『鳥インフルエンザ問題の今後(57)』



シベリア、ウクライナ地方の白鳥やガンカモのH5N1による死亡という衝撃的なニュースに端を発したトリフルの新しい展開はこれまで我が国で考えられていた対策を一旦ご破算にせねばならないと考えるほどの問題だと思う。
痛ましい事件となった浅田農産の事例以後、寧ろ安心感をもたせる情報が主流となった。

(1)環境汚染に関して、
@ マウスに対する毒性は香港型の50万分の1で鼻の穴にウイルスを詰め込んでも発病しない 。
A 京都府以外のカラスはすべて陰性。
(2)鶏に対して、
@ 水禽類から鶏に罹る段階ではすべて弱毒タイプである。
A 飛沫核感染であってIBやNDより感染が遅い。
B 危険とされる生鳥市場やアヒルとの混飼がない。
C 自然型養鶏の場合はむしろ強い、おおいにやりなさい(喜田教授)

そして実際周辺諸国の悲惨な状況を見ながらも、去年の冬を無事乗り切るなど、どこかに日本は大丈夫とする空気が広がっていた。そんなところへ茨城の陽性例が表面化して30万羽の大殺戮となったものの、済んで見ればグヮテマラ株がどうしたのという取って付けた様な話しに落ち着いて一件落着。またバブル崩壊時ではないが危機の先延ばしに成功したように見えた。しかし真の危機は明らかにこれからである。

清浄国論の日本では、百歩を譲ってのワクチン備蓄にしても、ワクチンを用いる上でのコンセプトがまるで違うから、戦艦大和と同じで象徴的な意味しかない。
もともとワクチンは予防的に使ってこそのワクチンであって、発生源を取り囲む防波堤的使い方など邪道である。それをわざわざ《ワクチンの予防的使用》などと特殊な使い方である印象を持たせてごまかしている。本末転倒も良いところだ。

その為、モニター鶏の必要性が誇大に叫ばれるようになってしまった。ワクチン接種群には必ず《おとり鶏》を置いてそれが陽転すればワクチン接種群全部を淘汰するとか、DIVAでなくても接種群に《おとり》を置けば 野外のウイルス侵入は分かるから、接種群は淘汰可能であるとする、すべてが摘発淘汰に向けての手法であるから、議論がかみ合わなくなる。それもこれもワクチンとは疾病の予防でなく防波堤なのだという本来と逆の解釈に基づいている結果にほかならない。そんな馬鹿なワクチンの使い方があるかと度々抗議したが我が国の大本の方針がワクチンも無しの清浄国で変わらないのだから仕方がない。ワクチンを使うことでとんでもない金がかかるとの説明も、我々の計算では鶏一羽たったの数円でも、ワクチンを使い、モニター鶏を置き、その監視を続けて、全群淘汰と云うことなら、金はかかる訳だし、第一訳が分からなくなる。日本で云う清浄国論のもとでのワクチンはそんな百害あって一利無しの代物である。にも係わらず我々現場があくまでそれを要求するのも、それをワクチン認可の一里塚とする希望であり、それが見え見えだから相手も強硬なのに違いない。しかし今や世界三機関も原則的に清浄化に向けてのワクチン使用を認めたのに、それに反対して、原則的と制限をつけさせたのも外ならぬ我が国の研究者である。

しかし今やシベリアで野鳥を打ち落とす狂気の沙汰も伝えられて、そのコースとなる我が国も全く新しい危機を迎えようとしている。せめて可能な家禽類のワクチン接種位は認可してこの冬に備えるべきだと思う。グヮテマラ株騒動などに気を取られている余裕はない筈だが、、。

H 17 8 17. I, SHINOHARA