〜研究作文其の四一(寄稿レポート)〜

北満要塞戦線
〜独立混成第百三五旅団(不朽)戦記〜


●はじめに

 皆様、はじめまして。
 この「さぁぷらす歴史図書館」では、BBSやチャットに出没し司書さんにいろいろと教えを授けられている内田裕樹と申すものです。
 今回、私もこの一連のレポート、なかでも“日本版ラスト・オブ・カンプフグルッペ”である「独立混成旅団戦記」に感銘を受け、追随せよとばかりに、満州の地でソ連軍と戦闘した独立混成第135旅団(不朽)の戦記を執筆してみることにしました。司書さんのレポートとは比べ物にならないほど粗雑なレポートと思われますが、「こんな旅団もあったんだ」程度の気軽さで御一読していただければ、内田としてもこれに勝る喜びはありません。
 さて、この独立混成第135旅団は、前述したとおり、満州に展開する関東軍における、大戦末期においてソ連軍の侵攻に直面した部隊のひとつです。一般に満州における対ソ戦は、関東軍の諸部隊は圧倒的なソ連軍の攻勢に手も無く蹂躙され、民間人の脱出も放り投げざるを得なかった、悲惨な戦いと認識されています。
 しかし、実際の満州における戦闘はそのような印象でひとくくり出きるほど単純なものではなく、前線では多数の陸軍部隊が、民衆を守りつつソ連軍を相手に終戦の後も奮戦していました。その一例を、この独立混成第135旅団の戦いに見ることが出来ます。



●関東軍の守勢への転換と兵力拡張

 昭和19年夏、広大な満州の地を守る関東軍の戦力は減少の一途を辿っていました。
 理由は、太平洋の戦線における敗勢です。陸軍は決戦場と定めたフィリピン――レイテ島、ルソン島などの南方に数多くの防衛戦力を派遣し、連合軍との戦闘に投入しましたが、その多くの部隊が、今のところは平穏な関東軍から引き抜かれた有力な部隊だったのです。しかし、関東軍からの連続的な戦力の抽出は必然的に戦力の激減を招いてしまい、関東軍は当初の存在目的であったシベリアへの侵攻はおろか、満州の防衛すらもおぼつかない状況となってしまいました。
 こうした状況下であった19年9月18日、大本営は関東軍に対して持久守勢への体制転換を命じる大陸令第1130号を発令、これを受けて関東軍は、本土決戦準備に支障をきたすことなく部隊増強を目指し、その外見的な威圧によって対ソ戦を防止することを決定しました。
 かくして満州の地において、在満邦人の動員や朝鮮配備部隊の吸収、国境守備の再編成などを駆使し、大規模な兵力の拡充が開始されました。その結果、19年9月中旬頃から20年中ごろにかけて師団16個、独立混成旅団4個を再編、見かけ上は戦力を大幅に補充することが出来ました。
 しかし、20年5月には欧州ではドイツが降伏し、ソ連の満州侵攻の危機は近づき始めていました。さらに太平洋戦線では本土決戦が近づきつつあり、本土からの増援は絶望的な状況です。これに対して関東軍は、すでに日本が断末魔の状況を向かえつつあった同年7月、在満邦人に対する「根こそぎ動員」と呼ばれる最後の兵力拡充を行い、さらに8個師団と7個旅団を創設しました。もちろん、これらの部隊の大半は、「根こそぎ動員」という名称からも想像できるように装備は貧弱極まりなく、訓練も不十分そのものでした。
 そして、この最後の動員において編成された7個旅団のうち1つが、満州の黒龍江・大興安嶺の守備を任された第4軍指揮下の、独立混成第135旅団でした。



