ホセリート(Jose Miguel Arroyo Delgado“Joselito”)

por斎藤祐司

 

 1969年5月1日マドリード生まれ。本名、ホセ・ミゲル・アロージョ・デルガド。

10歳でマドリード闘牛学校に入学。

始めての闘牛。1981年6月7日、トルヒージョと、サバ・デ・ロス・インファンテス(ブルゴス)。12歳。

ノビジァーダ・コン・ピカド−ル(見習い闘牛士)、デビュー。1983年9月8日レルマ(ブルゴス)。14歳。

トマール・デ・アルテルナティーバ(正闘牛士認定式)

  1986年4月20日マラガ。16歳。パドゥリーノ、ダマソ・ゴンサレス。テスティーゴ、ファン・モラ。

コンフィルマシオン・デ・アルテルナティーバ(正闘牛士確認式)

  1986年5月26日。17歳。パドゥリーノ、クーロ・ロメロ。テスティーゴ、パコ・オヘダ。

マドリード、ラス・ベンタス闘牛場。出場28回。耳16枚。プエルタ・グランデ4回。

−−−ラス・ベンタス闘牛場「プログラム」より−−−

 1996年5月2日ラス・ベンタス闘牛場のゴジェスカ(ゴヤ闘牛)で、ウニコ・エスパーダ(1人で6頭の牛を相手にする闘牛)をやり、耳6枚を取りプエルタ・グランデ。これも歴史に残る闘牛の1つだ。最近のホセリートファンは、よくこの日の話をする。「これで、ホセリートが好きになりました」と。でも、それだけじゃないのよね。

  

 

 ラス・ベンタス闘牛場のすぐ近くの、モンテサ通りのとても貧しい家庭に生まれる。その日のパンにも困る生活。母は貧しい生活から逃れる為、夫とホセリートを捨てて家を出ていく。遊び場はラス・ベンタス闘牛場だった。

 父は、生活能力のない人間だった。親戚にも見放されて、孤児院に入る。そこで、エンリケ・マルティン・アランスと出会う。10歳でマドリードの闘牛学校に入ったのは、エンリケ・マルティン・アランスが校長をやっていたからだ。恐らくホセリートの波乱の人生は、ドラマそのものだ。

 12歳の時、父が死ぬ。天涯孤独になったホセリートを支えたものは闘牛だった。カペア(素人闘牛)で腕を上げ頭角をあらわす。年を誤魔化してデビューする。15歳だった。エンリケ・マルティン・アランスが、アポデラード(マネージャー)になった。

 順調に成績を上げて正闘牛士になる。16歳だった。

 しかし、人生とは厳しいものだ。87年5月15日。事故が起きる。この日は、マドリードの守護神サン・イシドロの日だ。

 カポーテの技の最中に角で刺される。角は気管、甲状腺小葉、頸動脈、頸静脈、を損傷し、左鎖骨の複雑骨折を引き起こしていた。角の直撃を受けたのが鎖骨だったので首が助かった。寸での所で命拾いした。

 翌88年。また事故が起きる。彼のバンデリジェーロが首に角を受けて病院に担ぎ込まれる。

 9日後に息を引き取る。

 それから、彼はキリストを信じなくなった。唯一、カピージャ(礼拝堂)でお祈りをしない闘牛士になった。

 ホセリートの闘牛はとてもシンプルだ。しかし、職人的な技に対する拘りは人一倍。カポーテの技のバリエーションの多さ、ナトゥラルの正確さ、剣刺しの物凄さ。そして、ニヒルにして影のある美男子。女性ファンは、あの顔を見るとうっとりするらしい。

 左の首にある、長さ20cm以上ある傷は87年に生死を彷徨った時のものだ。

 スペインでも、本当のアフィショナード(闘牛ファン)が、ホセリートのファンに多いのも事実だ。

 闘牛場で聞く、「ホセリート・コール」はファンの期待の大きさと、応援せずにはいられない気持ちにさせてしまう。

 ホセリートは美男子でも、知っているだろう。男は、顔が重要なのではなく、生き方が大事なことを・・・。

 闘牛とは、彼が最高に表現できる“生き方そのもの”の様な気がする。

 今日もまた、スペインのどこかの街でホセリートは闘牛をする。彼を見る為に闘牛場に足を運ぶファンに、男の生き方を見せるために・・・。    他に闘牛観戦記「欲望の謎。母よ!母よ!母よ!」はホセリート物語です。


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