〜研究作文其の四四〜

軽巡「大井」の最後について


太平洋戦争で日本海軍の軽巡の主力となったのは、5500トン級と呼ばれる14隻の軽巡達でした。
この大戦で投入された日本軽巡は、天龍級2隻、夕張級1隻、5500トン級14隻、阿賀野級4隻、大淀級1隻、香取級3隻のあわせて24隻。そのほとんどは激しい戦闘の最中、海底へと沈んでいきました。
そんな中、砲戦、水雷戦、防空戦、対潜戦、輸送任務と、便利に使われたのが5500トン級です。太平洋戦争のほぼ全戦域に出撃し、艦隊の中にはほとんど必ず数隻の姿を見ることが出来ました。
今回はそんな5500トン級でも、名前に比べて比較的戦歴の知られていない「大井」について、まとめてみたいと思います。




1.緒戦の大井の戦歴

八八艦隊計画が推進されていた1910年代後半、主力となる戦艦、巡洋戦艦各8隻の露払いとして、大型駆逐艦による水雷戦隊の編成が考えられていました。
当時の駆逐艦は大型といっても艦型も小さく、通信指揮設備が強力で敵艦隊へ突入するときに大火力の援護射撃で突破口を開いてやる旗艦が必要でした。そして大正5年度計画で誕生したのが、「天龍」型軽巡洋艦です。

さらに巡洋艦を増やそうと、八八艦隊の前身計画である、八四艦隊が計画された際に、小型6隻、大型3隻の巡洋艦建造が計画に盛り込まれていました。これらは上記、水雷戦隊旗艦の任につけるべく計画されたものです。もっとも大型のほうは、オマハ級と殴りあう為に計画されたものですが。
そうこうしているうちに建造計画はどんどん大型化していき、八四から八六艦隊計画に進化した際には、この巡洋艦計画は5500トン級9隻に変更されました。小型巡洋艦(3500トン級の改天龍型)では、小さすぎて列強の新巡洋艦には対抗できないと思われたからです。しかし、大型(7000トンオーバー)では建造費がかかって仕方ありません。結局、中間くらいの大きさの5500トンが新たに考え出されたのです。

球磨級と名付けられたこの新巡洋艦は、その後14隻もの大量生産がされ、日本海軍軽巡洋艦のスタンダードタイプとなりました。14隻は最初の5隻が球磨型、次の6隻が長良型、最後の3隻が川内型と、ちょっとずつ違いますが、基本性能はほとんど一緒です。
準同型艦含めて14隻もの5500トン姉妹は、日本海軍の艦隊あるところ、どこでも見かけることができました。そんな中の1隻、「大井」が本章の主役です。



大正8年(1919年)11月24日に「球磨」型4番艦として神戸川崎造船所で起工された「大井」は、翌1920年に進水、1921年10月3日に竣工しました。
三年式14センチ単装砲7基と六年式連装発射管4基を主武装としたシンプルな艦形の「大井」は、大正時代の間は、中国沿岸やシベリア海域に出動したりしていましたが、昭和に入ってから長らく兵学校や潜水学校の練習艦として使われるようになりました。球磨型の艦橋には艦載機を1機搭載するための格納庫があるのですが、「木曽」以外はほとんど使っていなかった為、このスペースを講堂として利用していました。
「大井」が練習艦として利用されていた時期はかなり長く、昭和3年(1928)から開戦直前まで一時期連合艦隊に所属して出動した以外は、ほとんどが練習艦として使用されています。これは「大井」の機関の調子が思わしくなく、第一線では使いづらかったというのも影響しています。

この間の「大井」の特筆事項としては、上海事変の際に陸戦隊の輸送に参加したことや、1935年の第四艦隊事件の際に艦首を失った「初春」を曳航したくらいでしょうか。
呉にいくとのんびり停泊している巡洋艦の1隻として、よく見かけることのできる艦でした。ちなみにこの時期に艦長をしていた著名な士官としては、のちの第十一航空艦隊司令長官である塚原に二四三大佐第五艦隊司令長官となった志麻清英大佐等がいます。


そんな「大井」の運命が急転したのは1940年です。1935年に有名な酸素魚雷である九三式魚雷が正式化され、それまでの魚雷とは速度、射程、弾頭威力とも大きく向上した魚雷を利用した新戦術が考案されました。有名な重雷装艦です。
それまでの肉薄必中戦術から遠距離飽和攻撃に魚雷戦術がシフトし、1937年の出師準備計画で球磨型の3隻(「大井」「北上」「木曽」)が改装予定艦とされました。
1940年11月に発令された出師準備により、「大井」「北上」の重雷装艦への改装が指示され(「木曽」が改装から外れた理由は不明です。重雷装艦戦術に対する確信がなかったことや、改装用の魚雷発射管の集積が2隻分しかなかった等の説がありますが、どれも確証は持てていません。今後の研究対象ですね)、「大井」は1941年1月からの特定修理に合わせて改装が実施されました。

