〜研究作文其の五〜 硫黄島築城論




太平洋戦争で最も激しい島嶼戦が行われた島「硫黄島」は、その特異な戦場でも知られています。 空と海と地上を支配した米軍に対して、日本守備隊はあらかじめ構築した地下陣地によって、抵抗 したのです。その結果は、猫の額のようなちっぽけな島で一月も抵抗戦を繰り広げ、2万数千の損害 を米軍に与える事ができたことから理解できるように、ひじょうに理にかなったものでした。
硫黄島は東京から1250キロ南下した地点の硫黄島諸島の真ん中にあります。諸島には他に北硫黄 島、南硫黄島とあり、そのうち硫黄島と北硫黄島に守備隊が編成されました。亜熱帯気候に属してお り、草原と密林に覆われた平坦な島です。島でもっとも標高が高いのは南にある擂鉢山で、それでも 200メートル程度しかありません。現在では、日本軍が造営した旧第二飛行場を拡張する形で米艦 載機用の飛行場があり、天山付近にアメリカのロテンステーションが、玉名山の南に海自の基地隊が あります。戦争前は約1000人の住民が住んでいましたが、現在では居住者は軍、自衛隊関係者以 外はいない状態です。
その地形の特色として、火山島であるために全島各所から硫黄分を含んだ蒸気が吹き出している事、 火山質から来る固い岩盤が挙げられます。この岩盤は地下陣地を構築する際の苦労の元となったもの ですが、逆に戦闘開始後は予想以上の防御力を提供してくれました。

この硫黄島が航空作戦のポイントとなることが認識されたのが、昭和10年の海軍演習の際です。軍 縮条約の影響で、硫黄島には軍事施設は建設されていませんでしたが、第一飛行場(千鳥飛行場)付近 に滑走路を仮設して空母艦載機の発着に使用しました。さらに太平洋戦争勃発後、南方戦線と本土を結 ぶ航空輸送路の中継地点としての重要性が増し、まず第一飛行場が建設されました。これによって、 本土〜硫黄島〜サイパン〜トラック〜ラバウルという航空線が確立されました。

開戦当初から硫黄島は海軍の管轄下にありました。父島の特別根拠地隊の指揮下にあり、防空部隊がおよ そ100名、あとは施設部隊と若干の陸軍部隊(父島要塞所属の工兵小隊)もありました。硫黄島の防備 の強化が始まったのが、昭和19年3月からです。硫黄島警備隊が設 置され、指揮官として和知恒蔵大佐が2千名の揮下兵力とともに着任し ました。この時より硫黄島の要塞化が始まります。この時に硫黄島に配備された火力は、12.7センチ高角砲 が28門、25ミリ機銃が約150丁、14及び15センチ平射砲が各4門、12センチ砲が若干でした。
この時期の硫黄島の守備体勢は、サイパンを始めとするマリアナ諸島航空基地群の後詰めの位置付けを受 けており、第一、第二飛行場に来襲する米艦載機に対して、基地邀撃機とともに迎撃にあたる防空陣地と、 万一、米軍が来襲した場合に備えて、水際撃滅のための海岸線トーチカが中心でした。

さて、海軍はこうして防備を着々と固めていきましたが、陸軍はどうだったのでしょうか。陸軍側としても 本土防空の責任があり、硫黄島が陥落すると帝都東京が空襲を受ける事になるという事は熟知していました。 当初の大本営の作戦方針としては、ここに海軍の第三航空艦隊を配備して、航空要塞として、防備を固める 予定でしたが、マリアナ・台湾沖・レイテと航空戦力を消耗し、とても航空隊を配備する余力がありません でした。硫黄島は最初はマリアナ決戦の一翼を担っていた為、マリアナ防備の第三十一軍の指揮下にあった のですが、マリアナ失陥と三十一軍の玉砕のため、新設された小笠原兵団 の指揮下に入る事となりました。

