〜研究作文其の四〇〜

最精鋭部隊の終焉〜第六八旅団(星)戦記〜


お詫び(言い訳)

このレポートは「独立混成第六八旅団(星)戦記」として、2002〜2003年に元原稿を書き上げて、一度研究室に掲載したものです。
ところが、掲載後にある方よりご指摘を頂きました。

「公主嶺編成の第六八旅団は、独立混成旅団ではないのではないか?」

心のどこかで書いている間に引っかかっていた点がギクリと音とたて、慌てて資料の再点検を行いました。その結果、「第六八旅団」は独立でも混成でもないことが判明した次第です。

勘違いをしてしまった原因として、
1.頭から星兵団は独立混成旅団だと思い込んでいた。
2.独立混成旅団は六八が欠番であり、たまたま編成された「第六八旅団」がこれに該当するものだと判断してしまった。
3.参考にした幾つかの資料も独立混成第六八旅団と謝って記載されているものが多数あった。

等々のためです。

もともと独立混成旅団は、現地軍の令下により、師団やその他の部隊から兵力を抽出し、再編成して独立部隊として編成されることが多い部隊です。基本的に連隊を編成基準とする師団は、各連隊に置いて補充や編成を実施しますが、独立混成旅団はそういったバックアップの指揮系統が明確でないのが普通です。
ところが、この第六八旅団は、「公主嶺学校を基幹として編成しているため、後方支援能力がある」「百二十六連隊を基準に編成されており、独立歩兵大隊(連隊)基準ではない(当然、百二十六連隊には水戸という連隊区があります)」等から、ただの旅団として編成されたものと思われます。
独立混成旅団の最初の部隊である、「独立混成第一旅団」が機械化部隊として編成されているため、機甲戦力を中心として諸兵科連合の学校が元になった旅団も独立混成旅団だろうという考えも浮かび、勘違いを重ねてしまいました。

記事をご覧になったかたを惑わしてしまった点について、お詫びする次第です。
しかし、折角調べて書き上げたのをお蔵入りさせてしまうのも勿体無いと思い、部隊名称だけ変更して、再度掲載することにしました(整合性は取れているかと思います)。
今後も私の書いたもので、おかしな点を発見された方は、ご指摘いただけると大変助かります。色々と私の勉強にもなりますので。では、本文のほうをご覧下さい。
(しかし、思い込みでこういったものを書いてしまうのはよくありませんね。改めて反省しました)



1.公主嶺学校と第六八旅団の創設

1939年8月、満州公主嶺に教育総監の指揮下の元、「陸軍公主嶺学校」が創設されました。現在で言うところの諸兵科連合、歩兵を中心とした各兵科の共同運用についての研究・教育をするための学校です。
満州事変以降の火力・機動力装備は少しずつ充実してきており、従前たる歩兵中心の作戦では次の時代の戦闘はできないということが、ようやくはっきりしてきたということでしょう。また、1938年に勃発した張鼓峯事件において、ソ連の機甲部隊の威力をまざまざと見せられた陸軍としては、同じような部隊を準備しなくてはいけない、と感じたものかと思います。

ですが、この時期、日本は中国との大規模な戦争を繰り広げており、また満州にも大量の兵団を対ソ戦用に貼り付けていました。陸軍のほとんどの師団は外地に出撃しており、本来の甲種教育(大尉級の現役士官に上級戦術や兵団戦略を教育するもの)すら満足に出来ていない状況でした。
こういった中、比較的部隊に近く、また想定戦場(つまりソ連との満州戦)に、こうした諸兵科連合のための教育機関を作る必要があると皆が考えた訳です。
1939年5月に学校創設のための軍令が出されましたが、この時、学校編成要員を準備する予定の戦車第4連隊はノモンハンで死闘を繰り広げており、ようやくボロボロの状態で公主嶺に帰ってきたのは、7月といった有様でした。
8月に急速に学校編成が行なわれていますが、それも戦車教導隊と下士官・幹部候補生教育隊が中心の小規模なもの(259名)で、小さな戦車教育が出来る程度の部隊でした。

