〜研究作文其の四二〜

北海道水際持久部隊〜独立混成第百一旅団(達)戦記〜


太平洋戦争末期、日本陸軍は連合軍の本土上陸に備えて、本土決戦の準備に邁進していました。
陸軍の考えていた防衛戦は「水際防御」で、水際に配置された部隊で連合軍を上陸地点に押し込め、後方に待機している機動決戦部隊を一気に叩きつけるというものでした。そういった本土決戦のために編成された部隊は、機動打撃部隊として編成された200番台の装備優良な師団と、水際で敵を食い止めるための根こそぎ動員部隊である300番台の師団と100番台の旅団がありました。

防衛の中心となったのは南九州と関東地方で、編成された部隊は続々とこれらの地区に展開していきました。しかし、本土決戦の舞台はその2ヶ所だけではありませんでした。宣戦を布告してきたソ連軍が攻めてくる場所、北海道を中心とした北方地域もまた、本土決戦の1戦区として考えられていたのです。
今回の旅団は、本土決戦の3つ目の戦場となる北海道の守りについた「独立混成第百一旅団」について、簡単に解説してみたいと思います。




1.第五方面軍の創設と北方防衛準備

太平洋戦争開戦後、陸海軍の主力が続々と南方に出撃していくのに比べ、北海道・千島・樺太を含む北東方面は、戦局に置いていかれたかのように動きが少なく、静かな戦場となっていました。
ミッドウェー海戦時にアリューシャン諸島のアッツ・キスカ両島を占領し、その翌年5月にアッツ島守備隊が玉砕、7月にキスカ島から守備隊が撤退した後は大きな戦闘もなく、アリューシャン諸島に展開した連合軍航空隊が千島列島に空襲をかけてくるのを迎撃する程度でした。

しかし、アリューシャン方面から直接北千島・或いは北海道への奇襲攻撃というのは、可能性は充分考えられ、中南洋・小笠原・南西諸島という防波堤のある他の日本本土に比べて、北東方面は危険性が高いという認識が高まってきました。
当時、北海道と千島・樺太の守備担当となっていたのは、北部軍ですが、揮下の部隊の師団は第七師団だけで、師団自体もアッツで玉砕した北海支隊第26連隊から兵力を抽出したり、ガダルカナルに投入された一木支隊(第28連隊)がほぼ全滅した状態で北海道に帰還してくるなど、師団全力が出せるような状況ではありませんでした。
連合軍の奇襲上陸が考えられる千島列島には北千島守備隊が展開していましたが、機動力のない旅団規模の戦力で、まともな攻勢に耐えられるような戦力ではありませんでした。

こんな状態の中、アリューシャンを失い第一線となった千島列島の防備強化が急がれることになりました。
北千島守備隊を急速強化して、千島第一守備隊に改編して師団規模の戦闘能力を与えるとともに、中千島の松輪島千島第二守備隊を、南千島のウルップ島・択捉島千島第三守備隊を編成して配置しました。これで千島に展開した兵力は約1個師団半となって、ようやくまともな戦力配備と言えるようになりました(1943年9月)。


しかし、その冬の方面軍図上演習において、千島を第一線・北海道を後方地区と見なすのは、空母機動部隊を中心とした機動力のある米軍上陸戦力を考えると大きな間違いで、太平洋全域・場合によってはオホーツク海に面した北海道全域が第一線となり得る、という認識に切り替えられました。
その結果、可能な限り早期に千島地区に2個師団相当の戦力を展開させ、東部北海道と樺太南部にも警備戦力を展開させるように作戦指導がなされました。

