〜研究作文其の七〜 戦艦金剛喪失について




太平洋戦争に現役戦艦として最も古く、そして最も活躍した艦といえば、戦艦 「金剛」でしょう。太平洋戦争開戦より、機動部隊の直援艦として活躍し、ソロモン・マ ーシャル方面での作戦支援を実施し(その間には有名なガダルカナル島砲撃があります)、マリアナ ・レイテと大海戦に参加して、米軍艦載機や護衛空母に主砲弾を発射し、最後に本土に帰還途中に 潜水艦によって、その33年にも及ぶ生涯を終えています。

金剛型四隻は太平洋戦争中に最も活躍した戦艦でしたが、その主要因が30ノットを発揮できた 高速力です。山城級や伊勢級、長門級では、機動部隊に随伴できず、結果として主戦場に常に参加 するということになりました。
またその艦歴の古さも使いやすさの一環となったと思われます。立ち消えにはなりましたが、ワシ ントン条約下では艦齢20年を越えた戦艦は代艦を建造してもよいこといになっており、実際40 センチ砲を装備した中速戦艦も4隻計画されていました。ロンドン条約の結果、代艦は建造されま せんでしたが。
なにはともあれ、太平洋はもとより、インド洋に遠征さえして金剛は戦いました。その戦記は色々 出ていますが、金剛沈没に関しては、海戦中ではなかったことや、戦局が大きく動いている時期で 注目度が低かったこと、前後に「大和」「武蔵」という二大戦艦が沈 んでおり、そちらに目が行ってしまう点など、あまり目にする機会がなかったので、ここの簡単に 纏めてみたいと思います。




「金剛」が最後に参加した海戦はレイテ海戦です。第一遊撃部隊・第一部隊・ 第三戦隊として、栗田艦隊の5隻の戦艦の一隻として参加しています。海戦は圧倒的な米 艦載機の攻撃にさらせれつつレイテ湾に突っ込みましたが、途中で反転、参加艦艇の半数を喪失す るという被害を受けつつ、終了しました。この間、金剛は米護衛空母「ガンビア ・ベイ」に砲撃戦を実施しましたが、帰路に米艦載機の空襲を受け、至近弾による被害を 受けています。

「金剛」は、を10月22日に出撃、10月28日に満身創痍の艦隊とともにブルネイ泊地に帰還しました。既に レイテを始めとするフィリピン全域の制海権・制空権は連合軍のものとなり、マニラに司令部を置く 南西方面艦隊は、激しい空襲で揮下艦艇を次々と失いつつ、レイテに向 けての増援部隊を計画していました。
この事から、僚艦「榛名」は重巡数隻とともに南方方面に残留して、レ イテ方面の支援につくこととなり、「金剛」「大和」「長門」の3隻が 内地に帰還することとなりました。もっとも「榛名」もこのあとすぐに蝕礁してしまい、修理のために 内地に帰還することになります。

この時期、連合艦隊はレイテで受けた被害より再建するために艦隊編成を変えています。エンガノ岬沖で 壊滅的被害を受け、第三艦隊・第三航空戦隊の空母四隻が沈んでおり、第 三艦隊は艦載機すら失って、無力化していました。また水上部隊の第二艦隊 も3戦艦を失い、艦隊も半減していました。
ここで既に戦力を失っていた第三艦隊と指揮下の第一機動艦隊を解体し、第 三艦隊に所属していた「伊勢」「日向」を第二艦隊に移しました。残存空母 は連合艦隊付属として第一航空戦隊を置き、ここに残った空母( 「信濃」「雲竜」「天城」「葛城」「隼鷹」「龍鳳」)を集め、空母部隊の再建を図り、生き 残りの少なくなった水雷戦隊は、機動部隊直援部隊だった第十戦隊を解体して、 第一・第二水雷戦隊へと分散しました。
第二艦隊には全戦艦と重巡を集中して、第二水雷戦隊を回し、南方防衛とフィリピンの支援には 第五艦隊を使用することとなりました。この部隊には重巡「足柄」と 第一水雷戦隊が配備されています。もっとも南方防衛は南西方面艦隊が指揮を取ることになっていたので、 第五艦隊はこの下に入り、さらに第四航空戦隊の「伊勢」「日向」、 第五戦隊の妙高級と高雄級も指揮下に入れました。
ちなみに20年1月1日付けで第二艦隊もさらに編成変えを実施し、第一航空戦隊を指揮下に入れて、 空母機動部隊となっています。ただし、母艦航空隊は壊滅状態でしたが。

めまぐるしく変わる艦隊編成は、この時期の大消耗戦の結果でした。第一・第二水雷戦隊はレイテ輸送の 「多号」作戦に参加して、駆逐艦をすり減らしており(第二水雷戦隊にいたっては司令部ごと全滅しました)、 再建に務めていた一航戦も「信濃」「雲竜」と潜水艦に撃沈され、再建どころか壊滅の危機に晒されていました。
第二艦隊はその主力を内地に置いて、フィリピン戦後の連合軍の侵攻に備えることとなります。そのために、 ブルネイに集まった戦艦群のうち、3隻が内地に帰還することとなったのです。




