〜研究作文其の四三〜

重巡「熊野」の最後について


連合艦隊の最後の総力戦となった「捷一号作戦(レイテ海戦)」は、それまで勢力を維持していた日本重巡陣の墓場となりました。ミッドウェーで「三隈」が沈み、ソロモンで「加古」「古鷹」「衣笠」の3隻が南海に姿を消しましたが、主力の妙高級、高雄級、利根級は全艦健在で、最上級も3隻が元気に活動していました。
ところがレイテから帰還した連合艦隊からは、「鳥海」「愛宕」「摩耶」「筑摩」「最上」「鈴谷」の6隻の姿が消えていました。レイテ海戦に参加しなかった「青葉」も入れて14隻を誇っていた日本海軍重巡陣は、一気に勢力を半減させたのです。

上記6隻の最後については、レイテ海戦の書物で色々と紹介されており、比較的ご存知の方も多いと思います。しかし、レイテ海戦に生き残った後、武運拙くフィリピン海域で撃沈された2隻の重巡「那智」「熊野」については、あまり知られていません。
今回は、そのうちの1隻、最上級重巡洋艦「熊野」の最後の死闘について、簡単にまとめてみたいと思います。



1.レイテ海戦の熊野

1944年10月24日18時、シブヤン海で米艦載機の大空襲を受け、満足に動くことすら出来なくなった「武蔵」の横を、再び反転してレイテに向かう栗田艦隊が通過していきました。
戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15を誇った艦隊も、重巡「摩耶」「愛宕」の2隻が潜水艦の雷撃で沈み、「高雄」も雷撃で大破して「朝霜」「長波」の2隻を連れて離脱しました。「妙高」もシブヤン海での空襲時に魚雷1発を喰らって、ブルネイへ足を引きずり帰投していきました。

そして、大きく傾いた「武蔵」が、艦を守る為の最後の戦いを続けており、そのお供として「清霜」「浜風」がその場に残ることになりました。戦艦4、重巡6、軽巡2、駆逐艦11にまで戦力を落とした栗田艦隊は、言い知れぬ不安を抱きながら、武蔵の最後の姿を目に焼き付けることになりました。



その「武蔵」の横を通過していった部隊に第七戦隊もいました。第一遊撃部隊第一部隊と名付けられた栗田艦隊の3個の重巡戦隊の一つです。
白石万隆少将率いる第七戦隊は、重巡「鈴谷」「熊野」「利根」「筑摩」の4隻で編成され、これまでの死闘で次々と重巡が脱落していく中、4隻とも無事で編成を維持している唯一の重巡戦隊となっていました。

旗艦は「熊野」で、開戦からマレーやスマトラ、アンダマンやビルマの攻略戦を支援し、インド洋・ミッドウェー・第二次ソロモン・南太平洋・マリアナと大きな海戦の大半に参加した武勲艦です。
その間、空襲で損害を受けたこともありましたが、激しい戦闘の中でも沈むような状況に追い込まれたことはない幸運な艦でした。

この日の空襲も、対空戦闘で4機を落として損害なし、その戦闘力を維持しながら、25日未明にサンベルナルジノ海峡を突破し、翌日の戦いに備えていました。
艦長は人見錚一郎大佐、副長は真田雄二中佐で、約1100名の乗員がマリアナ沖海戦後に大幅に増備された対空装備を用い、激しい対空戦闘を継続していたのです。
25日は前日を上回る航空攻撃が予想されます。既に護衛の駆逐艦の1/3が戦線を離脱し、艦隊の残存艦も大なり小なり損害を受けている艦が多数います。そんな中でレイテまで突撃を継続することが出来るか、暗雲立ち込める中、「熊野」は翌朝に予想される空襲の再開を迎え撃つ為に、装備の整備・弾薬の補充に勤しんでいました。



