『鳥インフルエンザ問題の今後(90)』



台風14号の被害は甚大だった。アメリカのカトリーナといい、うちに見える牧師さんは「神の国は近そうだね」と云われる。被害にあわれた方々にはお見舞いの言葉も無い。無信心な私も牧師さんと一緒に祈るよりない。

《清浄国論》。このいまいましい言葉が、鳥インフルエンザ対策会議やセミナーでの行政当局の締めに使われ、空しい気分にさせられたことには度々触れた。

日本が鳥インフルエンザに対して清浄国であることと、国の《清浄国論》は違う。政府の唱えることは、多くは「名は体を表さない」。最初のうちはまあ我慢どころでも、困るのは実態がすっかり変わっても《国が唱えるところ》はその旗を公式に降ろすまで一向に変わらないことである。改めて貰うには議員さんへの陳情を重ねるしか無いが、そこでは大体が「分かった、分かった」と云われて、補助や助成の話に変わってしまう。

われわれ現場から見れば、残念ながら茨城の状態は最早清浄国とは言い難い。状況からは立派な水平感染である。目下、茨城にとどまって居るのは、人為的に止めて居るからに過ぎない。これは野鳥の場合だって同じで、去年の例でも捕まえたカラスで陽性なのはすべて京都産のカラスだった。だから疫学調査という奴もくせ者で学術的とはこれも名ばかりのご都合主義なのはグアテマラ株=ワクチン疑惑 と云うのと一緒である。学者自身がそう云うこじつけに慣れてしまって居て、いつもそれで通ってしまうから格別反省もしないのである。

政府の対策も学者の見解も総てこの《論》である。《論》はどんなに不合理なことが分かっても、それが文章で改められぬ限り、何処までも一人歩きして、政府見解や公式発表の依り所になり続ける。

さきごろ決められたウインドレス鶏舎の差別優遇問題も、決めてしまえばもう《論》でありテコでも引っくり返ることはない。これは普遍性を持つから、いずれは「なんとか学」とかいう奴なんだろう。だから二日の記者会見で喜田委員長が「ウインドレスのほうが、もっと危険であるといえる」と云ったとしても驚くことはない。《ウインドレス安全論》が文字の上で確定してしまえばもう何を云おうと関係ないことにはこっちも慣れてしまった。

《清浄国論》は《ウインドレス鶏舎安全論》とは比較にならぬほど重い。これを覆すのに要する犠牲になる鶏の数は3000万羽か5000万羽か見当もつかないが実際のHPAIが来たらそういうことに恐らくなるだろう。だから常々この《清浄国論》を目の敵にしているが、此奴はもはや化け物である。学者の言動をなじったくらいではどうにもならない。

喜田さんと双璧と称される大槻さんだって、普段の言動からは日本がトリフルの清浄国であると思われて居るとは到底思えないが、それでも根っからの《清浄国論者》の一人であることは間違いない。分かるかなあ、分からないだろうなあ。

H 17 9 8 . I, SHINOHARA