マヌエル・カバジェーロ(Manuel Caballero)

por斎藤祐司

 

 1971年1月29日アルバセーテ生まれ。本名、マヌエル・カバジェーロ・マルティネス。

アルバセーテ闘牛学校出身。

始めての闘牛。1982年7月1日エルバス。11歳。

ノビジャーダ・コン・ピカーダ(見習い闘牛士)、デビュー。1988年3月6日、オスナ。17歳。

トマール・デ・アルテルナティーバ(正闘牛士認定式) 

  1991年9月29日フランスのニーム。20歳。パドゥリーノ、ダマソ・ゴンサレス。テスティーゴ、ヘスリン・デ・ウブリケ。

コンフィルマシオン・デ・アルテルナティーバ(正闘牛士確認式)

  1992年5月19日。21歳。パドゥリーノ、ホセ・マリア・マンサナレス。テスティーゴ、ロベルト・ドミンゲス。

マドリード、ラス・ベンタス闘牛場。出場22回。耳7枚。プエルタ・グランデ2回。

−−−ラス・ベンタス闘牛場「プログラム」より−−−

 

 彼の生い立ちなど詳しくは知らない。幼くして闘牛士を目指し、アルテルナティーバは、地元アルバセーテの大闘牛士「ダマソ・ゴンサレスじゃなきゃやらない」と言ってパドゥリーノになってもらう。

 当時、ダマソ・ゴンサレスは引退していたから、わざわざ引っぱり出して行われた。

 ダマソ・ゴンサレスは、NO1闘牛士にもなったことのあるアルバセーテの英雄だ。牛から逃げないファエナは、アフィショナード(闘牛ファン)の心を掴んだ。クルサード(角と角の間に体を入れて牛を誘うこと)の時に、真正面に立って、骨盤が左右の角先と平行になって、誘う姿はまさに、命懸け。味のある、玄人好みの闘牛士だった。

 マヌエルは、アルバセーテでそんなダマソを見て育ったのかも知れない。アルテルナティーバのパドゥリーノを、ダマソにやってもらった事は、思えばマヌエルの支えになって、今を築いたのだろう。

 ノビジェーロ(見習い闘牛士)の時にスペイン中の闘牛場のプエルタ・グランデを開けた男は、97年マドリードのフェリア・デ・オトーニョ(秋祭り)で始めてラス・ベンタス闘牛場のプエルタ・グランデを開ける。トレロ(闘牛士)になって5回目の秋だった。

 相手にした牛は、あのビクトリーノ・マルティン牧場。その日2頭目の牛は場内一周をする位良い牛だった。

 マヌエルの、やる気、カポーテやムレタ捌きの見事さ、牛に対する知識の凄さ、闘牛の作り方の旨さは、生まれながらの闘牛士の様に見える。

 98年マドリード。サン・イシドロでは、マヌエルのやる気がそのまま出ていた。

 5月15日、マヌエルと、リベラ・オルドニェス、ホセ・トマスの3人。小雨の中で闘牛が始まった。マヌエルのファエナの時にどしゃ降りの雨に変わった。服が濡れ、髪から滴が沢山落ち、雨を吸ったムレタを何回も代えて牛をパセしていた。オルドニェス、ホセ・トマスが、終わり一回りしたとき、3人はアレナで相談をした。闘牛を続けるかどうかを。

 権限は、闘牛を取り仕切るプレシデンテ(会長)でも、興行主でもなく、闘牛士にある。そして、1番初めにアルテルナティーバを受けた闘牛士がやると言えばそれに従わなければならないのが闘牛の仕組みになっている。つまり、マヌエルが首を縦に振れば闘牛は続けられる。

 3人が相談を始めると観客は口笛を吹いて中止にするなと、アピールした。雨はやむ気配はなく、アレナは水浸しになっていた。こんなコンディションではやらないのが普通だ。だが、闘牛は続けられた。アフィショナード(闘牛ファン)は、マヌエル・カバジェーロじゃなかったら中止になっていただろうと囁いたものだった。

 マヌエルは、田んぼの様になったアレナ中でその日4頭目の牛を向かえてベロニカをやった。牛の動きが良く、これなら耳が取れるんじゃないかなと思っていたら、ピカ(槍)を刺したら牛が駄目になった。動かない。残念だが耳は取れなかったが、アフィショナードに強烈な印象を与えた。

 6月5日。ビクトリーノ・マルティン牧場の牛を相手にやったファエナは泣けた。どうしてと、聞かないで欲しい。だって、目の前で泣いている自分の彼女に理由を聞かないのと一緒でしょ。そこは黙って「そう言うもんか」と、思って欲しいのだ。

 その時、隣の席に座っていたお婆さんは何度も何度も「ケ・エモシオン!ケ・エモシオン!」(何という感動なの!)と、言っていた。そのお婆さんが「ケ・エモシオン」と、言ったのは後にも先にもマヌエルの時だけだった。他の日は言わなかった。それは、プエルタ・グランデの時でさえも口にしなかった言葉だった。(「98年サン・イシドロ祭」を参照して下さい)

 97年のサン・イシドロにも、3回出場した。6月2日にホセ・トマスがコヒーダ(牛に突かれる)と、翌3日のホセ・トマスに代わって出場がすぐに決まった。この年のフェリア・デ・オトーニョにも、コヒーダされた闘牛士に代わって合計2回出場した。

 その最後の日に、マドリードのラス・ベンタス闘牛場で始めてプエルタ・グランデをする。

 男とは、自分の好きな仕事をやって、結果を出すことで満足感を味わったり、幸福を感じるものなのかも知れない。マヌエルを見ているとそんなことを感じた。

 有名闘牛士になりたいと願い、これでもか、これでもかと、厳しい評価を受けるのを覚悟で挑戦する。でもマヌエルは、その事をチャンスとしか思っていないようだ。

 今、マヌエルは間違いなく有名闘牛士の仲間入りをした。そして、偉大な闘牛士に近づきつつある。

 しかし、悲しいかな人気が今ひとつ。彼の仕草が、ダサイとか、格好がどうのとか言うことを耳にするが、用はどういう風に闘牛をやるかではないだろうか。

 彼の、カポーテや、ムレタ捌きは紛れもなく超一流だ。

 そう、マヌエル。満員で埋まったラス・ベンタスは君を待っている。

 行けマヌエル!ベンタスのプエルタ・グランデへ。


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