11月25日の6時44分、夜明け後の薄暗い海面を突き進んでいた栗田艦隊は驚くべき報告を受けます。南東方向に艦載機を発艦中の米機動部隊を発見したのです。
朝からまた空襲を受けるつもりでいた栗田艦隊は喜び勇んで合戦準備を行い、戦艦群は主砲射撃を開始、7時3分には重巡にも突撃が下令されました。

栗田艦隊の突撃を受ける羽目になったのは、T・スプレイグ少将率いる第77.4任務群の護衛空母部隊でした。3つに分かれた護衛空母群の一番北にいた部隊、C・スプレイグ少将が指揮する護衛空母6、艦隊駆逐艦3、護衛駆逐艦4の艦隊が、砲火に晒されることになったのです。

これまで身を削られるような空襲に歯を食いしばって耐えてきたのは、この瞬間を演じる為。水平線遠く3万メートルの距離に空母(この時点では正規空母と思われていました。米護衛空母は小さいながらもアイランド艦橋を持っている為、遠距離では誤認することが考えられます)を補足した「熊野」は、米空母との間合いを詰めます。
護衛の駆逐艦が展開した煙幕が空母を覆い尽くし、目標が視認出来なくなった為、「熊野」は一気に速度を上げました。米空母のみを狙っていた「熊野」は、煙幕の中から日本艦隊の突進を阻止すべく飛び出してきた米駆逐艦など、目に入っていませんでした。

突撃をかけてくる日本巡洋艦群に対して、体を張って阻止を試みたのは、米フレッチャー級駆逐艦「ジョンストン」です。
日本艦隊の射撃から守ってくれる煙幕の外に飛び出し、日本艦隊に反航しながら5門の主砲の射撃を開始、さらに5連装発射菅2基から10本の魚雷も発射しました。その距離は約9000メートルで、回避運動もせず米空母に向けて一直線に突撃する「熊野」を射線に捉えていました。
7時25本、「熊野」は左舷に突進してくる3本の雷跡を発見、うち1本を避けることが出来ずに左舷艦首一番砲塔直前に命中、大音響とともに艦首錨孔より前を吹き飛ばされてしまいました。

大戦果を挙げた「ジョンストン」も、すぐに「榛名」から報復の主砲弾を浴びて艦上をボロボロにされ、その後第十戦隊「雪風」等、3駆逐艦の攻撃を受けて、レイテの海に沈んでいきました。

「熊野」は砲声響く洋上に停止を余儀なくされ、吹き飛んだ艦首の防水処置と、戦隊司令部の移乗が開始されました。
第七戦隊司令部は前方1キロほどを微速で進んでいる「鈴谷」にカッターで移乗することになり、護衛空母群から発進して洋上近くを銃爆撃しながら乱舞する米艦載機の中を漕ぎ出しました。
なんとか「鈴谷」に到着したカッターは、白石少将以下、5名の司令部要員を縄梯子で移乗させ始めましたが、その後すぐに「鈴谷」も空襲を受けて回避運動に移ったため、1名が移り損ね、「熊野」に戻ることになってしまいました。カッターは無事に「熊野」に帰還することが出来、必死の復旧作業も実を結んで、なんとか12ノット(14ノットという説もあります)で航行できるようになりました。



既にレイテへの突入能力を失った「熊野」は反転後退を開始しました。乱戦の最中、全艦が水上戦闘を繰り広げており、傷ついて帰ろうとする巡洋艦の護衛に付けられるような駆逐艦は1隻も存在しません。「熊野」は連合軍の空母機が乱舞するレイテ近海を、12ノットという速度で単艦で逃れることになったのです。

ただ1艦、西に向けて進んでいた「熊野」は、途中で友軍機に会います。最初は水上爆撃機「瑞雲」3機、続いて艦上攻撃機「天山」1機です。上空から見る「熊野」は艦首が吹き飛ばされて艦様が変わっていたのか、これらの機体は次々と「熊野」に襲い掛かりました。幸い、命中弾はありませんでしたが、友軍機の錬度も落ちていて、敵味方の識別すら満足に出来なくなっていることを、乗組員達は痛感したのです。