ですが、「言うは易し、行なうは難し」とはこのことでしょう。1944年の初頭というと、ギルバートからマーシャル諸島辺りの戦線が崩壊し、マリアナ諸島に急遽絶対防衛線を引きなおすことが決まった時期です。ビルマではインパールへの攻勢に備えた兵力集中が始まっていましたし、大陸でも米式装備の中国軍が増強され、日本軍も次第次第に厳しくなってきた頃でした。
幾ら上陸してくる可能性があるといっても、内地への兵力配分はどうしても後回しになります。そんな状況で、乏しい兵力をやりくりしての北東方面の戦力強化が1944年に実施されることになったわけです。

1944年1月に方面軍が兵棋演習をした結果、千島列島の必要兵力を算出しました。この結果は大本営へも伝えられ、解氷期にあちこちから集められた部隊が千島列島へと向かったり、改編されることになりました。投入された主な部隊は、第四二師団第九一師団海上機動第三旅団海上機動第四旅団独立混成第四三旅団と、2個師団3個旅団が投入されています。
千島の守備隊を改編した師団弱規模の千島第一集団や、後に独立混成第六九旅団に改編される独立混成第8連隊も展開しているため、実際は5個師団弱の兵力が集結しており、千島列島の守備は一通り揃ったような状況となりました。

ですが、これを札幌に司令部を置いている北部軍から指揮することは、距離や兵力規模の関係からも難しいものでした。そのため、千島列島の司令部組織として第二七軍が創設されます。
そうなると、二七軍も統括して指揮する北東方面の指揮組織として、一つ上のクラスの方面軍が必要となり、北部軍を改編して第五方面軍が創設されることになりました。

第五方面軍の組織は、基本的に旧北部軍の人員をスライドして構成しています。千島の第二七軍の他に、北海道本島を守る第七師団第七七師団、樺太守備の樺太兵団第一飛行師団や北海道の各要塞も指揮下にいれ、一大方面軍に生まれ変わりました。

しかし、特に北海道本島の守備体制については、機動的に運用できるのは2個師団しかなく(しかも第七七師団留守第七師団の名前を変えただけなので、補充業務等があり機動的な運用は難しい状況でした)、広大な全域の海岸線を守るのに必要な兵力すら枯渇しているような状況でした。
そのため、第五方面軍が創設される少し前に警備用の兵力を北海道東部に創設することになります。
古い言葉で言うところの後備歩兵、この時代だと警備歩兵守備歩兵と呼ぶのですが、これを召集して北海道東部の海岸線警備に用いることにしました。1944年3月1日に編成を完結した第30、31、32警備隊がそれに当たります。
うち、第30警備隊は樺太の守備隊として編成されており、本レポートの主役となるのは第31、32警備隊の2個部隊です。




2.警備隊の編成と旅団への改編

前述した通り、北海道本島の守備の手薄を補うため、第31、32警備隊が編成されました。
ですが、これらの部隊は、予備役を臨時召集して人員を確保しただけの極めて貧弱な戦力で、東部北海道に配備されていた第七師団が、片手間で小隊や分隊をあちこちに派遣するよりは効果的だろうといった程度の戦力でした。

この2個警備隊は第31警備隊網走に、第32警備隊根室の守備に当たることになり、指揮下の兵力は以下の通りとなります。

第31警備隊 (司令官桂朝彦少将
第31警備大隊 歩兵中隊2、野砲中隊1
第32警備大隊 歩兵中隊4

第32警備隊 (司令官山崎三子次少将 1944.2.24より岡部通少将
第33警備大隊 歩兵中隊2、野砲中隊1
第34警備大隊 歩兵中隊2、野砲中隊1
第35警備大隊 歩兵中隊4
第30警備工兵隊

東部北海道の端っこに5個大隊もの兵力が集まっており、名前的には充分な戦力となりましたが、実際には機動力もなく、張り子の虎に近い状況でした。最も、警備隊の設置の理由が、「東部北海道に組織化された戦力が守備しているように見せかけ、米軍の侵攻計画を立て難くさせる」というものでしたから、これで充分だったのかも知れません。

