていた。若いから多分、前にいるじいさんに小さい頃から闘牛場に連れてきてもらっていた成果なのだろう。闘牛を良く分かっているなぁと、感心したものだった。
スペインの、地方にいる闘牛ファンはこんな風に代々闘牛の見方を教わって行くのかも知れない。
カポーテの華麗さは、恐らくヘミングウェイが生きていたら虜にしたことだろう。やる気満々で、牛を怖がることなくムレタを振っていたオルテガ・カノも、93年だったと思うけど、コロンビアで大怪我をしてからさっぱり駄目になった。
あの時の怪我は非道かった。背中から入った角がもう少しで心臓にまで達するか、というものだった。婚約者の有名歌手“ロシオ・フラド”がすぐにコロンビアに駆けつけて看病にあたった。
97年約半年スペインにいて闘牛を見たが、オルテガ・カノを見に行ったのは、フランスのニームだけだった。後はTVで観たけど???だった。
98年のサン・イシドロ祭で2回観た。セビージャでハンディージャ牧場の牛でプエルタ・グランデをしたのが最後の蝋燭の火だったのかも知れない。ビデオを見せてくれた下山敦弘さんは、オルテガ・カノは長年やっているけどセビージャで始めてのプエルタ・グランデだと、言っていた。
そのオルテガ・カノは今年引退する。フェリア・デ・オトニョ(秋祭り)に出場し、マドリードの最後をウニコ・エスパーダで飾る。いや、飾れるかどうかは分からないが?
とにかく、闘牛ファンをを沢山楽しませてくれた大闘牛士だ。最後は、花を持たせたいなぁ。
マドリードにいたら、いやマドリードに行って最後を観たいな。駄目でも僕は「トレロ、トレロ」と、叫んで上げたい気持ちだ。
オルテガ・カノ様。あなたに闘牛の本当の部分を教えてもらいました。本当にありがとうございました。
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