翌1940年8月に「陸軍公主嶺学校令」が出されます。これにより戦車単独の教育機関でなく、諸兵科を結合した「教導団」を中心とした実戦的な学校が編成されました。実戦的といえば、この学校は教育や研究に実弾を使用することが前提となっています。
校長は冨永信政少将で、教育資材の管理を行なう「材料廠」、本部組織となる「本部」「教育部」「研究部」の他に、8451名の定員を持つ「教導団」が編成されました。「教導団」には「司令部」「教導歩兵団司令部」「教導歩兵第1連隊」「教導歩兵第2連隊」「教導戦車連隊」「教導砲兵連隊」「教導工兵連隊」「教導通信隊」「教導制毒隊」が所属しており、兵站部隊以外の諸兵科が結合されたバランスの取れた部隊となっています。

この編成時には戦車連隊が教導団部隊の中心となっていましたが、1940年12月に「公主嶺陸軍戦車学校」が編成されて、戦車連隊は1個中隊を残して引っ越してしまいました(戦車学校は後に四平街に移転しています)。
この結果、教導団は歩兵2個連隊(定数編成。実際には教導第1連隊しかありませんでした)と、野砲1中隊、十榴2中隊、十五榴1中隊、観測1中隊より編成される砲兵隊、戦車中隊、工兵連隊等が主力となり、「対ソ軍要塞陣地突破戦」の研究を中心に行なっていました。「関特演」にも一部の要員を派遣したりして参加しています。


その後、公主嶺学校は対ソ戦研究から対米戦研究へとテーマを切り替えて各種の研究を行なっていましたが、1944年を迎えるまで概ね学校を動かずに教育機関的な役割を果たしていました。ですが太平洋戦線がいよいよ逼迫してくると、各地の兵力が不足し始めて、あちこちで臨時編成の部隊が誕生することになります。
そんな中、実戦力を持っている公主嶺学校も学校側からの発案で、実戦部隊への改編を行なうことになりました。歩兵団司令部と各種兵科の教導部隊を持っていることから、すんなりと旅団への編成が行なえる利点もあります。
ですが簡単に編成できそうとは言え、たった4日しか編成期間のなかった公主嶺学校は、比較的こじんまりとした旅団編成を行なうことになりました。新編成された旅団の名前は「第六八旅団」と名付けられました。

旅団は、司令部、歩兵第126連隊、旅団砲兵隊、工兵隊、通信隊、衛生隊からなり、歩兵2個大隊、砲兵1個大隊を中心としていました。旅団長は来栖猛夫少将で、総勢4377名で構成されていました。ちょっと大きめの連隊くらいの大きさですが、この時期では貴重な現役兵部隊です。何よりも装備は学校が研究のために装備していた「一式47粍速射砲」「百式短機関銃」「百式火炎放射器」等、他の独立混成旅団では夢のような装備を持っていました。
旅団編成完結は6月23日で、新編成の歩兵第126連隊は、6月24日に宮中で軍旗を拝領しました。

6月23日に編成を完結した第六八旅団は、すぐさま有蓋貨車に寿司積めにされ、釜山まで鉄道で輸送されます。当時の釜山は、サイパン島奪還作戦に指定された部隊やフィリピン・南西諸島方面に送り出される部隊でごった返しており、次々と輸送船団が入港しては部隊を運んでいきました。旅団の所属するのは台湾軍で、台湾の守備を固めるための第一陣として投入されることになったのです。
船舶待ちの後、六八旅団「ぶらじる丸」「宇品丸」「杭州丸」の3隻に乗船し、7月6日から27日にかけて、潜水艦の襲撃を避けつつ台湾に進出しました。台湾までの航海は、注意深く船団を組んでいたためか被雷した船もなく(この後の船団だった第八師団は、潜水艦攻撃のため大きな損害を出しています)、長い船旅で疲れたてた体ながらも意気軒昂と台湾に上陸することが出来ました。