●独立混成旅団第135旅団の編成

 独立混成第135旅団の母体となったのは、満州北東部の黒龍江西岸に存在する愛琿(アイグン。1980年、ロシアと清国の間での不平等条約「アイグン条約」が結ばれた場所です)、その周囲に存在する「北鎮台」と呼ばれる愛琿・朝水陣地を守備する第6国境守備隊でした。
 通称、満州第612部隊と呼ばれていたこの部隊は、昭和13年3月に、ハルピンに司令部を置いていた第5独立守備隊(鉄道警備が主任務)管下の各大隊と、「2.26事件」を引き起こしたことで満州に送られた第1師団の野戦砲兵連隊と工兵連隊から抽出された将兵で編成された、その名のとおり、満州鉄道が走る愛琿前面の黒龍江流域の警戒のための部隊です。指揮官は浜田十乃助少将。守備隊は、勝武屯の第5国境守備隊と黒河北門鎮の第7国境守備隊とともに、その中核となって満州北部国境の守りについていました。
 なお、この第6国境守備隊が守る愛琿、朝水の陣地は、実質的には要塞と呼びうるものであり、武装も主砲の10センチ榴弾砲16門や15センチ榴弾砲2門、10センチ加農砲2門が砲塔に乗せられる形で各所に配置され、比較的強力な永久陣地でした。とはいえ、この愛琿、朝水陣地は黒龍江からの街道には直接接していない孤立した陣地であり、ソ連軍がこの陣地を素通りした場合、包囲され無力化される危険も高い場所でもありました。また、愛琿陣地の主力たる重砲群は20年に入った後に南満転用のために搬出され、愛琿駅へと移動させられてしまっています。
 第6国境守備隊の独立混成第135旅団への改変は、命令どおり20年7月に開始されました。編成の中核となった第6国境守備隊の他には、黒河の第7国境守備隊や他の陣地の残置部隊、そして孫呉の第123師団からの補充と現地召集兵が加わる形での編成です。人員は第6国境守備隊の3000人から5000人に膨れ上がり、守備隊の基幹3個大隊と旧第7国境守備隊は独立歩兵第795〜798大隊に、指揮官は第6国境守備隊の浜田少将がそのままスライドする形で補されました。
 これに加え、第123師団から補充された要員によって肉薄攻撃を主任務とする挺身大隊や、重砲の代わりとして(中支戦線で押収されたといわれる)中迫撃砲を12門装備した砲兵隊、愛琿に駐留していた自動車隊(車両80台)に輓馬中退を加えて輜重大隊などが編成され、支援部隊も充足。7月31日という終戦まであと二週間足らずの時期、旅団の編成は完結しました。
 各部隊の編成詳細は以下のとおりです。

独立混成第135旅団(不朽)
旅団長:浜田十乃助少将
独立歩兵第795大隊(旧第第1大隊)・・・(山田錠大尉)、4個中隊、機関銃隊、歩兵砲隊
独立歩兵第796大隊(旧第第2大隊)・・・(松沢喜代治大尉)、795大隊と同編成
独立歩兵第797大隊(旧第第3大隊)・・・(千葉特明大尉)、795大隊と同編成
独立歩兵第798大隊(旧7国)   ・・・(和田努少佐)、795大隊と同編成
旅団挺身大隊            ・・・(亀田博中尉)、3個中隊、朝水小隊
旅団砲兵隊(大隊規模)       ・・・(長島博少佐)、3個中隊
旅団工兵隊
旅団通信隊
旅団輜重隊
独立速射砲第30大隊(第4軍直轄、日ソ開戦と同時に旅団指揮下へ)
愛琿陸軍病院(第4軍直轄、日ソ開戦と同時に旅団指揮下へ)

 なお、旅団の主力である4個大隊の各中隊には、黒龍江西岸の監視哨への派遣要員も含まれており、それらの部隊は、日ソ戦が開始された場合、敵兵力の確認を行った後、陣地へと撤退することとなっていました。
 また、各大隊の歩兵火器の充足率に関する記述は見つけることが出来ませんでしたが、のちのソ連軍への投降の際、「いったいこれほどの武器がどこにあったのかと思わせる」ほどの銃火器が引き渡されたという回想から、完全充足に近い状態だったと思われます。