夕刻(17時15分頃)に雷爆連合35機が来襲し、「熊野」は防空戦闘を開始、前夜突破したサンベルナルジノ海峡で単艦死闘を繰り広げることになります。
行き足が落ちている「熊野」でしたが、的確な運動により魚雷と爆弾の全てを回避し、約30分に渡った空襲を切り抜けたのです。



翌10月26日、ミンドロ島の南辺りまで夜間のうちに移動することの出来た「熊野」ですが、朝8時過ぎに再び、米艦載機の空襲を受けます。戦雷爆合わせて30機の編隊は、次々と襲い掛かってきます。
うち3機の爆撃機が日の光を味方に直上から急降下し、次々と小型爆弾を投下、2番機の3発が艦橋左舷下部と一番煙突に命中しました。三番砲横にあった25ミリ機銃群が全滅し、艦橋左舷の高射器、高角測距儀も壊滅、水上電探室も大損害を受けました。
2個の煙突を繋いだ誘導煙突の前部に命中した1発は、煙突を破壊し、その鋼鈑は横の高角砲に垂れ下がるような状況となってしまいました。この被害で40名以上が戦死しています。

煙突の被害は缶室にまで及び、「熊野」は航行不能に陥って1時間以上の漂流をすることになりました。
この空襲ではこれ以外の被害がなかったのですが、その後すぐに15機の雷撃機の空襲を受けます。主砲と高角砲の全てを集めて、雷撃運動を開始した米艦載機の鼻先に射弾を集中し、雷撃照準を狂わすことで、何とか命中弾なしで切り抜けることが出来ました。

10時過ぎに何とか応急作業が成功して、10ノット程度の速力を出せるようになり、必死の思いでコロン湾に這い進みます。途中の15時に、やはりレイテから後退してきた重巡「足柄」と駆逐艦「霞」と合同することが出来、その援護の元、コロン水道を突破しました。

16時05分にコロン湾に入港し、先に補給の為に到着していた油槽船「日栄丸」から燃料補給を受けます。コロン湾にはやはり撤退してきた重巡「那智」も入港しており、護衛を命じられて「熊野」を追いかけてきた駆逐艦「沖波」も入港してきて、ようやく人心地つける状況になりました。

コロンの横にある西水道は、比較的狭く回避運動に向きません。そのため、月没までに何とか突破する為、燃料補給後の23時45分に「熊野」はコロンをいそいそを出航しました。燃料補給を受けていた「沖波」と2時30分に合同し、その護衛を受けて、10月28日6時にマニラにたどり着くことが出来ました。



レイテ海戦は日本の惨敗に終わり、戦い終わった後のマニラには、傷ついた重巡「青葉」「那智」が入港していました。連合艦隊司令長官から、「マニラで応急修理を実施し、内地に回航」の命令を受けていた「熊野」は、すぐに修理に取り掛からなければなりません。

ところが艦首を吹き飛ばされていた「熊野」は主錨を失っており、まともに投錨することが出来ません。そこでマニラに入港していた特務艦「隠戸」に横付して、マニラ第103工作部に応急修理をしてもらうことになりました。
メチャクチャになった艦首を成形して防水処置を行ない、26日の空襲で煙突に貰った命中弾のため、ほとんど全部がおかしくなっていた8基ある缶のうち、半分の4基を整備するという作業です。
必死の整備作業の結果、11月3日にはマニラ湾内にで公試運転を行なえるようにまで回復し、速力もなんとか15ノットくらいまで出るようになりました。



この時までにレイテ海戦に参加した同型艦の「最上」「鈴谷」は、レイテの海に姿を消しており、開戦時に4隻を誇った最上級は「熊野」1隻 を残すのみになってしまいました。
条約時代に日本海軍の期待を一身に背負った当時では、想像も出来ないような状態となっていたのです。