レイテ海戦後に引き揚げて来たブルネイ泊地も、既に米空軍の空襲圏下に入っており、11月16日に は艦隊を目標としたB24とP38の空襲がありました。この日に3戦艦の内地帰還が発令されていま す。

すでに南シナ海は、米潜水艦の土俵となっており、3戦艦の護衛にはこれまで水上部隊の名門水雷戦隊として 活躍してきた第二水雷戦隊があたることになりました。以下にその艦隊編成 を挙げます。

第二艦隊(栗田武雄中将)
独立旗艦
「大和」
第三戦隊(鈴木義尾中将)
「長門」「金剛」
第二水雷戦隊(第十戦隊司令、木村進少将が代理指揮)
「矢矧」第十七駆逐隊「浦風」「浜風」「磯風」「雪風」
第三一駆逐隊
「梅」「桐」
上記艦隊のうち、第三一駆逐隊は本来は二水戦の指揮下にはなく、途中の台湾まで同行して護衛につくこと になっていました。全10隻の艦隊ですが、駆逐艦の数の少ないところが問題でした。しかしながらどの戦線 でも駆逐艦が不足している状態では、この数を揃えるのがやっとのことでした。




艦隊は10月16日にブルネイ泊地を出港、「矢矧」「金剛」「大和」「長門」の順で単縦陣を組み、両側に 駆逐艦を配する形で18ノットの艦隊速力で北上しました。その頃台湾では米機動部隊の来襲があり、これに 襲われないようやや艦隊を西より、大陸側に這わすような航路を選んでいます。
最も警戒すべきバシー海峡を、台風で波の荒れた状態の時に突破して、この時点で三一駆の駆逐艦2隻を台湾 に分離しました。既に道中の過半を越え、そろそろ本土の声が上がりはじめた時に潜水艦の雷撃を受けたのです。

この第二艦隊に襲い掛かった潜水艦は、第三艦隊所属の「シー ライオン」で、艦長はE・T・リーチ中佐でした。これまで、敷設艦 「白鷹」を撃沈したこともある熟練潜水艦です。この時期はバシー東方を哨戒圏 として商船狩りを行なっていました。

バシー海峡を抜けた第二艦隊はそのまま北上し、空襲に警戒しながら台湾西方を台湾と中国の間にある台湾海峡 を抜けるために北上していました。このときの陣形は主力艦の単縦陣の右に「浦風」「雪風」、東に「磯風」 「浜風」と並んでいました。
荒れた海の中、延々を浮上追跡をしていた「シーライオン」は、当初先頭の「矢矧」を狙っていましたが、途中 で大物狙いと変え、二番艦の「金剛」に向け2700メートルの距離から6本の魚雷を発射しました。時間は1 1月21日の午前二時五六分です。3分後にさらに3本の魚雷を発射し、その60秒に命中しました。

「金剛」に命中したのは艦首錨鎖庫の下と二番煙突のあたりです。2本の魚雷(4本の説もあります)が命中し、 その直後にあとで発射された3本のの魚雷が「長門」の艦首をかすめ、「浦風」に一本当たりました。「浦風」は この魚雷で轟沈しています。
当初、金剛に命中した魚雷の数からして、艦首脳部もそれほど心配しておらず、乗組員も副砲や機銃で艦周辺の 海上を掃射していました。しかし潜水艦の連続攻撃をさけるために18ノットでしばらく進んでいたこと、老朽艦 のためにあちこちにリベットの緩い場所があった点等より、浸水は止まらず、間もなく14度まで左舷に傾いてし まいました。
この時点では艦隊主力より分離して「磯風」「浜風」が護衛につき、近くにあった基隆に入港することとし、6ノ ットで這うように前進していました。艦内の浸水個所には応急決死隊が駆けつけて、必死の作業に当たりましたが 間もなく傾斜が45度を越え、ラッタルを上がることも難しくなりました。
浸水がすすみ機関も停止した時、「総員右舷ニ寄レ」が発令されました。ただ、この時点で艦内に残った 乗組員は傾斜のために上甲板にあがることがほぼ不可能となっていました。
その後すぐに、「軍艦旗オロシ方」が発令され、傾斜60度の時点で「総員退艦」が発令されました。この時点で 「シーライオン」は落伍した「金剛」を追跡しており、魚雷の次発装填も終了していました。

「金剛」が沈んだのは基隆北西60海里の地点で、生存者は副砲長高畑少佐以下237名、鈴木司令官、島崎艦長 以下1300名余りは艦と共に沈みました。
傾斜が進み、第一砲塔の弾薬庫の中で主砲弾が横倒しになり、誘爆したのが止めとなりました。追跡にしていた 「シーライオン」は遠方、月一つない闇夜の中に火柱を確認して、攻撃を中止、先行した艦隊主力の追跡に入りまし た。
艦隊主力は23日に本土着、「長門」はそのまま駆逐艦3隻に護衛され横須賀に向い、一七駆の3隻はその帰路に空母 「信濃」の護衛につくこととなります。「榛名」も「隼鷹」とともに12月に本土に帰還してきましたが、既に 戦隊を組むべき僚艦は、呉にはいなかったのです。

2000/2/5



主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜

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