”ハーレー”で知り合った19歳のハーレー乗り
人生で人は果たしてどれだけの人と友人になれるだろうか。非常に個人差の出るところではあるが、「友人の多い人は、付き合いがよく、人に好かれ、敵が少ない・・・などの条件が揃っているのだろう」と考えたところでさして意味がない。
いわゆる竹馬の友は別として、甘い、酸っぱいが分かるようになってからの友人というのは、その親しさのレベルがまちまちである。お互いの利害関係が絡んだり、形式的な、表面上の友人である事が多いのも事実である。
人生の潤滑油としての趣味が、交友を広めることは多い。そして、何よりも趣味といういわば「遊び」が接点であるだけに、そこでの人間関係は実社会のそれと比べ純粋である。共通の趣味が「同行の志」を作るのも自然といえば自然である。趣味の世界では、実社会の上下関係は別物となり、年令や性別すら関係なくなることもある。
趣味はこだわれば、現実とは別の世界が開ける「新天地」ともなる。
趣味が多ければ、自分の住む「新天地」がそれだけ増えることになる。どんな「新天地」に住むかは自由である。
現実世界だけで一生を終えるのも自由。ただし、現実からの逃避と混同してはいけない。逃避は現実に帰ることを拒否する姿勢である。「新天地」に住み、現実から離れても、「新天地」で大いに暴れ、羽目をはずし、「新世界」の住民となりきることで、ふと我にかえり「さあ、現実に戻らなくては」と気持ちがリフレッシュしてこそ趣味を堪能していると言えるのではないだろうか。
いうまでもなく、ハーレーはバイクに過ぎない。しかし、「ハーレーに乗る」=「バイクに乗る」という等式が成り立たないように思う。世にバイクはごまんとある。しかし、ハーレーほど「酔狂」なバイクも少ない。非常に癖のある、個性的なバイクである。ハーレーには一種、媚薬のような作用がある。それだけにいったんその味をしめると、まず離れる事が出来なくなる。「ハーレー乗り」=「媚薬中毒患者」という等式が相応しい。
ハーレーに乗っている、というだけの共通点が、それまで全く見も知らぬ人を急激に「旧知の仲」にしてしまうのは、この媚薬の作用の為すところかもしれない。自分のハーレーに対しての思い入れは半端ではない。しかし、他人のハーレーを見てたとえ外見が全く違ったとしても、本質である「ハーレー」は黙っていてもプンプン匂うのである。ハーレーの本質は決して変えることは出来ない。本質が変わればそれはもはや「ハーレー」ではないのだ。
私の知り合いにある若いハーレー乗りがいる。彼とはあるツーリングの途中で休憩した高速道路のSAで知り合った。私と家内がパーキングで休んでいる時に彼から声をかけてきた。彼は97年式のヘリテイジ スプリンガ―に乗っていた。ほとんど新車だったが、マフラーを替え、キャブもSUに換えていた。まだ19才の彼は、働いて得た給料を注ぎ込んでハーレーを新車で買ったと言う。途中まで一緒に走りお互いに名刺など交換し別れたが、その後もお付き合いが続いている。彼は静岡なので私の住む奈良とは地理的には随分離れており一緒に走る機会は長い間なかったが、電話のやり取りで無沙汰を埋めたりしていた。
昨年の夏、一泊で蓼科にツーリングに行く計画をたて、彼を含め総勢4名で走ることになった。中央道の内津峠SAで待ち合わせた。我々が少し早く到着し待っていると、彼が颯爽とやってきた。SAの入り口あたりから既にハーレー独特の排気音を轟かせ我々の待っているところにやって来たのである。電話では「自分のハーレーは随分と改造し雰囲気が変わった」とは聞いていたが、現物を見て絶句した。「これがあのスプリンガー!?」というほど原型を留めていないのである。ある人に言わせると「そこまでするのなら、新車でなくてもいいのに・・・。」という意見もある。
確かに、今や、オリジナルの形は見る影もないほどなのだから一理ある。しかし、彼に言わせると、「世界でただ一つの僕のスプリンガーにしたかった」わけで、人の手の既に入った中古のハーレーでは彼の魂が汚されるのだろう。私には真似が出来ないが、彼のポリシーの凄さに畏れ入った。しかも、彼にとってはまだ途中の段階であるらしい。彼のイメージする「自分のハーレー」を求めてまだまだ手を加えて行くつもりらしい。
ハンドル、マフラー、キャブは勿論、ガソリンタンクも小振りのものに変わっている。
フェンダーも前は取っ払われ、後ろも手が入っている。塗装までやり直してある。メーター類もない。小さなスピード計がちょこっと脇に付けられている。フットレストも手が入り、あと細かいところまで実に彼なりの執着の跡がみてとれる。
自分のハーレーを自分好みに改造する楽しみは格別なものであるが、改造の程度はオーナーの器量に委ねられている。改造しないも善しなのだ。徹底的に改造してもハーレーの本質は不変である。だからこそ、色々なハーレーがあってまた愉しいのだ。
