鳥インフルエンザ問題の今後(168)



昨日はOO先生の来訪を受けて 鶏飼い百姓の分際で、訳の分からぬ学術的な仮説の世界にまで、脚を踏み入れるなと叱られた。重々ごもっともと恐縮しながらも聞くのはその仮説の世界である。

大槻教授の実験にもあるように、自然宿主と共存しているうちはおとなしいウイルスのうちのあるものが、何かの機会で種の壁を越えようとする時、その種のサイトカインの猛烈な反撃を受ける。ある場合に、そこで過剰反応が起こって、その為に生体は致命的打撃を受ける。しかし実際に種の壁を越えてしまえば、次第に馴化して一時期パンデミックを起こす頃には通常の数%の死亡率になり、やがてはエンデミックつまりは風土病化してしまう。中には1957年のアジア風邪のようにパンデミックを起こした後、表舞台から忽然と消えてしまったものもいる。否、それ以前にパンデミックそのものが例外中の例外だ。

茨城の例では、人々は感染と発症、それも発展途上のウイルスとの激烈な反応による発症を同等に捉えて震え上がった。

もともと抗原的に関係が近い、弱毒ウイルスによる疑似体験を経て、生体は強毒に対する免疫を予め獲得して本番に備える。これを人為的に施すのがワクチンだが、最近はこれが万能でないことも分かってきた。二度目の体験の方が重篤化する台湾のデング熱のケースである。身近かな例では二度目にアナフィラキシーショックを起こす蜂刺されなどがあり、臨床的にはステロイドを用いて過剰反応を押さえる努力をする。この手法は実際SARSやトリフル患者にも効果は未確認のまま応用されているようだが懐疑的な部分も多いとされている。

何れにしても、新しい宿主を模索するのは、そのウイルスにとって進化の必要性があるからで、宿主を殺すことが目的ではない。殺してしまえばウイルス自体も滅びてしまう。サイトカイン側も同様であって、やがて馴れ合おうとするようになる。もし生体側にあくまで受け入れを拒否する必要があるならレセプターなど存在しない筈だ。そんなわけで最終的には互いが馴致しあうようになる。だからこういう仮説側に立てばウイルスの絶滅を期するなど、自然の摂理に逆らうことになる。ところが《摂理》とは神(創造主)のご予定でアメリカの教育などでは進化論を避けているところが多いと聞く。つまりは進化は神のご予定にはないからだ。

その意味でウイルス撲滅論を十字軍にたとえる話がある。ウイルスと馴れ合ってきたメキシコにUSDAはスアレスチームという十字軍をさしむけた。いくらなんでも穿ち過ぎだと〇〇先生は笑う。

さてその〇〇先生の示す仮説に従えば、具体的な茨城株は進化、消長のどの位置にあったのかが問題だが、これもあくまで一つの仮説。お前のように大槻教授は糞も味噌も一緒にしてけしからんなどといきまくのは、少なからずやりすぎだよ。お前が敬重する《とき》さんにでも聞いてごらんよ。少しは反省しなさい。 というお叱りだった。

H 18 6 27. I,SHINOHARA.