「熊野」は最上級の4番艦として、1937年10月31日に神戸川崎造船所で竣工しました。最上級は60口径3連装の15.5センチ砲を装備した大型軽巡として建造されましたが、将来的には20センチ砲に改装できるように設計された、「隠れ重巡」とも言える艦でした。

当時は軍縮条約時代で、日本海軍は重巡建造枠を使い切っており、この最上級については軽巡枠で建造されています。と言っても、軽巡の枠もそれほど余りがある訳ではなく、排水量は8500トンに押さえるようにとの条件がついていました。
結果として、艦内容積が小さくなった為に、上甲板上に兵員区画を始めとした各種設備を装備しなければならなくなり、重心がひじょうに高い艦となりました。また、軽量化の為に、電気溶接を大幅に取り入れたこと、DS鋼を全面的に用いて鋼鈑厚を極限まで薄くしたことから強度不足にも陥っています。

1番艦「最上」が竣工後に公試が出た際に、艦のあちこちに問題が発生して慌てて性能改善工事を実施、工事終了後に編入された第四艦隊で、演習中に台風に遭遇してまた強度不足を露呈し(第四艦隊事件)、再び改善工事を行なうことになりました。
4番艦の「熊野」は先に竣工した姉妹艦の苦労を建造中に取り入れつつ、予定よりも大幅に遅れて竣工したのです(ちなみに建造中に性能改善をすることになった、3蕃艦の「鈴谷」も同じ日に竣工しています)。

その後、1939年10月20日に改善工事を実施して、装備していた15.5センチ砲を50口径20.3センチ砲に換装し、正真正銘の重巡洋艦となりました。
この状態で太平洋戦争の開戦を迎え、様々な作戦に参加したのは、前述の通りです。「あ号作戦(マリアナ沖海戦)」に参加する際に、経空脅威に少しでも対抗する為に防空機銃を大幅に増備し、そのまま「捷一号作戦」に参加しています。



先に述べたように、レイテ海戦で巡洋艦としての航洋性を失った「熊野」は、このままでは作戦に参加できません。特に機関へのダメージは深刻で、内地での本格修理をしなければ、全力発揮も無理な状況に追い込まれていました。
かと言って、現在の状況では、内地に帰る「熊野」の為に護衛艦を専用に用意するような余裕は、連合艦隊にはありませんでした。レイテ海戦前にやはり魚雷を受けて大損害を受けている「青葉」も同様です。そのために内地に帰る方法を工面する必要に迫られていました。




2.熊野の最後

1944年11月1日に連合艦隊司令長官名で、「熊野は青葉とともに適当なる護衛艦を付し、または適宜の船団に加入の上内地に回航すべし」との命令が出ました。
「熊野」「青葉」が身を休めているマニラ港は、連合軍機動部隊の最重要目標の一つです。このままマニラで修理を続けていると、修理が終わる前に空襲でさらなるダメージを受ける可能性があります。

そこに渡りに船の状態で、11月4日に南遣艦隊長官名で、マニラを出航する「マタ31船団」に参加して、一旦高雄まで回航することになりました。
マタ31船団は11月5日にマニラを出航の予定です。慌てて最後の整備と出航準備を「熊野」は実施し、何とか翌日の船団出発に間に合わせました。



マタ31船団の編成は、油槽船「辰春丸」「笠置山丸」「道了丸」、海上トラックの「第32播州丸」「第61播州丸」「第62播州丸」の6隻の船舶を、「第十八号」「第二六号」の2隻の海防艦と、第二一駆潜隊の5隻の駆潜艇(「第十七号」「第十八号」「第二三号」「第三七号」「第三八号」駆潜艇)が護衛につくというものでした。
これに「青葉」「熊野」の2隻の重巡が参加する訳です。当然一番大きな艦である「熊野」の艦長が、船団指揮官を兼任することになりました。