2.海上機動反撃と捷号作戦参加の混乱

台湾に上陸した第六八旅団は新竹市周辺に駐屯し、10月まで台湾に滞在することになります。その間に太平洋の戦局は大きく動いていました。マリアナ諸島を攻略した連合軍は、次の目標をフィリピンに定めていたのです。

マリアナでの決戦に敗れた日本軍は、次の戦場となるフィリピンに戦力を集中して戦局の一挙挽回を図ろうとします。通称、「捷号作戦」と呼ばれているもので、ありったけの陸海空戦力の投入が計画されていました。
連合軍の次の作戦目標は、小笠原・南西諸島・フィリピンのどこかに上陸してくるということははっきりしています。特にフィリピンへの反攻作戦と考えて間違いないと判断されていました。そのため、連合軍が次期作戦を実施する際に、戦力を集中して一気に撃破しようというものでした。
この作戦の大きなポイントとして、決戦場への急速な戦力の機動集中が挙げられます。そのために「海上機動反撃作戦準備」が命じられ、8月20日までに該当兵団の割り当てが行なわれました。

フィリピンに滞在する機動兵団は独立混成第五八旅団、鹿児島方面に待機する部隊は第八八師団の歩兵3個大隊基幹の部隊、姫路に待機する部隊は第八四師団の歩兵3個大隊基幹の部隊、そして、台湾に待機する部隊が第六八旅団とされました。

こうして、第六八旅団は、機動反撃に参加することになったのですが、これまで満州に展開していたこともあり、一度も上陸作戦などやったこともありません。そのため、緊急に上陸訓練を実施することになりました。
また、所属していた台湾軍が主催する訓練もありました。当時台湾軍に所蔵していた兵団は幾つかあるのですが、そのうち対戦車肉薄戦闘の展示訓練をする第十師団とともに、旅団は夜間襲撃戦闘の展示訓練を実施しました。
歩兵の白兵夜襲は日本陸軍の十八番でしたが、当面の敵のアメリカ軍は、夜になると惜しげもなく照明弾を打ち上げ、昼間のように戦場を照らし出すようになりました。そのため、サイパン・グアム・ペリリュー島の夜襲作戦も、それまでの自信とは裏腹に、あまりうまくいったものではありませんでした。
玉砕していったそれらの島々から辛うじて届いた戦訓を元に、これまでの夜襲を仕掛けていては大戦果は期待出来ないと判断され、昼間の強襲作戦と同じように散開匍匐奇襲が中心となる新しい夜襲を検討していたのです。
ただでさえ、指揮系統が掴みづらい白兵強襲を夜間で実施して、上手くいくかどうか疑問視する面もありましたが。


台湾が米機動部隊の空襲を受けて燃えあがっている最中の1944年9月22日、第六八旅団の編成改定がありました。第五十師団第六六師団から転属してきた将兵をもちいて、旅団編成を強化したものです。
これまで2個大隊編成だった歩兵第126連隊に第三大隊が新設され、旅団砲兵隊も第二大隊が新たに誕生しました。砲兵隊はこれで6個中隊(野砲1中、十榴5中)の編成となりましたが、移動のための牽引手段は相変わらず不足している状態でした。このことが後の苦戦の一因となります。

第六八旅団の編成上での欠点としては、全くといって良いほど機動力を持っていなかったことです。海上機動兵団に割り当てられたとは言え、上陸後は陸上機動も考えられますし、他の旅団では考えられないような十榴5個中隊という重装備を持っています。ところが牽引車両は皆無に近い状態で、元々諸兵科連合教育の部隊のはずなのに、装甲車両兵力も持っていませんでした。
しかも、独立歩兵大隊ではなく、軍旗を持った歩兵連隊を中心に、他の兵科をくっ付けたような編成となっています。これでは歩兵中心の白兵戦闘を中心にしてしまうのも、無理ないところでした。