さらに東部北海道というのは経験した人なら分かるかと思いますが、冬季は厳しい自然に覆われます。海岸線の監視業務程度しか実施することが出来ず、広大な海岸線に対しては、これすら不十分な兵力でした。
そのため、もともと臨時編成に近い警備隊に、さらに「特設」の部隊が追加配備されることになります。

「特設」部隊は太平洋戦争中の陸軍に急速に増えた部隊で、主に船舶工兵や自動車部隊等、戦争が激しくなって急速に規模を拡大しなければいけない兵科を中心に編成された部隊です。
建制上の正式な部隊ではなく、臨時編成扱いとなっていました。そのため、必要がなくなれば部隊は解隊される運命にあります。有名な部隊だと、沖縄の飛行場群を守るために現地で急遽編成された特設第1連隊や、太平洋上での守備拠点が増えたために雲霞のように編成された特設水上勤務中隊(泊地や停泊場等の水上業務・桟橋等を管理するための兵站部隊です)でしょうか。

東北海道の警備隊に配属された特設部隊は以下の通りです。

第31警備隊
特設第315、316、317、318、327警備中隊

第32警備隊
特性第302警備大隊、特設第320、323、324、331警備中隊

これらの特設警備隊は、本来の警備隊が手薄な海岸線へ配備され、監視・水際防御任務に付くことになります。戦力的には決して満足いくものではありませんでしたが、北海道全土の警備戦力から考えると、可能な限りの戦力を投入した形となりました。
第31、32警備隊は、第五方面軍に直率されている指揮系統でしたが、実際は東北海道の守備についている第七師団に率いられる形となり、戦術指揮もこちらから出ることになります。


東部北海道の他にも、留守第七師団を再編成した結果、純粋な戦略兵団として第七七師団が機動兵力として運用できるようになり、第四七師団が弘前から救援に来る形も検討できるようになりました。
こうして、北海道本島はまともな機動決戦ができるような戦力が一旦整ったことになりますが、この時期に戦力的に重大なことが起こります。第一飛行師団揮下の戦力が比島決戦のために次々と抽出され、一気に航空戦力が手薄となったのです。第一飛行師団に残された戦力は戦闘機兵力の飛行第54戦隊のみで、他の戦隊は根こそぎフィリピンへ飛んでいってしまいました。
航空戦力がない状態で、連合軍の上陸が阻止できるはずもなく、第五方面軍は1944年の冬に再び戦略を練り直す必要が出てきたのです。



1945年2月、北部軍管区が編成されました。編成人員の多くは第五方面軍司令部と兼務の形となっており、いよいよ現実味を帯びてきた本土決戦に備えた軍政能力と、本土から孤立した場合の独自の指揮権限を与える為の軍管区編成でした。

一方、千島列島の守備体制にも問題が発生していました。第二七軍を千島守備の為に編成したのは良いのですが、機動力を全く持たない司令部の為、無線で命令を発する以外に任務を達成する方法がなく、これでは旧北部軍とあまり変わらないではないか、ということになりつつありました。
その頃、本土決戦のために東北地区の方面軍司令部が必要となり、新たに第十一方面軍仙台に新設されることになりました。そこで、その基幹要因として、第二七軍司令部を利用することになったのです。
第二七軍司令部は東北に転進することになり、千島の各部隊は第五方面軍の直率下に入ることになりました。

この時、第五方面軍は指揮下の兵団の再編成を行い、より指揮系統を単純化しようとしました。南千島に展開していた独立混成第四三、六九旅団は統合して第八九師団を編成し、樺太兵団に歩兵1個連隊を中心とした兵団を増派して、第八八師団を編成しました。また北海道本土の沿岸防御師団として第百四七師団を編成し、これを当時苫小牧を守備していた第七七師団と交代させて、第七七師団旭川に展開して機動決戦兵力とすることで、決戦戦力を充実させようと考えました。

