『鳥インフルエンザ問題の今後(]]\)』



人間の臨床医の場合は、最初にこう聞いて来る 「熱は何度?」 そして聴診器をあて、実際に検温し血圧を計り脈をとる。 これが鶏にはない。何故なのか。

鶏の場合は臨床症状もろくに見ないで、いきなり採血して検体をラボに送る。人間だったら風邪をひいて、いきなり大学病院に行くようなものだ。尤も最近はそういう手合いも珍しくないとか。

今度の茨城の情報でもその辺がすっぽり抜け落ちている。産卵低下以外に症状はなかったといわれるが、繰り返すように産卵は鶏にとって最大のストレスファクターだ。だから鶏は他に重大な全身的ストレスを感じるとまず産卵を休止する。俗に云う鶏病の相対性理論である。そしてそれが感染によるものであれば、必ず体温が上昇する。その情報がないのを訝るのである。

少し皮肉っぽく云えば、我々阿呆の鳥飼い世代は銘鶏時代から集合検定時代にかけて、あくまで個の鶏を相手にして来た。種卵1個4000円で米一俵の値段である。鶏の健康を慮って、度々検定候補鶏の尻の穴に芋床用の寒暖計を突っ込んだ。その頃の鶏ペストの記述には罹患鶏の体温は43〜45度、それが35度に落ちて斃死するとある。だから未だ基礎体温にも関心があったことになる。
その後繁殖のほうでアメリカから集団遺伝学が伝えられ個が全く顧みられなくなると、鶏病のほうも基礎的な診断がおろそかにされるようになってしまった。病気は獣医まかせの時代である。その獣医さんたちが鶏の基礎体温も知らないのでは話にならない。同じ生き物であって人と鶏相手ではかくも違うのである。

自然科学の発展には想像力を逞しくすることが大切だと云われる。過去の事例にだけ拘っていては全く進歩しない。想像力を欠いた今回の家禽疾病小委員会の在り方をみて発達障害だと揶揄したが、逆に基礎的な現場事情に疎いからそうなるのである。

尤もこの云い方が鶏界を代弁しているわけでは断じて無くむしろ全く逆である。私自身は殺処分の傍ら移動禁止を解くなど補償しないための姑息な手段だと非難したが現地の報道では当事者も喜んでおられるという、ならば仕方がない。ただもともと移動制限というのは疫学的にみて、その地区を同一に扱おうとするもので、その経済的損失に対して殺処分と同じ補償を地区全体にするのが当然と考える。またそれが出来ない位なら安易な殺処分は是認すべきでないと私は考える。

モニターを増やして全国的に監視を強めるのは良い。しかし私は家衛試以来の動衛検の実力を高く買っている。1971年の馬のH7N7を一日で同定した実力をもって1996年岩手のH3N2が分からぬ筈は無く、翌年の各地方の調査結果は十分信頼出来るものと考えて来た。その時がそうであったが故に今後の調査が気掛かりで、とても喜田先生や養鶏協会のように強気にはなれないのである。尤もこれは私自身が今は存在しない阿呆の鳥飼いの残党であるとの前提に立っている。なにしろ未だに体温計(早くて便利になった)を毎朝鶏のケツに突っ込ませているのだから。

H17 7 2 篠原 一郎