ニュースを見て居るとトリインフルエンザ問題はますます混迷の度を深めて来た。今朝のショックはせっかく開発したH5N1型インフルエンザワクチンが塩基性タンパクの配列が一部変化しただけで使えないというのだ。 WHOの発表だが協力関係にある喜田先生の理論そのままだ。これでいけばその研究とお言葉通り百数十のウイルスの組み合わせの総てを取り揃えてもまだ駄目だということになる。ここまで実際的でなくなればその理論は放棄すべきだ。 鶏飼いとしてだけでなく人間としてみても鶏の大量生き埋めの報道は惨すぎる。生き埋めする鶏に涙しながら餌をやる姿。一方では病鶏に接しただけで感染してしまった子供の墓にすがって泣く母親。なすすべが無いとはこのことだ。人間の恐れのために大量の家畜を殺す。殺しても殺してもラチがあかないところまで来て居ることは明らかだ。これは人間が自然の摂理ともいうべき本来の道から外れ、浅はかな科学知識でそれに抗しようとしているからだ。その自然の力をいつも感じながら仕事をしているのは我々だ。自然から教わった先人の知恵を受け継いで自らの体験を加えて生きて来た。 科学が進歩し時代が変わると陳腐化するように見える。しかし現代科学でどうしようもなくなったとき、もどるべき真理があるのは自然の摂理だ。人間や家畜が増え過ぎたので減らすために疫病が出てくるのも人知の及ばぬところ、それを科学の力だけで押さえようとするところに無理があると考える人が増えてくるだろう。 次ぎに現れるインフルエンザでは数億の死者が出るとは最悪の場合の国立感染症研究所のシュミレーションだ。それは避ける努力をしなければならない。しかし増え過ぎた人間を減らさなければならないのが自然の摂理だとすると繰り返すように人知の抗しがたいものが有る筈だ。いままでの感覚ならスペイン風邪の頃と違って、特効薬もあり、ワクチンも開発されるだろうからそんなにひどくなるまい、というのもあったろう。そのワクチン開発ではやくも頓挫している。 もう基の理論を変えるべきだ。鳥飼いの立場に帰れば、交差免疫の事実を認めない理論なんて、現場では有り得なかった。サルモネラの実験で黄身に菌をブスリとやって何度Cまで過熱すれば安全とやった、あんな実験と同じだ。新鶏舎病といわれたマレックはワクチンが出るまで、或る種の汚染をあたえることで事実上防いで来た。回虫も居た方が良い、日本人はエルトールコレラに弱い。どちらも環境がきれいすぎる弊害だというが一方でそのためにSARSは出なかったという。だからどちらともいえないので、進み過ぎたら戻して見るのも肝要で環境を無視した理論の進み過ぎはかえって危険だと思う。 その理論に基づいてのワクチン開発が不可能ならもうそれですすむべきでないことははっきりした。このまま鶏を埋け続けたらアジアの鶏は居なくなる。それに携わる人間の、心がぼろぼろになる絶望感も推して知るべきだ。こうなったら逆に自然のウイルスを利用する方向に行くべきだ。それなしで自然の猛威に人為的清浄化など成功した例はない。 有効なワクチンさえも自然の理に抗した理論のもとでは成功しない。次期インフルエンザへの変異を恐れるあまり頑なな理論を振り回して鶏の大量虐殺を人間の為として続けさせるとしたら最早人間では無い。立派に食べられるものを捨て、わずかな疑いで大量の牛を殺し、明日への恐れと称して鶏を殺す。人間の心を取り戻す後世があったとしたら悪魔の理論に基づく悪魔の所業だったと思うだろうし、そうでなかったら人間は居なくなっているだろう。 |