この間に艦長は後の大和艦長である森下信衛大佐が着任し、改装完了後の1941年11月20日に「北上」ともに第一艦隊第九戦隊に配属されました。司令官は岸福治少将です。
重雷装艦としての「大井」は色々な書物に掲載されていてあまりに有名なのですが、後部の3基の主砲と連装発射管全部をおろし、代わりに片舷5基ずつの4連装魚雷発射管を搭載するというものです。第一艦橋から後ろにはずらりと魚雷発射管が並び、合計40本の酸素魚雷を搭載する強力な水雷艦艇として生まれ変わりました。
この状態で、「大井」は開戦を迎えます。



開戦したからの「大井」ですが、その魚雷戦力を発揮する場面にはまったく出会えませんでした。重雷装艦としての初陣はミッドウェー海戦ですが、本隊についていっただけですし、まもなくソロモンの激戦に派遣されることになりましたが、島嶼地区であるソロモン海域で両軍艦隊が舷々合間す艦隊決戦が起こるとは思えません。
1942年9月に舞鶴第四特別陸戦隊を南東方面に輸送する為、横須賀からソロモン海域に出撃していますが、この際に輸送能力向上の為、片舷5基の発射管のうち1基を下ろしています。そして南東方面に出撃している間に連合艦隊の期待を背負って編成された第九戦隊は解隊されてしまいました(1942年11月20日)。丁度一年だけ編成されていた戦隊でしたが、結局戦局には何ら貢献できませんでした。
(1943年3月14日解隊ともあります。資料によってどちらもあちこちに記載されているなぁ)

その後の「大井」はまさに高速輸送艦としての活躍を続けます。1943年には、マニラ・パラオ・ウエワクと駆けずりまわった後に、南西方面艦隊第十六戦隊に配属になりました。東南アジア方面の主力巡洋艦戦隊で、あちこちから5500トン級が集まってきて、さながら同窓会のようです。
第十六戦隊が南西方面で活動していた時期に所属したことのある5500トン級は、「球磨」「長良」「名取」「鬼怒」「五十鈴」、それに第九戦隊にいた2隻です。
もっとも、「大井」が編入されてきた時期には、「五十鈴」はソロモン方面に編成変えになってましたし、「長良」第十戦隊旗艦になり、「名取」は損傷して修理する為に内地に向かっていました。
残ったのは4隻だけで、これらの艦で南西方面の様々な作戦を続けていくことになります。


1943年の「大井」の活動は南西方面での輸送作戦、たまにオーストラリア方面から出撃してくる爆撃機との対空戦闘です。いちいち書いていると切りがありませんので、主な輸送任務地だけ。
シンガポール、ペナン、マカッサル、ザンボアンガ、カーニコバル、リンガ、スラバヤ、ポートブレア等々。兵員や補給物資をフラットな甲板に積み上げて、輸送艦として使用されていました。対潜・対空防御が自前でできるため、ひじょうに重宝されています。
この時期、高速輸送艦としての能力をさらに上げようと、「大井」には改装計画まで持ち上がっています。さらに4基の発射管をおろし、大発等を搭載した挙句、不要な機関も陸揚げしてしまう、というものです。予定速力は29ノットだったそうですが、それでも高速すぎるくらいの輸送艦です。
結局余裕がなくて流れてしまいましたが。


この時期の「大井」の特筆事項としては1944年2月に実施されたインド洋通商破壊戦に参加したことくらいでしょうか。といっても特筆すべき戦果は特にあがっていません。




2.大井の最後

1944年になり戦局はいよいよ逼迫してきました。それに伴い「大井」の輸送作戦の先も、ソロンやダバオといったこれまでなかった予想戦場地区への戦力輸送が増えていきます。
マリアナで大海戦が繰り広げられ、そしてサイパン失陥が確定的になった時期、次期戦場となるフィリピンへの輸送が急速に重要になりました。「大井」の任務はマレー半島に展開していた陸軍部隊をマニラ方面に輸送することが多かったのですが、1944年7月に南西方面艦隊司令部のマニラ輸送が命じられます。
「大井」は1944年2月にもスラバヤへの司令部輸送を実施しており、これが二度目の司令部移動任務です。
この時の艦長は、柴勝男大佐でした。


