鳥インフルエンザ問題の今後(205)



もともと《清浄国論》はウイルスの世界に対しては無理な構想であり、当然随所で破綻しかかる。すると当局は研究予算でがんじがらめの御用学者集団に命じて修復させる。或いはその逆に議論に窮すると問答無用とばかり「日本は清浄国論ですから」の一言で実際に切り抜けて来た。我が国の公式見解はそんなシナリオに添って書き綴られて来たものだ。これをあからさまに振りかざしたのが今回の大槻教授である。しかしこれは無理というものだろう。何も知らぬ大衆は騙せても、ここまで忠実にやられたら依頼者の当局すら困惑しかねない。まあ國は利口だからそっとして置くだろうが、しかしことごとく業者を悪者にして、ことさら消費者の不安をあおりながら一方で生産物は大丈夫だと太鼓判を押して見せる当局のマッチポンプ政策には緻密な細かい操作も必要となり、大ざっぱな人には使いこなせない感じだ。しかし一見ガチガチに武装しているようでも見る人がみれば裸の王様と映るだろう。

一方、我々の周囲で語られるシナリオはここで200回以上も記述して来たように、全く別のものだが、当然それは御用学者の立場にある人達の本音に近い部分にも通じる。茨城型の弱毒株騒ぎの発端こそ1996年の岩手、鹿児島の例だが、似た症例そのものは養鶏始まってこの方ずっと続いているものだ。その翌年の家衛試の依頼全国調査では、既に陽性血清を手に入れて居たから、HIとPCRによって東北以西に同じ弱毒型の浸潤が明らかにされている。ただこれは調査の詳細な記録は残って居ても当局シナリオには書かれて居ない。大槻教授はここでも、あれは私も手伝ったが技術的にはまだ不完全だったとその検査結果自体を否定するようなコメントを出して居る。無論、家衛試の研究陣はそんなことは言って居ない。我が国の検出技術が実際はどうだったかと言えば、それに先立つ1971年の馬の場合などたった一日で同定するくらい優れて居たと聞いて居る。

少なく共それ以後、我々の周囲は似たような症例に悩まされて来たことはその当時の講演録などを調べて見れば分かる。IBとかILTとかSHSとか言われながら。たまたま2005年の茨城事例のその年は、大槻教授が業界誌に漏らす以前から韓国でのH9N2の蔓延が外国人研究者クルーによって明らかにされ、その主徴が回復不能の産卵低下と聞いて居たところから、症状だけなら我が国も同じようだと噂され所先生のお祝いの頃にはもう逃げ帰って居た記憶がある。

その前年の浅田農産事例などを含め、或る場合は報告漏れの糾弾、また或る場合は表彰されるなどいろいろな事例こそあれ、そのすべてが適切な殺処分によって以後の感染の拡がりが防げ清浄国が保たれたとするのが当局のシナリオである。ただそのシナリオのなかで、実際のウイルスの世界では考えられないような不自然さが随所に見られるのは、言うまでもなく清浄国論のシナリオ故である。H5亜型はすべからく高病原性であるとして殺して仕舞う我が国と比較して、家禽ペスト時代からの体験先進国であるアメリカでは、最近あれだけ環境から発見されているH5N1でさえも、一部学者の懸念をよそに、あれは人畜無害株だったと切り捨てて居る。その善し悪しは別に、これも1983年のH5N2によるペンシルバニア1600万羽淘汰の教訓が生きて居るからとも言える。古典的な見方でも、強毒型とされる家禽ペストの鶏の斃死率は状況によって0〜100%とされて居た。H5N1も大同小異であることは想像に難くない。何れにしても我々現場は清浄国論のシナリオとは別に、鶏の《不審な死》を見る前の摘発を心掛けるよりない。

H 19 2 21. I,SHINOHARA.