トリインフルエンザはこうしていろいろな情報に接して見ると疫学的にも社会的にもかなりの巨象であることが分かる。ひとつの国だけで飼い慣らすことも難しくあちこちの飼ったことのある国に飼い方を聞いて居るらしい。なにしろ飼ったことはおろか、ろくに見たこともないので全体像を計り兼ねて居る。脚を触っている学者もいれば尻尾を調べ続けている学者も居る。それらを合わせれば全体像が見えるはずだがそれがどんどん進化するので新しい設計図が書けない。皮膚のしわ一本にこだわる学者も外国の部分図は修正もしないでそのまま張り付ける。監修者である国は分かりもせずに都合のいい図面を押し付ける。こうして出来上がった巨象の図は本来のそれとは似ても似つかない虚像で、しかも入って来た本物は凶暴。生き埋めにしようとするがその都度飼育係を踏み潰して、変身して他に乗り移りなかなか捕まらない。ついには飼育係も外国から連れてこざるを得なくなる。 皮肉や冗談はともかく疑問が沢山出る。その出典は伏せて、これまでの記述と重複するが順不動で並べて見る。 (1) ワクチン接種はなぜ汚染国と同義語なのか 汚染国を実害を伴う、外国の信用にかかわる呼び名であるとしても、実際の発生をみて周辺諸国の実状をみれば、ワクチンを施して我が国の鶏はきちんと防御していることを示したほうがよほど信用されるだろう。 (2) ワクチン接種はほとんどの国で失敗している 弱毒、強毒を問わず、後手に回らざるを得なかったからだ。イタリアの例を我が国に置き換えて検証する。彼地での初発から7年経過する。結果的にはワクチンの効果を認め、唯一の手段として鎮圧に成功している。失敗はワクチンではなく、法的措置をこうじないまま弱毒発生を見過ごし、時期を失したことにあるとしている。見習うべきはその失敗をなどる事ではない。一発生例を見て遅きに失した感じだが、まだワクチンは間に合う。施行までには大変としても、例え弱毒でも発生すれば積極的に淘汰しなければならないことを前提とすれば、国のすすめるバイオセキュリティを防御策のない清浄化に向けてではなく、実状にあわせてワクチンを間に合わせるそれに目的を転向すべきであろう。 (3) 鳥小屋は覗かないほうがいい それでは済まされない。子供たちが名前を付けて可愛がって居る小学校、幼稚園の鳥。動物愛護、命の大切さを身近に体験させて来たそれをワラシにどう説明して処分するのか、ゴールが倒れて校長が責任を感じて、というのと同じことが起き兼ねないとする関係者の心配を国はどうみるのか。 ウイルスを持つとされるコハクチョウ、カモの飛来地では管理者に聞くとけっこう普段死ぬことが有るとか、自分たちで食べたと思われないよう一々報告して埋けて居るという。これからは触れない、餌もやれない、どうするんだと云って居る。 (4) 一番危険なのは弱毒が強毒に変化することだ。 更に危険なのはその発症鶏を処理する人間の体内で変化すること。処理の際、嫌でも強毒を撒き散らすことではないのか。 (5) 一番分からないことは我らが養鶏協会のホームページでワクチンに反対していること 各国 の発生例でのワクチン使用の悪いとこ取りをしているようだ。もっとも今朝の情報で新しい組織はワクチン要望のノロシをあげたとか、よかった。希望はある。 H 16 1 22 篠原 一郎 |