喜田 語録から (1) ウイルスとは仲良くすべきである。 (2) 自然養鶏大いに結構。 (3)鳥インフルエンザは恐くない。 國の《清浄国論》と《焼け跡摘発》さえ無ければ、まさにその通りであると私自身は思って居る。ウイルスと仲良くするためには受け入れて馴致させなければならない。常々《とき》様の云われる通りである。ただその前に摘発すべきは摘発しなければならない。それが飼育現場での日常の観察にかかっている訳だ。感染症対策では、最初の1羽の摘発こそが最も重要である。何によらず患鶏をそのままにして病性鑑定を待つなどというのは、もうプロではない証拠なのであるが、ならば意識して居なくても実質的に証拠隠滅になっても良いのかと云うことになると問題が残るかも知れない。 具体的に、自然養鶏に近い解放ケージ舎で、1羽の佇立鶏を発見したとする。それが何らかの感染症の最初の1羽なら潜伏期を経て数日後に数羽に増え、さらに数が増えて行く。病性鑑定の結果が戻って来るころにはもう手が付けられなくなっているのが普通だろう。佇立鶏はそれが卵墜であれ何であれ、薬剤投与が一切出来ない養鶏にあっては即刻の淘汰埋没もしくは焼却が現場の原則だった。もしそれが接触感染するものだったら、患鶏と隣接の数羽を犠牲にすることで次への感染を大幅の遅らせるか、断ち切ることが出来る。ただしIBのように空気感染するものだとこうはいかない。発症させてはもう手遅れで予めの競合排除などが必要となる。 ニューカッスル病のように、飛沫感染も飛沫核感染もする病気のばあいは後者を防ぐために真冬でも鶏舎囲いを外して人の流感同様、換気を良くしてウイルスを拡散させる。此の際、鶏舎の間隔は10メートル欲しいとされた。接触感染を成立させるためには有る程度のウイルス量が必要だが深部に到達する核感染の場合は通常少量のウイルスで可能だ。だからウインドウレス鶏舎は感染に弱いのだ。 そして競合排除もしくは干渉させるために、一番一般的でリアクションの少ないNDワクチンを付近一帯にスプレーする。下手に消毒すると肝心のワクチンが死んで仕舞う。これが実は昭和40年代以降のNDやILT対策だったのである。皮肉なことにこんなやりかたは、今の鳥フル防疫マニュアルの逆である。だから若し今が昭和40年代だったら多分、喜田語録のように鳥インフルエンザなんて恐くない筈である。ただ世はウインドウレス集団養鶏の全盛で、しかも清浄国論にそって抗体を持つことさえ許されぬ時代とあらば、やっぱり鳥インフルエンザは恐いのである。 話は違うが、当初、感染研を震え上がらせたエボラ出血熱。先日のテレビでアフリカの奥地でゴリラの生態を調べる女性科学者とカメラマンが紹介された。ゴリラの80%がエボラで斃れた中を平然と標本を取りながら調査を続けて居た。特別な防護服を着るでもない。きちんとわきまえて行動すれば、やたらに恐がることもないのだろう。感銘を受けると同時に大川総裁のいう国民の精神的免疫力と知的水準を高める努力をすることが食の安全やら食糧難など諸々の問題が交錯する中、これから生き抜いて行く為になにより重要だと思えた。その意味で、鳥のカゼ如きでなんで大騒ぎするんだ、と云われる《とき》様のかねての主張と現場の感覚に通ずる広い知識には心から敬意を表して居る一人である。 H 19 2 5. I,SHINOHARA. |