喜田教授の本音とするところと笹山道場の《とき》様の主張の基本的に共通するところは、鳥インフルエンザは怖がる必要はないんだということと、<鳥→鳥><鳥→人><人→人>を感染の段階として捉えるのは間違いだということだと私自身は理解しています。そしてそれを鶏飼育の現場からどうすればいいのかと模索しています。でもその恐怖を煽った直接の原因は学者達による鳥インフルエンザウイルスの《強毒変異確実論》であり、その強毒変異について<鳥→鳥>を一つの段階としてそれをパンデミックまでつなげてきた報道にあると思います。 ここ数年間に発表された論文に目を通すと、鳥インフルエンザウイルスについては強毒に変異することばかりが書かれて居ます。ウイルスはやがて馴致して宿主と共生を図るようになりやがては消え去る(抗原として意識されなくなる)、変異の激しいウイルスほど急激にそうなるというウイルスの常識は置き去りにされ、特異な稀な例だけが論文類で強調されて来ました。尤も当たり前のことを云ったのでは論文になりませんから。この特異な例を当てはめて恐怖を煽ったのが茨城事件そのものでした。そしてそのように煽ったのも学者さん達でした。 1987年に日本人で初めてノーベル医学.生理学賞をうけた利根川博士は数の限られた遺伝子が多種多様な抗体を作り出すメカニズムを解明されましたが、限られた数の抗体遺伝子が変化して対応するのだから、抗原と抗体の最初の出会いのうちは行き違いが多いのは当然でしょうし、別のアレルギーなどの問題もあるのでしょう。しかし次第に馴致されたウイルスはもう異物として認識されなくなり黙って受け入れられるようになる。そんな一つが茨城株であり、もはや國が用意した抗血清にも反応しなくなっていたのです。 かつては猛威をふるったH9N2も鶏に対しては、どんどんマイルド化しサイレントウイルスになりましたが、喜田教授ではないが今度は「豚に来たようだ」です。そんなワンノブゼムの鶏の弱毒ウイルスを見つけだしては殺しても、それは豚や人間とは別問題です。いくら喜田教授が「鶏の強毒は人間には関係ないんだ」と打ち消しても、「鶏の弱毒は人間には関係ないんだ」ということですから、今の<鳥→人>のように関連づけたままでは鶏の弱毒株も人間には危険だと取られてしまうのです。そこへ鶏同志の強毒変異確実論を持ち込まれたら大騒ぎは当たり前です。だから笹山道場での《とき》様の<鳥→人>否定は一番大事な根本なのです。これは業界のエゴでいうのではありません。 <片目の猿>の寓話があります。片目の猿の世界はプロパガンダと世論で形成されるマジョリティです。迷い込んだ両目の猿は皆と同じ片目をつぶさないと生きて行けません。《清浄国論》というはっきりした立場のもとでの小委員会のなかでも、委員は皆、両目を明けては居ますが、出て来るときは立場上片目をつぶって記者に対応するのです。これでは国民全部が片目の猿になるわけです。立派な研究者達が皆<御用学者>になり<曲学阿世の徒>ではやりきれません。それをそのまま信じて受け入れて居るかたちの家保の言動などを私は云われる所の八つ当たりで非難しましたが、当の研究者達のつぶった片目はどう見て居るのでしょう。 そんなマジョリティのなかで敢然と両目を明けて居る笹山道場の《とき》様はやはり立派です。いくら実名でもわれわれ迷い猿では肝心の目の方がもうろうとして見えないのですから。心眼とやらも持ち合わせていないし。また「この人何をいいたいのか、自分だけ良ければいいというような、ワクチン打たせない腹いせ」みたいな話になりました。 H 18 9 2. I,SHINOHARA. |