●日ソ開戦と愛琿、二站への兵力分割

 編成が終了した後、旅団は第123師団の指揮下に編集され、第6国境守備隊が行っていた作業を引き継ぐ形で行動を開始しました。その作業とは、愛琿の南西40キロに存在する二站(アルジャン)における陣地構築です。この二站は小興安嶺の山間を縫って走る軍用道路が通じ、孫誤への分岐点にも近い、戦術上の要所でした。関東軍はこの二站に陣地を作り上げることによって、黒龍江から南下するソ連軍の進撃を阻止しようとしていました。もちろん、その矢先に立つ旅団もこの二站の陣地構築は最重要課題であり、旅団の総力をあげ、作業に取り掛かりました。
 しかし、8月9日、ついにソ連軍は日本へと宣戦を布告。二站において作業を監督していた浜田旅団長のもとにも、黒龍江沿岸の監視哨から、続々とソ連軍越境の情報が入りました。
 この事態に対して、浜田旅団長は愛琿に残っていた副官に対し、「営外者家族全員を陣地に収容すること」と、「愛琿に放置されたままになっている陣地の重砲群を陣地内に収容すること」を命じ、ソ連軍の来寇に備えました。旅団長の考えでは、陣地構築途上の二站で戦闘を行うよりも、民間人を護る事が出来、重砲の支援を受けられる愛琿を主戦場としたほうが有利だと判断したのです。この命令はすぐさま実行され、その日のうちに400名あまりの民間人の陣地内への収容を完了し、重砲を機動可能な状態にしました。
 しかし、この命令が発せられた直後、すぐさま第4軍からの123師団を経由しての命令が届きました。その命令は「独立混成第135旅団は主力を持って二站を、一部を持って愛琿陣地を死守すべし」というものでした。この命令に対して旅団長は、前述の判断から軍の意向に従わないことを決め、主力を愛琿陣地に戻し、残る他の部隊でもって二站を守備することを決意します(この措置は平時ならば抗命罪にあたるものでしたが、日本の敗戦によってこれは不問となります)。9日午前、旅団主力は二站を出発、40キロの道のりを徒歩で移動し、翌10日の午後になんら妨害を受けることなく愛琿に到着しました。
 また、旅団主力が去った二兵陣地には、北方の山神府に駐屯していた関東軍騎兵下士官候補者隊(騎兵といっても、内容は純然たる歩兵の下士官候補者教育隊)2個中隊と、独立歩兵大隊798大隊の2個中隊、そして満州国軍1個大隊が加わり、戦力は大きく増強されました。
この時点での愛琿、二站陣地の兵力配備は、次のとおりです。

■愛琿陣地(含む朝水陣地)
 指揮官:浜田少将
旅団司令部(直轄として797大隊第4中隊を保有)
 795大隊(完全編成)
 796大隊の歩兵1個中隊
 797大隊の歩兵2個中隊
 挺身大隊の2個中隊
 臨時砲兵大隊(愛琿駅から移動した重砲を装備)
 独立速射砲第30大隊
 旅団輜重大隊の1個中隊
 旅団通信中隊・旅団工兵中隊・愛琿陸軍病院・朝水青少年義勇隊などの諸部隊

■二站陣地
 指揮官:長島少佐(砲兵大隊長)
 独立混成第796大隊(2個中隊欠)
 独立混成第797大隊(2個中隊欠)
 挺身大隊1個中隊
 砲兵大隊
 間瀬大隊(関東軍騎兵下士官候補者隊)2個中隊
 歩兵独立第798大隊2個中隊
 満州国軍大隊(日系人少佐が指揮)

 なお、山神府に本部を置く独立歩兵第198大隊主力は、二站の第4中隊を除き他の戦線に転用されることになり、実質的に旅団の指揮から離れることになりました。
 
 こうして10日には、両部隊はソ連軍の来襲を待ち構えつつ陣地強化を行う態勢となりました。しかし、この時すでに黒龍江ではソ連軍の渡河は開始されており、多くの黒龍江沿岸監視哨の要員が撤退を開始し、逃げ送れたものたちは玉砕していきました。