小笠原兵団は小笠原諸島及び、硫黄島列島の守備を任務としていました。マリアナ失陥により、東京〜マリ アナ間のちょうど中間にある硫黄島は、米軍の意図する戦略爆撃の要となるところです。日本側としても、 邀撃基地として、また本土爆撃の前哨地点として極めて重要でした。
しかしながら、重要地点としての守備固めが始まったのは昭和19年からです。この守備体勢の遅さはどこ から来たのでしょうか。硫黄島に注目していたのは海軍ですが、海軍の戦略姿勢は戦艦部隊と夜戦部隊を利 用した艦隊決戦でした。当初は本土近海、のちにマリアナ決戦と決戦地は移動しましたが、水上艦隊を利用 した決戦には変わりありません。そして、このことから重要視されたのが小規模とはいえ、適当な泊地があ り、東京湾を守備する上で重要な要地に位置した父島だったのです。父島には明治の頃から要塞が建設され、 小笠原兵団の当初の設置位置も父島でした。
それに対して、硫黄島は大型船を発着させる桟橋もなく、実際に守備隊を輸送する際も、まず父島に輸送船 で運搬し、そこから小型の舟艇で母島経由で反復輸送しなければなりませんでした。この点から、よく硫黄 島にあれだけの火力を集める事ができたな、と関心する点でもあります。
この点を考えてみると、太平洋戦争開始まで硫黄島には大した関心が向けられていなかったことがわかりま す。実際に硫黄島には昭和19年の一時期しか航空部隊は配備されませんでした。配備する部隊も枯渇して いたという点もありますが、大本営が硫黄島の重要性に気付いた時点では、既に手後れだったということに なります。大本営の観点では、マリアナ決戦の後方基地→米機動部隊を迎え撃つ邀撃基地→本土防備のため の時間稼ぎ、と硫黄島の位置付けが変わってきます。最も、硫黄島を攻略された時点で、ほぼ戦争の負けは 確定しましたが。

硫黄島を有力な航空基地として日本側は利用できませんでしたが、その重要性に変化はありません。むしろ、 米軍の戦略爆撃の中継基地として利用された場合の危険はますます認識されていきました。



マーシャルの連合軍が侵攻したことにより、マリアナの防御が急がれるようになった昭和19年初頭、小笠原 諸島に対しても、急速防備が急がれるようになりました。2月5日に大陸命第九三二号 が発令され、内地の留守師団より数個の要塞歩兵隊が編成されて父島を中心に配備されました。要塞歩兵隊は 甲・乙の編成があり、甲が大隊編成、乙が中隊編成でした。この時は約4個大隊と砲兵・工兵が編成されています。

さらに2月21日には大陸命九五〇号が発令されて、甲編成の要塞歩兵隊が5個、小笠原に 増派されることとなりました。これはトラック空襲やマーシャルの戦況悪化による後方防備の重要性が遅まきながら 認識されたことによります。

マリアナへの連合軍侵攻が旦夕に迫ったことにより、3月10日に第三十一軍の統帥が発動し、 小笠原諸島はそれまでの防衛総司令官の管轄下から三十一軍の指揮下となります。
この際、小笠原諸島の防衛方針が決定され、第一の防御要点が「硫黄島」、第二が「父島」となりました。 この時点で硫黄島には資材の最優先が明記されており、重要部は戦艦の艦砲射撃にも耐えられるようにとの 指示が出ています。ただし、この段階では防御方針は「水際撃滅」作戦一本であり、海岸線に強固な防御・障害物 を敷設・建設して、上陸軍を一歩もあげない作戦としています。
また、この段階で設置された前述の硫黄島警備隊は、中部太平洋方面艦隊 (南雲忠一中将)の指揮下に入っています。

3月15日に父島要塞司令官、大須賀應少将は主力を父島に展開しつつ、有力な一支隊をもって 硫黄島を守備するために、伊支隊を編成して、硫黄島の守備に当たらせることとしました。伊支隊 の編成は以下の通りです。

伊支隊 (厚地兼彦大佐指揮)
総勢5000名弱のこの部隊は3月中旬より順次硫黄島に上陸、陣地構築に入りました。すでに配備についていた海軍部隊と 共に陣地構築にかかった伊支隊ですが、海岸線を7つの区分に分け、それぞれに要塞歩兵隊を配備して、水際陣地構築に取り掛かり ました。



この伊支隊をはじめとして、この時期中部太平洋に投入された諸部隊は本土・満州から随時抽出された部隊よりなっており、その所属 ・指揮範囲は複雑を極めていました。そこで各部隊は混成旅団・混成連隊等に改編されることになり、さらに小笠原防衛のための部隊 は、その所属部隊をもって第一〇九師団として改変されることとなりました。その隷下の部隊中、父島の 部隊は混成第一旅団とし、硫黄島在島の部隊は混成第二旅団に改編されました。

この時点で、各要塞歩兵隊等は独立大隊に改称・統合され、指揮が円滑に実施できるようにし、さらに師団長に就任した 栗林忠通中将は、その師団司令部を父島から硫黄島に進出させました。これは連合軍の最重要目標が硫黄島であるとの判断から、 硫黄島において、迎撃戦を直接指揮するために司令部を前進させたと言われています。