同時に、戦力的に問題となっていた東部北海道の第31、32警備隊についても旅団に改編して、指揮系統と戦力を充実させることになりました。1945年2月21日に独立混成第百一旅団の編成が下令され、3月には新設兵団を中心とした各兵団長が集まった会合を開き、各部隊の戦力展開について検討しました。
その結果、独立混成第百一旅団は従来通り、東部北海道の守備に当たることになり、旅団となって指揮系統が単純化して部隊名が変わった以外は、以前と同じ任務(海岸線警備)に付くことになりました。
戦力的に師団級より劣ると見なされたために、決戦兵団から外された形となります(東部北海道の機動決戦兵団は第七師団です)。


3月18日には旅団長として第31警備隊の司令官だった桂朝彦少将が発令され、旅団としての形を整えていきました。
この時に揮下戦力として配属された部隊は以下の通りです(3月27日編成完結)。

独立混成第百一旅団 (総兵力 5696名)

独立歩兵第456大隊 大隊長神林中佐
独立歩兵第457大隊 大隊長室谷春吉少佐
独立歩兵第458大隊 大隊長石上鴻少佐
独立歩兵第459大隊 大隊長桑原重雄中佐
旅団砲兵隊 隊長梶谷繁少佐
旅団工兵隊 隊長小野寺要大尉
旅団通信隊 隊長和田静雄中尉
旅団兵器勤務隊 隊長江川要大尉

4個の大隊は、各警備大隊を基幹として編成しており、砲兵隊についても、それぞれの砲兵中隊を集めて編成しています。また第33警備隊からも十糎加濃砲中隊が編入されて、火力戦力の強化も出来るだけ実施しました。




3.百一旅団の守備位置転換と終戦

編成後も、独立混成第百一旅団は東部北海道の守備位置のままの予定でした。ところが、戦局はのんびりと北海道の東の端に1個旅団を置いておけるような状況ではなくなっていきました。
本土決戦(決号作戦)の主戦場となるのは、南九州と関東平野、どちらも平野部でどれだけ守備兵力があっても足りません。中国大陸や関東軍から引き出せるだけの戦力を引き出させたのですが、それでもまだまだ不足しています。大本営が北海道の戦力に目をつけるまで、そう時間はかかりませんでした。

最初に編成途中の第百四七師団が南九州方面に転用されることになりました(4月7日)。
続いて、千島方面に配備されていた海上機動第四旅団が関東の第三六軍への配備を発令され(4月11日)、第百四七師団が関東地区(第五二軍)に配置換えとなりました(5月1日)。
同じ5月1日には海上機動第三旅団が南九州への移動を命じられ(第五七軍)、さらに第七七師団第十六方面軍に配備が命じられ、南九州に行くことになりました。


こうして、4個師団を持っていた北海道本島部隊は、東部北海道にいる第七師団と、宗谷地区で石狩湾に睨みを利かせる第四二師団の2個師団まで痩せ衰えてしまいました。
お陰で、それまで計算していた機動決戦は一気に成り立たなくなってしまいます。大本営もさすがにこの戦力では支えきれないと思ったのか(第五方面軍が文句を言わなかったので、抜けるだけの戦力を抽出したようなのですが)、北海道戦線は「決戦」から「持久」に切り替えられます。北海道は時間を稼いで、その間に九州と関東の決戦で勝利するという方針に変わったわけです。

そこで戦力的に空白となってしまったのが、南北海道です。元々第七七師団が展開していて、第百四七師団が代わりに配備される予定だったのですが、どちらも本州や九州に転属となってしまいました。そこで北海道本島で唯一動ける戦略部隊だった独立混成第百一旅団が南北海道(苫小牧地区)に配置されることこになったのです。

苫小牧は東部北海道と西部北海道を連絡する基幹線であり、北に10キロ強移動すると千歳があります。北海道でも有数の航空基地群を抱えたこの地区を放棄すると、戦局に大きな影響が出ることになります。
また、苫小牧は平坦な海岸線が続いており、北海道の中でも、有力な上陸候補地となっていました。北海道全土を占領するためには、苫小牧に上陸作戦をかけるのが定石ともいえる地区だったのです。