11月5日1時30分に船団はマニラを出航、少し遅れて4時に「熊野」も出航、マニラ湾口で船団に合流し、8ノットの船団速力でマニラ西岸ギリギリを沿って北上を開始しました。

この頃、「熊野」では困った問題が生じていました。レイテ作戦に参加し、幾度となく空襲に晒された「熊野」は、息つく間もなく対空戦闘を続けており、近接防空の要となる25ミリ機銃弾が乏しくなっていたのです。
レイテ海戦前に損害を受け、マニラで留守番をしていた「青葉」から、出航前に1万発ほど分けてもらいましたが、「内地に帰るのだから、ちょっと下ろしていけ」とマニラで陸揚げした分を除いても、まだ約30門の25ミリ機銃が残っています。
「熊野」の機銃弾欠乏は、この後終焉を迎えるまで戦闘能力に影響を与えることになりました。

マニラ出航後は比較的平穏な航海が続き、夕刻には予定していたサンタクルーズに入港することが出来ました。ここで1泊した後、翌26日に船団は魔のバシー海峡に向けて出航します。そして、この航海が「熊野」最後の航海となったのです。



11月6日朝7時にサンタクルーズを出航した船団は、再び沿岸ギリギリを北上します。ルソン島西岸は沿岸近くでも比較的深くなっている海域が多い為、1万トンを越える大型艦でも岸に近づくことができます。片舷を岸に向けていれば、怖い潜水艦は沖に向いた左舷だけ注意していれば良い為、対潜警戒が少しは楽になります。そうして、可能な限り周りに気を配りながら、10時頃に船団は潜水艦潜伏海面に突入したのです。

リンガエン湾から北にかけて、米軍は潜水艦を常時展開していました。3隻程度で狼群を組み、日本の最も重要な航路の一つを見張っていたのです。
マタ31船団は、先頭を「駆潜艇第二三号」が進み、潜水艦を警戒しなければならない左舷を残り4隻の駆戦艇が、中央を比較的小型の輸送戦、右舷に「熊野」「青葉」「道了丸」の順で、船団を組んでいました。

10時10分頃から、米潜水艦の襲撃が始まります。この海域に潜んでいた潜水艦は「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻、「レイ」は近くにいたので、一緒に船団を襲うことになったものです。
35分に渡った米潜水艦の襲撃は合計4回の雷撃攻撃として牙を剥きます。1回目と2回目の雷撃は、沖合いから船団に向けて放たれたもので、全部回避されて虚しく岸に激突して爆発しました。
3回目の攻撃は「レイトン」の6射線で、これは真っ直ぐ「熊野」目指して突き進んでいきます。已む無く取り舵を切って魚雷を回避した「熊野」は、背にしていた岸から離れてしまいました。
その直後、4回目の攻撃を仕掛けたのは「レイ」です。1隻だけ岸側に回りこんでいた「レイ」は4本のMk18魚雷を発射、うち2本を「熊野」はかわしきれませんでした。

「熊野」に炸裂した2本の魚雷のうち、最初の1本はレイテで直撃を喰らった艦首に再び命中、今度は第一砲塔から前を吹き飛ばされました。
もう1発は一番機械室に命中し、一番機械室を破壊したのち、間の隔壁も吹き飛ばして二番機械室も水没しました。残りの三番・四番機械室も次々と浸水して動きを止め、「熊野」は航行不能に陥ってしまったのです。
右舷に8度傾き、26名もの戦死者を出した「熊野」は、全ての機関が停止し、浸水を食い止めて艦の寿命を延ばす以外に、打つ手がありませんでした。

「レイ」「熊野」に止めを刺すべく、さらなる襲撃行動を開始しましたが、その直後に座礁してしまい、この4回目の攻撃で最後になりました。後に何とか離礁することに成功しますが、艦の損傷もあり、それ以上の追撃は出来なかったのです。