伊支隊では5月末より、水際陣地の他に後方の永久築城に取り掛かっていましたが、6月8日に栗林師団長が硫黄島に進出、 揮下の防御方針をそれまでの水際防御より、後方縦深陣地を利用した永久築城線を持って防御戦を展開することとしました。
この複郭陣地による内陸防御に転換した理由は、マーシャル・サイパン島での戦訓によるもので、水際第一線陣地が連合軍 の艦砲射撃・空爆により短期間で崩壊し、防御部隊主力が本来の力を発揮できないまま、戦力を喪失したことによります。 6月15日にサイパン島に連合軍が上陸したことにより、この時期には島嶼防御の戦訓がもたらされており、それに伴った 内陸での艦砲・爆撃を避けうる堅牢な陣地と充分な遮蔽が必要を判断されたためです。



内陸防御に方針変更した一〇九師団ですが、海軍側では硫黄島の航空基地としての重要性、そして連合軍側に飛行場を与えない為に 水際防御を主張しました。そもそも海軍側では既にかなりの数の水際陣地(トーチカ等)を建設しており、海岸砲台も擂鉢山や北部 海岸線に建設をほぼ終了していたのです。
この陸海軍の防御方針の差を統一させるために、8月11日に陸海軍の会議が実施されました。陸軍側は一〇九師団幕僚、海軍側は 第三航空艦隊、浦辺聖中佐と、市丸利乃助少将以下第二七航空戦隊の幕僚が 話し合いを持ちました。激しい議論の結果、基本的には内陸防御方針で陸海軍は戦備を進める、ただし、東西両 面の上陸可能海岸線より千鳥飛行場に関しては、水際に堅牢なトーチカ陣地を建設し、極力、米軍の飛行場利用を妨げると いう折衷案でまとまりました。

このような折衷案が出た背景には、海軍が資材を提供してくれるのなら、兵員を配備して有効利用ができ ること、水際線に有力な陣地があると見せかけて、本来の兵力配置の欺瞞となること等があったようです。こうして、 方針が固まった陸海軍では、複郭陣地構築に全力を傾けることとなりました。




硫黄島陣地の特徴として、徹底的な地下洞窟陣地の構築にあります。全兵力を地下に潜らせて、連合軍の砲爆撃より極力戦力を 保持するという方針のもと、地下洞窟は兵団全部をもって急速に掘り進められました。
7月に第1期工事を終了、10月末に第2期工事を終了し、一応の地下陣地の設営を終え、さらに各陣地の連絡壕を建設を完成させ るために、第4期工事を発令し、20年2月を目処に全島の地下連絡化を目標としました。この工事が終る直前に米海兵隊が硫黄島 に押し寄せたのです。
米軍上陸時に完成していた地下要塞は、
●水際トーチカ・・・135個が建設され、うち、24個が完成、あとはほぼ完成状態。水際100〜150メートル の地点に100メートル間隔で設営し、250キロ爆弾に耐える耐久力があった。

●兵団司令部・・・地下20メートルに建設され、兵団主通信所には20機の通信機が設置され、兵団幕僚や 兵団経理部、軍医部等の諸施設が完備していました。

●各火点・・・重砲等の火点は貴重なセメント、鉄筋等を優先して使用しました。もっとも資材が足りず、 周壁は堅牢な岩壁を利用し、天蓋だけセメントとしていました。重火点を中心に軽機の軽掩蓋、歩兵用のたこつぼと立射の可能な深さ まで掘られた散兵壕を建設し、さらにその周囲には縦横に対戦車壕を掘っていました。
硫黄島は火山島であるため、地形の隆起が激しく、その複雑な地形が天然の対戦車壕となり、米軍の進出を阻んだのも強固な防御力の 一因となっています。

●連絡壕・・・19年末より各拠点を結ぶための長距離連絡壕が建設されました。基本的には地下トンネルとし、 地形・岩盤の状況等、無理な地点のみ地上露出としています。被爆の被害防止のため、30メートル以上の直線は作らず、入り口では必ず 屈曲させることとしました。
地下掘削は機械類が乏しく、基本的に手作業で進みましたが、地熱・硫黄気等が作業を阻害し、工事にはひじょうな苦心が伴いました。
これらの工事が比較的進捗したのは、 土丹岩のため、掘削が比較的容易だったこと、また、これらの作業にもと要塞工兵だった混成第一旅団工兵隊(工兵第一中隊) 、混成第二旅団工兵隊(工兵第二中隊)、工兵第二中隊等や、要塞建築勤務第五中隊等の築城専門の工兵中隊が兵団 工兵隊(長、前川少佐)という組織のなかで一元運用 され、効果的に運用されたことが挙げられます。
米軍上陸時、連絡壕はほぼ40%が完成し、北部主陣地では連絡線が確保されて、効果的な防御戦が展開される一因となりました。

完全な陣地帯の建設まではいきませんでしたが、それまでのどの島嶼戦よりも準備の整った状態で硫黄島の戦いは始まりました。そして、この陣地 がその後の日本軍の善戦を支える最大の要因となったのです。

1999/12/19



主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜

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