鳥インフルエンザ問題の今後(142)



毎日新聞の小島記者が改めて茨城の監視残存鶏の無駄な焼却処分について提言しているが、もう一般には現地の関係者の苦難をよそに忘れ去られようとしている。まったく週刊誌でなくても「俗物が興味を持つのはカネと女と事件」と齋藤十一氏の言葉を引用した花田紀凱氏の記述のように、茨城株問題もわずかに事件の行方に興味を留めるだけで終わるのだろう。

小島記者が指摘した廃鶏処理を困難にした問題は、当局のマッチポンプ以外の何物でもない。結果的に全く無毒株に過ぎなかった茨城株を高病原性、強毒変異の惧れありとして喧伝したのは国と小委員会である。消費者は未だにそれを信じているだけで、今更逆のことを云ってもそれを信じろというのが無理だ。それをまた処理業者の無理解のせいにしようとするのだからいかにも狡すぎる。処理に無駄な大金をかけても、食の安全の為と云う大義名分があれば国民は納得してしまう。狡いと云えばこれも同様である。

茨城株はたまたまウイルスが見つかってしまい、それまでの類例から全くその範疇のもので、問題にするほうが問題だとする現地などの意見も中央に押し切られたという噂があった。そこで清浄国論の前提が崩れたのである。集団的発症、いわゆるアウトブレーク無しに各現場で検査により未知の弱毒株が発見されることは有り得ない。今回唯一の症状とされたEDと軽い呼吸異常は、ありふれた風邪所見であり、事実、大槻教授もその症状そのものはIB(気管支炎)であろうとしていたのである。

実際的な云い方を繰り返せば、ウイルスなど有っても無いとするのが清浄国論の一面であり、その代わり一旦無いとしたものが有った場合は撲滅論となる。茨城株がその好例であり、その際水平の感染が認められれば、事実上撲滅は不可能になり清浄国論も撲滅論も消滅してしまう。国としてはその事実を認めるわけにはいかないので垂直の線を強調する。それが感染経路の究明であって水平的に存在するものは無視するわけである。何故なら既に水平的に存在することが分かれば、垂直の線を辿っても犯人の追求以外防疫上の意味はない。それすら不可能だと魔女狩りが始まる。それらの総てが今回の茨城株問題に表れて居ることになる。 業界はまず第一にそのことに気づかねばならないのだが、あれだけ拡がってもまだ独自に感染経路究明などと闇ワクに毒されてか魔女狩り指向を捨て切れては居なかった。

もともと清浄国論は、環境中に無数に存在するであろう無毒株など、無いとして切って捨てねば成り立たない方針である。それなのに茨城株如きを問題視して虐殺を始めてしまったのは恐るべきボタンの掛け違えである。更に、水平感染を認めてしまい(ウイルスの性格上はそれが当たり前だが)しかも陽性だけで摘発するとなれば、日本の鶏など居なくなりかねない。それで当局は淘汰鶏が600万羽に及んでも、未だ一カ所の発生扱いとして水平感染を事実上認めていないのである。そしてそれを認めてしまえばワクチンも視野に入れざるを得なくなる。

こういう云い方が許されるかどうか分からないが、国が清浄国論を奉じて居る限りは、今回のような手違い(ボタンの掛け違え)が無い限り茨城問題は二度と起きない筈だが、業界自体が国の建前を無視して茨城方式の強化を望む場合は、「可愛いウイルス」が偶然見つかればまた同じことは何度でも起こるだろう。