放棄する訳にもいかず、かといって守り抜くには余りにも長大な海岸線と平野部(勇払平野)が広がっており、結果として独立混成第百一旅団は海岸線から一歩引いた内陸部に強固な陣地を築き、上陸してきた連合軍に「可能な限りの出血持久を強いる」という方針を取らざるを得ませんでした。
地下陣地を苫小牧北方に縦深に廻らせ、彼我の戦線を交錯させて、連合軍を苫小牧に釘付けにするという作戦です。

苫小牧での旅団の守備配置は、以下の通りです。

苫小牧北地区 独立守備歩兵第4大隊
苫小牧東北地区 独立歩兵第456大隊
遠浅地区 独立歩兵第458大隊
早来南地区 独立歩兵第459大隊
早来北地区 旅団工兵隊
安平地区 旅団兵器勤務隊
厚眞地区 独立歩兵第457大隊
千歳南方 旅団司令部

このうち、独立守備歩兵第4大隊というのは、元関東軍で奉天北方地区を守っていた歴戦の部隊です。本土決戦のために、北海道に配置されることになりました。
他に旅団に配属された部隊としては、北部軍管区教育隊等もあります。


この守備配置は苫小牧市の周辺を取り囲むように各大隊が展開し、北に抜けていく鉄道線に沿って、逐次抵抗戦が出来るような配置となっていました。もっとも、守備範囲が広くなりすぎ、各大隊の守備位置の間は数キロ単位で開いており、決して有機的な守備作戦が取れる体制ではありませんでした。


実際に、この旅団の作戦はどのようなものになる予定だったのでしょう。
最初に第五方面軍は、沿岸で上陸軍を支える間に機動決戦兵力と投入して、水際で撃破する作戦を考えていました。しかし機動決戦兵力となる予定の兵団が一気に引き抜かれたため、まともに機動戦力として使える部隊は第七師団のみとなります。

道東に上陸した連合軍は第七師団が、西部に上陸してきた連合軍は室蘭の要塞地区に展開した兵力と第四二師団で迎え撃つことになっていましたが、その中間に位置する苫小牧はどちらの師団からも遠い位置でした。
結果として、苫小牧は守備位置の関係で放棄されることになりました。作戦的には第七師団が駆けつけることになっていましたが、圧倒的な上陸軍に僅か1個旅団で満足な抵抗も出来るはずもありません。第百一旅団の任務は、在道各兵団が守備位置に展開するまでの時間を得るために、出来るだけ苫小牧の敵を他に動かさないようにする、つまり囮にも近い任務だったのです。


幸いとも言うべきか、本土決戦は実施されずに終戦を迎えました。
独立混成第百一旅団はまともな戦闘を一度も経験することなく、復員して短い歴史を閉じました。





後書き
初めて、本土決戦旅団をまとめてみました。書いていて思ったのは、やはり資料が極めて乏しいということです。
元々本土決戦部隊は、戦闘を経験していないため、特徴だったエピソードに乏しいのですが、この旅団もその例に漏れませんでした。もっとも、どの旅団もそれぞれ特徴というものがありますし、独立混成旅団は特に編成過程で色々な話のある部隊ですので、それはそれでまとめていくのが興味深いのですが。
北部地区には、まだ幾つか独立混成旅団があります。将来、それらの旅団もまとめられれば良いなと思います。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」北海の戦い(太平洋戦争証言シリーズ14)/潮書房/1990
  • 「日本陸軍部隊総覧」/新人物往来社/1998
  • 「戦史叢書 北東方面陸軍作戦(2)」/朝雲新聞社/1971
  • 「第五方面軍作戦概史」/北部方面総監部/1962
  • 「旅団クラス独立部隊総ざらい」/高市近雄/1986


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