鶏飼い時事(じじい)…『知らしむべからず』



以前からうわさのあったケイナインインフルエンザ(犬)に関するProMEDメールを見たが、経過は咳に始まり、最後は細菌(ヘモフィルスインフルエンザといわれた)が絡んで肺炎を起こすスワイン(豚)の場合とほとんど同じらしい。身近な犬は隔離は難しくワクチンが無いとなると予防は出来ないから、肺炎対策しかないだろう。ショウプの実験でも菌が居なければ肺炎は起こしていない。昔はヘモフィルスにはストマイが特効薬だったが、今は効かないそうだ。鶏には《縁無き衆生》だった人々も犬では無視できない。馬から飛んだという話で助かった。鶏からと云われては、尚のこと憎っくき鶏共は血祭りだ。
先日の毎日新聞に、記者の目として初めてワクチン論が出て、OIEやFAOの強い勧告もあり、ようやく時期到来を思わせたが、その後その記事を覆す形の社説(9/25)を出して、もとの形に収める予想したケースになった。やはりこの問題は農水の意向を確かめないと論議にならないことを改めて記者諸氏に再認識させたことだろう。
社説そのものは「大事なのは、すばやく、徹底的に鶏のウイルスを消滅させることだ。」と、もはや世界三機関もワクチン無しでは不可能としていることを、あたかも可能だとするような《清浄国論》の受け売りであり、結論として「対策が後手に回らないよう、日本は国際協力にもいっそうの力を入れてほしい。」と云って居るのには唖然とさせられた。繰り返すが、陳腐化され、清浄国論を固守するための片寄った情報のみを比較検証することなく羅列した揚げ句の結論が、世界三機関の方針と明らかに相違する《摘発淘汰によるウイルスの根絶方針》を掲げて、一体どんな「国際協力」が可能だというのだろうか。

ここに至って、2500年も前の孔子の言葉にうなづかされる。曰く
《民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず》 である。
皆、国の言い分に従うことは可能でも、その本質をわきまえさせることは不可能だということだ。況んや、それを逆の立場から知らしめんとするにおいておや、と云うところか。

犬の話に戻ったとき、ワクチンがあれば危険な肺炎を起こすこともなく、愛犬も助かり、犬が助かることでウイルスの危険な変異も減り飼い主も助かるとするのが普通である。それを犬にワクチンを打つと、変異して飼い主にも危険が及ぶとしているのが今の日本の方向である。実際はあるかどうかも分からぬワクチンの副作用の危険だけを宣伝し、はっきりしている本来の秀れた予防効果を隠したまま比較検証も一切無しで御用学者を押し立てて、ことを進める当局のやり方を鵜呑みにしているだけではメディアもまた知らしむべからざる存在に過ぎない。
残念ながら今のところ、すべて行政の思う方向に進んでいる。すべての道は清浄国論に通じている。もはや世界三機関の推す方向と逆である。国民はそれを知らされていないし、知ろうともしてくれない。鶏の粛清は進められ、一度破綻したサーベイランスを継続させて摘発淘汰の恫喝のもとに(それで地方の実態が分かる由もないことは証明されたのに)表面的、公的に清浄国を立証しようとする意図は見え見えである。
茨城の件に整合性は一切ない。無論ワクチンの可能性は皆無である。県境を知るウイルスなど有り得ない。すべてが官の綴り方教室である。

H 17 9 28. I,SHINOHARA.