航行不能に陥った「熊野」は、夕刻まで浸水を防ぎながら漂流を続けます。19時30分に「道了丸」「熊野」の曳航を開始しましたが、浸水を含めると1万数千トンの重さとなった巡洋艦を、2200トンの油槽船でまともに曳航できるはずもありませんでした。進路も満足に保つことは出来ませんでしたが、折からの北風に乗って、何とか1.5ノット程度の速度で動くことが出来、翌7日15時に這うようにしてサンタクルーズ港に入港します。

サンタクルーズ港は、リンガエン湾とマニラの丁度中間に位置する漁港です。何か港湾設備があるという訳でもなく、「熊野」被雷からもっとも近い泊地だった為、湾内に入ったのです。
レイテ海戦の激戦で艦首を吹き飛ばされていた「熊野」は、マニラで準備していた1.5トンの中錨を艦尾から投錨して艦を固定しましたが、入港後の11月9日に台風が襲ってきます。
通常5.5トンの主錨2個で艦を固定するところが、今は1.5トンの錨が1個だけ。そこで、マニラで修理時に切り離していた約3トンのホーズパイプ(錨口)にロープを結んで錨代わりにしました。
さらに警戒艦としてサンタクルーズにやってきた「掃海艇第二一号」にロープを渡し、いざというときには、曳航させることにしました。結局、激しい台風の中、「掃海艇第二一号」も走錨してしまい、ロープを切り離したのですが。
「熊野」も走錨しましたが、海岸400メートル程度でホーズパイプが海底で引っかかり、辛うじて艦を固定することが出来ました。

サンタクルーズ入港時に警戒艦としてついてきてくれていた「道了丸」「海防艦第二六号」、駆潜艇1隻は既に内地に向けて出航しており、代わりに「掃海艇第二一号」が護衛として残ってくれていました。「海防艦第十八号」も一緒に警戒していてくれましたが、これも台風の直前に出航しています。

台風後の11月12日に、救難艦「慶州丸」が到着し、マニラ第103工作部の協力を得て復旧作業が開始されました。
目的は缶と機関をそれぞれ1基ずつ復旧させ、自力で航行できるようになること。「熊野」ほどの大型艦を曳航するには、それなりの大型艦が必要ですし、曳航したまま「魔のバシー海峡」を突破するのは、あまり現実的ではありませんでした。

苦心の甲斐があって、11月21日には八号缶と四番機が復旧し、6ノット程度で自力航行が出来るようになりましたが、覆水機が破壊されている上、あちこちで蒸気漏れを起こしており、洋上を黄海すると、たちまちのうちに清水が不足しそうな状態でした。
そのため、高雄までたどり着くには真水500トンの追加搭載が必要とされ、陸上から手作業で搭載していましたが、19日頃から米艦載機の空襲を受けるようになります。空襲を仕掛けてくるのは護衛空母搭載のF4F中心の為、機銃掃射を受ける程度でしたが、それでも戦死者が増加し、また防空戦闘に必要な機銃弾が急速に欠乏し始めました。

マニラから22日に機帆船による補給があり、機銃弾4500発と応急資材、糧食、軽油等の補給を受け、25日に海防艦「八十島」、SB艇3隻が入港したので、それまでの戦闘で発生した重傷者をマニラに搬送する為に「八十島」に移乗させました。ただ、この直後に「八十島」も撃沈され、負傷者もまた海に沈んでしまいました。



11月25日朝、出港準備がかなり進捗しつつあった「熊野」に連合軍艦載機来襲の情報が入ります。先に出航した「八十島」船団に襲い掛かったこの米艦載機の一部は、「熊野」にも襲い掛かってきました。
付近で救難援護をしていた警戒艦「長運丸」は偽装が見破られ、たちまちのうちに集中攻撃を受けて大破炎上します。
幸い、この空襲で「熊野」は大きな被害を出しませんでしたが、また機銃弾を消耗して、残弾は3000発程度となります。マニラ出航時に「熊野」39門の25粍機銃を搭載していたので、1門辺りの残弾は80発残っていませんでした。慌ててマニラに緊急補給の要請が飛びますが、補給弾が「熊野」に届くことはありませんでした。

