鳥インフルエンザ問題の今後(159)



600万羽近い世界的にも類を見ないLPAIの摘発淘汰を体験した後で、それ自体の発症の確証すらない<茨城株>など放っておくべきではなかったかとの疑問は、被害地の当事者だけでなく我々現場の者が等しく抱いてきた感情であるが、それが国の方針や小委員会の意向と相い容れないだけに公言することさえ憚られる状態に置かれて来た。現に逮捕、起訴された江口氏の如きは指導者としての立場にあって、持論として又その知り得た情報からも殺すべきではないとしていたことが、その後の行動をすべて社会悪として捉えられたことに繋げられてしまった。この間われわれが要求したように弁明の機会はあったろうが、検査機関といえども国の方針には逆らえる筈も無く立場上知り得た情報も口外する訳には行かなかったのだろう。

しかし今、徐々にではあるがそれらが明らかになりつつある。疑いが晴れた後の諸々のまやかしに対するリベンジに期待したい。それなくして茨城問題の総括は出来ぬ。現実に特異的な症状も現さない自然界に存在するLPAIを悉く摘発することが可能かといえば全く不可能だが、たまたま発見された茨城株を見つけ次第殺すことだけは出来た。しかしそれにどんな防疫上の意味が有るかと云えば全く無い。いわんやそれ以外にもH5LPAIの存在が環境中にあることが分かり、多少ともウイルスというものが分かってそれらの撲滅が可能かどうかを考えれば答えははっきりしていた。

「我々が持っている全ては、ウイルスのわずかなスナップショットに過ぎない。欲しいのはその生活環の全体像である」(Dr.Lubroth fromProMED-mail)とあるように、今度の鳥取大の発表ではないが研究者達は、アフリカの野生の象も上野動物園のそれも一緒にして夫れ夫れが自分の領域として或る者は鼻を、また或る者は脚を、そして腹を、尻尾をまさぐって示してくれたとしてもそれが一体ウイルスの全体像を見るうえで何の役に立つのだろう。その実態はまだ野鳥と家禽の間のウイルスの往来さえ分かってはいないのだ。

しかしそうは云っても未だに戦々恐々の現場にあって興味があるものが、例えば1924年のH7N7,A/Japan の時は100%の斃死であったものが、浅田農産の時はワクチンを打たなくても平気な鶏が沢山居た事とかNDの時は発生群でノーワクで生き残る鶏が居なかった事実、更にドイツでは野鳥間であれだけウイルスが発見されながら家禽での発症が見られないことと100%の強制的NDワクチン接種との関係など一杯ある反面、茨城で表面化するまで鶏も生産物も資材も自由に行き来していてもウイルス自体は拡がって居ないとする公的発表のように作られたおかしさの反面、国や地方がその気なら日本中の鶏を無くすくらい何でもないことを思い合わせると権力の怖さに背筋の寒くなることだってある。

ところで昨日発売の週刊文春<天下の暴論>の中での桜井よしこの「それでも私は米国産牛肉を頂く」、戸塚宏の子育て論などは面白かった。なにが暴論なものか。更にP56の<新聞不信>では東京裁判当時、新聞が東京裁判肯定論を大見出しにしたにもかかわらず戦争を身をもって体験した日本人の結論は五分五分だったとして「指導者に盲従」する今日の中国人より、よほど正気だったとしている。だったら今の日本人は本当に正気と言えるだろうか。《とき》様が云われているように真実を真面目に追求しようとすると異端視される。「黒いヒツジの居ない白いヒツジの群れは繁栄しない」とするダイアナ妃が伝えたイギリスの諺は日本では永遠に根付きそうにない。

H18 5 14. I,SHINOHARA.
No.20102