爆弾降り注ぐ中、戦備を進めていた六八旅団の上空では、在台湾の海軍航空部隊(第二航空艦隊、連合艦隊第一航空戦隊中心)が周辺の機動部隊へと反撃に出撃していきました。
マリアナ海戦の痛手から何とか立ち直りつつあった海軍航空隊は、大損害と引き換えに米機動部隊の主力を撃滅するという大戦果を挙げます。台湾沖航空戦と呼称されるこの戦いの結果、ルソン島まで敵を引き付けて持久決戦の予定だったものが、レイテまで戦線を推進しての大決戦を行ない、一気に連合軍を撃破する方針に切り替えられることになりました。
ご存知の通り、台湾沖航空戦の大戦果は大誤報であり、日本陸軍は強大な連合軍に対しての正面からの決戦という、最悪の方針を打ち出すことになったのです。

この時期に海上機動を実施する予定だった兵力として、第六八旅団の他に第一師団がありました。上海に集結していた第一師団は、かき集めた優秀船に乗り込み、一路フィリピンに向かっていましたが、台湾に滞在していた第六八旅団を輸送するための船舶は、未だ準備されていない状態でした。
当初、第六八旅団の輸送には、第二遊撃部隊(司令官志摩清英中将、重巡2、軽巡1、駆逐艦4基幹)を投入する予定でした。台湾沖航空戦の呼応して日本本土を出撃した第二遊撃部隊は、南西諸島方面で大打撃を受けた米機動部隊を追撃していたものです。
台湾沖航空戦の結果、レイテへの陸上戦力輸送に参加して、決戦部隊を輸送する手筈となっていましたが、台湾に入港した際に、連合艦隊の捷号作戦の作戦兵力として参加するように任務が変更されました。

これは連合艦隊の全力を投入する捷号作戦に一隻でも多くの艦艇を参加させるためと、輸送予定の第六八旅団の為に、別の輸送戦力が手配できそうになったからでした。旅団を輸送するための船舶として、新鋭の輸送艦・機動艇を集中投入することになったのです。
それらの艦艇は、上陸作戦用に建造された新鋭艦達で、第一輸送戦隊に統括指揮をさせることになりました(陸軍の第二機動輸送隊も第一輸送戦隊の指揮下に入りました)。
ところが、これらの輸送船舶は集結や実戦配備にしばらく時間がかかり、既に作戦行動を行なっていた艦は、レイテ方面に細切れになって投入されてしまいました。結果として、第六八旅団の輸送はずるずると遅れていくことになります。





3.レイテへの突入と旅団の終焉

1944年10月20日、マッカーサー元帥率いる米軍4個師団がレイテ東岸に一気に上陸してきました。レイテ東岸にいた日本軍は第十六師団で、事前にそれなりに堅牢な陣地を構築していましたが、圧倒的な米軍の機械化力の前に突き崩されていきました。
在フィリピンの航空部隊もありったけの航空機をレイテに投入し、海軍も連合艦隊主力を持って一大決戦に臨みましたが、それらの全てを合わせたよりも遥かに強大な連合軍の戦力の前に、じりじりと消耗していくことになります。

レイテ決戦が始まると、海上機動兵団に指定されていた第六八旅団もレイテへの投入が下令されました。その作戦方針はレイテに上陸した連合軍の後方への逆上陸でした。具体的にはドラグ地区(レイテ東岸の飛行場群がある地区)への強行上陸を、レイテ戦を指揮する第三五軍は考えていました。
もっとも、第三五軍の上位組織の第十四方面軍は、レイテ決戦に否定的でした。それまでルソン島での決戦を行なうつもりで、作戦を練ってきていたのです(準備が進んでいるとは言い難い状態でしたが)。
台湾沖航空戦の結果、南方軍や大本営が急にレイテ決戦を呼号し始めたのを見て、戸惑いと憤懣を隠すことが出来ませんでした。第十四方面軍は当初の方針(ルソン決戦)に固執し、レイテ沖海戦が終了するまで、なかなか動こうとしませんでした。