11月25日14時30分、新たな艦載機が来襲します。米空母「タイコンデロガ」の搭載機で、SB2Cが20機以上の大群でした。
回避運動もままならない「熊野」に対して、次々と命中弾が発生します。まず、艦橋後部に1弾が命中し、この区画を壊滅させました。この時点で弾薬庫に注水が行なわれています。
その後は、次々と命中弾が出ました。艦橋後部右舷に連続して2本の魚雷が命中、一番砲塔左舷横と飛行甲板左舷にも1本ずつ命中したようです。爆弾も二番砲塔左舷にも命中するなどし、結局3本の魚雷と4発の爆弾が命中したようです(戦闘詳報より。4本5発という説もあります)。
左舷に傾いた「熊野」はそのまま転覆沈没し、艦長以下400名も一緒に海に沈みました。1944年11月25日15時30分のことです。



生き残った乗員もまた、苦闘が続くこととなりました。沈没後の米機の機銃掃射を逃れて岸にたどり着いた乗員は、約600名。
うち、転属や負傷して内地後送になった乗員は約100名です。残りは、翌年すぐに発生したルソン島地上決戦に巻き込まれていきました。
まず、内地帰還組のうち、輸送船「明隆丸」に乗船したグループは、北サンフェルナンドで空襲に遭って乗艦が沈没、そのまま遭難してしまいました(約50名)。
残りの450名は、マニラに集合し陸戦隊として臨時編成されます。100〜150名はコレヒドール守備隊として、コレヒドール島に送られました。このグループはその後のコレヒドール玉砕により生存者なし、最後がどのような状況かよく分かりません。

もっとも大きなグループはマニラ海軍防衛隊に編入されました(約250名)。発令所長の吉田邦雄大尉以下で編成された部隊はマニラ海軍防衛隊第二大隊第四中隊として改編された「熊野」生き残り乗員は、第一小隊が前部砲塔の一分隊、第二小隊が後部砲塔の一分隊、第三小隊が二分隊、第四小隊が五分隊、指揮小隊が三、四分隊で編成されていました。
装備は重機2丁、軽機が小隊に1丁、小銃が約半数、残りは爆雷や竹槍で身を固めていました。マニラ市内パコ駅近くの小学校を兵舎として駐留していましたが、1945年2月7〜13日のマニラ攻防戦に投入され、壊滅してしまいます。
生き残り40名程度は、45年5月頃、マニラ東方の海軍小川部隊に合流し、ルソン島東岸のインファンタの守備部隊として再編成されて終戦を迎えました(約30名生存)。

残りの生き残り乗員は、各地の部隊に補充員として編入され、ほとんど生きて帰ることはありませんでした。



1968年12月2日、観光中のダイバーがサンタクルーズ沖で海底に沈んだ「熊野」を発見しました。遺骨約50柱を海底から持ち帰るとともに、「熊野」の最後の勇姿が明らかになったのです。




後書き
ずっと中断していた「熊野」についての簡単なレポートです。「大井」にするか「熊野」にするか、結構悩みましたが、「大井」は5500トン級で「鬼怒」を既に書いているので、後回しにしようと思って、先に「熊野」をまとめました。
かなり悲惨な戦記となってしまいましたが、最後まで戦い続けた「熊野」の勇戦を少しでも伝えられたらと思います。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「『丸』エキストラ版vol28 重巡戦記」/潮書房/1973
  • 「日本海軍史 第七巻」/海軍歴史保存会/1995
  • 「連合艦隊海空戦戦闘詳報(5)重巡戦記」/アテネ書房/1996
  • 「軍艦熊野」/軍艦熊野戦史編集委員会/1981


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