●旅団の防衛戦闘と終戦

 旅団のソ連軍との交戦は、愛琿において、はやくも10日午後に開始されました。この時、黒龍江北方において渡河を開始したのはソ連第2極東方面軍第2赤旗軍の第396狙撃師団と第258戦車旅団が渡河し、占領した愛琿市外周辺において、突破の準備を開始しました。とはいえ、この戦力を見ればわかるのですが、この第2赤旗軍の作戦は、全体から見れば他の方面軍の侵攻を補助する助攻に過ぎないものでした。
 旅団は渡河部隊に対し、10センチ加農砲でもって砲撃を開始します。しかし、ソ連軍はこの愛琿陣地を、北安やチチハルへの街道移動を阻害する拠点、としか認識せず、渡河開始から数日は若干の砲兵射撃と空襲、そして夜襲を繰り返すのみで、本格的な戦闘は開始しませんでした。この間、旅団は挺身大隊から挺身隊を編成、暗夜にまぎれて切り込み攻撃を開始します。
 愛琿陣地に対する本格的な攻撃は、14日に開始されました。戦闘の焦点は黒龍江側の東山陣地であり、旅団は砲兵支援の元粘り強い防戦を繰り広げつつ、損害を増加させていきます。翌15日に旅団通信隊は断片的ながらも重大情報を聴取しますが意味不明であり、さらに第123師団からなんの連絡もないので、そのまま戦闘を継続する他ありませんでした。なお、この間に陣地内に収容された民間人には自決用の手榴弾が1個づつ渡され、さらにその床下には民間人に知られぬよう、爆薬が仕掛けられました。
 一方、二站における戦いも、愛琿陣地をすり抜けたソ連軍の到着によって16日には開始され、終戦の報を知らぬまま防衛戦を展開しました。満州軍1個大隊もそれと同時に反乱を起こし、大隊超を射殺して遁走します。
 この戦いで奮戦したのが、増援として到着した間瀬大隊(騎兵下士官候補生隊)で、ソ連軍の攻勢正面にありながらも陣地の争奪を繰り広げ、さらには連日の切り込み出撃を加えて突破を許しませんでした。しかし、その代償として3人の中隊長は戦死し大隊長も重症を負い、指揮系統に大きな打撃を受けます。
 これ以後も旅団は、降伏を知らせにきた数人の兵たちを「朝鮮人の謀略」と決め付け自決させるか射殺しながら戦いを続けましたが、ソ連軍が停戦交渉のために軍使を派遣したことや、ようやく届いた師団からの停戦命令によって、最終的には22日までには両陣地の部隊は戦闘を停止、旅団長の決断によって停戦の受け入れが決定しました。
 この時点で、旅団の死者は約400名。これに対してソ連軍の死者は800名以上と見積もられており、末期の日本陸軍のなかでは、奮戦した部類に入るのではないでしょうか。

 この後、大隊は停戦交渉によって孫呉に終結し、作業大隊として再編され、過酷なシベリアでの労働に従事することになりました。また、病のために途中で引き返したものたちも、黒河事件(国府軍と中共軍の交戦に巻き込まれ、その結果、日本人による収容所からの脱走が図られ失敗した事件)によって、多くの死者を出す運命にあったのです。

 なお、愛琿陣地に収容された民間人は旅団長の執拗な要請の結果、ソ連軍の警護の下、無事ハルビンに到着し、その後は個々の行動に任せられました。その多くは無事に祖国の土を踏むことに成功します。その意味で独立混成第135旅団は、軍司令部の命令を無視することによって、その任務を全うしたと言えるでしょう。



●後書き

 というわけで独立混成第135旅団戦記、いかがだったでしょうか?
 自分で読み返してもつたない文章となってしまいましたが、内田的には楽しみながら書けました(そんなに悲惨な部隊じゃないからでしょうけど)。  とはいえ、この旅団戦記を書き上げるのにあたっては、自分の「日本陸軍に関する常識」の知識のなさに唖然とするなど、こうした部隊行動を記述することに大変さが身にしみました。情けない限りですが、同時に、旅団戦記などを精力的に執筆する改めて司書さんの戦記への情熱を感じ取った次第です(笑)。
 さて、私がこうした部隊史を書くのは、これが最後だと思われます。これからは再び一読者として、「さぁぷらす戦史図書館」のさらなる発展に期待していきたいと思います。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜

・ 「アムール河畔の英霊に捧ぐ」(非売品)/戦史刊行会事務局/1978
・ 「戦史叢書 関東軍(2)」/朝雲新聞社/1974
・ 「ソヴィエト赤軍興亡史」/学習研究社/2001




司書より

まさか、私のサイトに投稿があるとは思いませんでした、いや本当に。
135旅団は満州戦線でも奮戦した旅団の一つで、そのうちにまとめようかな、と思っていた旅団です。先を越されました(笑)
私とはタッチが違う視点から見ておられますし、内田さんも書かれていますが、内容的にレポート書き続けるのが難しいので、投稿は本当に助かりますし、内容も充実していました。いやはや、こういうのを貰うとサイト管理人冥利に尽きます。
これで終わりとか寂しいことを言わずに、機会がありましたら今後もお願いいたします(^^)

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