1944年7月6日にスラバヤの南西方面艦隊司令部(司令長官:三川軍一中将)を搭載し、シンガポールを経由して1944年7月16日に無事マニラに到着しました。
輸送作戦終了後、7月18日早朝にマニラを出港してシンガポールの第十六戦隊に合流しようとしていましたが、一緒に行動していた「敷波」の機関が故障し(重油に海水が混入)、一旦マニラ湾内に停泊することになりました。
午後には「敷波」も復旧してマニラ湾を出ましたが、当日はルソン西方海上に台風があり、かなりの荒れ模様となっていました。対潜警戒序列を2隻で組みながら22ノットで進んでいたのですが、あまりの荒天に「敷波」が速力を維持できず、已む無く20ノットに落としています。
19日に入ると、益々天候は悪化し、「敷波」の姿すら風雨で見失う状態だったので、18ノットまで速力をさらに低下させました。海面状況も悪く、敵潜の雷跡も発見困難な状態でした。


1944年7月19日12時14分に「大井」艦橋見張長と掌航海長より「雷跡艦尾近い」の報告があり、面舵回頭を実施しますが、舵が効く前に左舷機関室付近に魚雷が1本命中しました。発射したのは米潜水艦「フラッシャー」です。
護衛していた「敷波」が爆雷による制圧攻撃を実施している間に、後部機械室の閉鎖と前部区画への注水を実施しますが、後部機械室からは火災が発生し、前部機械室からも蒸気漏れが発生しました。
なんとか前部機械室だけは使用可能でしたが、波浪大にして損傷部への進水も懸念された為(少しだけ動かしたら、振動が大きく、すぐに停止しています)、「大井」は完全に停止し、損傷部の防水と排水に務めていました。
修理中の14時30分に左舷から再度雷撃を受けましたが、これは幸いにして外れ、「敷波」が再び爆雷制圧を行ないました。この際に「大井」も潜伏海面に向けて、前部主砲による制圧射撃を実施しています。

16時になり風雨が益々激しくなり、已む無く「敷波」によるマニラへの曳航作業を実施することになります。17時なり曳航準備が完了し、主砲から制圧射撃を実施しながら曳航を開始しようとしていましたが、17時25分に被雷場所から艦体が切断しました(後部兵員の大半はその直前に艦前部に移動済)。
17時26分、総員上甲板下令。
17時28分、総員退去下令。
切断された部分から右舷に傾きつつ艦が沈む中、「大井」の艦載艇と「敷波」の内火艇をもって救助を開始しましたが、その直後に艦首を突き立てて「大井」は沈没し、甲板にいた乗員は海中に放り出されました。
激しい風雨の中ですが、幸い救助活動は迅速に進み、艦長以下368名の救助に成功しています。
戦死は准士官以上15名、下士官兵136名でした。


この沈没時ですが、重雷装艦の主装備たる4連装魚雷発射管は8基装備されていました。うち、7、8番連管が魚雷命中時に吹き飛んで海に落ちてしまい、6番連管も旋回不可能となっています。残存魚雷は空気装置が故障していた為、手作業で海中に投棄しました。誘爆等は発生しなかったようです。

「大井」は結局1本の魚雷命中で沈んでしまいましたが、これは命中個所が悪かったこと(機関室を貫いています)、艦内閉鎖が完全になっていなかったこと、何より荒天のため、応急作業が阻害されたことが上げられます。
また、沈没時に水中聴音機や水中探信儀、電探未装備の為、積極的な敵潜水艦発見活動が取れませんでした。装備予定はありましたが、行動予定上まだ未装備だったのです。


「大井」の沈没は、マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦の間に発生しており、直前の輸送作戦が完了した帰還時での出来事だった為、ほとんど知られていません。僚艦である「北上」はこの後、回天搭載艦という特殊艦に改装されて、色々なところで名前を見ることができますが、「大井」はほとんど海戦にも参加したことがなく、あまり名前を見ることもありません。
沈没時にも重雷装艦装備(発射管32射線分)であったことから、日本で唯一戦没した重雷装艦として、簡単まとめてみました。






後書き
「熊野」をまとめた時に「大井」の資料も収集していたのですが、結局UPするのはこんなに遅くなってしまいました。しかもあまりに薄い内容です。色々調べてみたのですが、あまり書く事のない艦だったというのはあります。主な部分は「鬼怒」の時に記載しているので、あまり被らないようにしましたし。
5500トン級は他にも資料を収集しているので、近日中にもう1隻くらいはUPできるかな?と思いつつ、「大井」ももう少し調査して書き足したいと考えています。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「『丸』1995年5月号」/潮書房/1995
  • 「連合艦隊海空戦戦闘詳報(6)軽巡戦記」/アテネ書房/1996
  • 「日本海軍艦艇写真集13」/光人社/1997


研究室へ戻ります