結局、第六八旅団がようやくレイテ進出準備を開始したのは10月30日で、レイテの戦局は既に大きく動いた後でした。
戦車と艦載機を前面に押し出し、艦砲や重砲のつるべ撃ちで、レイテの海岸線を守っていた第十六師団を粉砕した米軍は、早くも21日にはレイテ東部のタクロバン市を制圧しました。
24日には歩兵第33連隊が最後の突撃を敢行して全滅し、守備地のパロ市も陥落しており、25日には、海岸線から内陸20キロにあるブラウエン市を米軍が制圧し、周辺にある飛行場群も28日までに米軍の手に陥ちました。
10月末までに第十六師団は、2個歩兵連隊司令部を失い、火砲も僅かな数を残して全滅、兵員も傷ついた1万人程度まで減少したようです。しかも師団司令部があったタクロバン市から急遽後退した際に、固定通信設備の一切を失い、軍司令部を始め、揮下各部隊との指揮連絡も取れない状況に追い込まれていました。
11月上旬に師団が掌握した戦力は、歩兵第9連隊を中心とした約3000名、その大半は重装備を失って弾薬も欠乏した状態でした。


こうして連合軍に先手を打たれてしまった10月29日に、第三五軍はレイテ島での決戦作戦である「タクロバン会戦」を打ち立てます。これはレイテ島に増援として投入されてくる兵力を結集し、占領されたレイテ東北岸のタクロバンに突入奪回、そのまま南下してレイテ島を奪い返そうというものです。
先鋒は第百二師団がレイテ北岸と突進し、その後方から決戦兵力として第一師団が続き、中央からは第二六師団が支攻勢部隊として前進し、南部地域は第十六師団の残存兵力と、第三〇師団で連合軍を阻止するというものでした。この作戦に第六八旅団も組み込まれており、任務はレイテ北岸(カリガラ東方)に上陸し、付近を制圧して第一、百二師団の突進を援護するというものでした。

しかし、10月末までに第三五軍への増援としてレイテ島に到着していたのは、第百二師団に所属している独立歩兵第169、171大隊と、独立混成第五五旅団独立歩兵第364大隊の半分、セブ島にいた補充兵を仮編成した天兵大隊第三〇師団歩兵第41連隊独立速射砲第20大隊のみでした。
これらの部隊は、決戦先遣隊としてレイテ北部のタクロバン平原への前進が命じられ、11月1日頃から後続の第一師団の上陸が開始され始めました。しかし、軍司令部が考えていたより米軍の進撃は急で、タクロバンに向かう途中のカリガラ平野での会敵が予想されるようになり、作戦は「タクロバン会戦」から「カリガラ会戦」へと後退縮小することになります。
しかもその「カリガラ会戦」に向けて第一師団が進撃を開始した直後に、カリガラ地区に前進していた先遣隊(歩兵第41連隊基幹)は米第二四師団、第一騎兵師団に補足されて壊走し、カリガラへ抜けるリモン峠が米軍の制圧化に落ちました。このため、第一師団はリモン峠の奪取・北部海岸への突破のために死闘を繰り広げることになります。


こうして、第一師団がリモン峠で激戦を繰り広げている頃、第三五軍は方面軍より新たな作戦命令を受けました。連合軍に占領されて、次々と航空隊が進出し始めているブラウエン飛行場の奪回、「ブラウエン作戦」です(9日下令)。既にリモン峠で圧倒的な連合軍相手に支えるのがやっとの状況で、手持ちの戦力も残り少ない状況でしたが、命令とあればやるしかありません。

空挺部隊の降下にあわせて、第十六師団の残存兵力と、第二六師団を用いてブラウエン飛行場を奪還することになりました。しかし、第二六師団はレイテ島上陸時に大空襲に遭い、重装備の全てを失っていました。
このブラウエン作戦は「和号作戦」と呼ばれ(第四航空軍「テ号作戦」と呼称、空挺隊は「義号作戦と呼称していました)、作戦実施は12月1日より開始されています。計画では12月5日に飛行場に突入・空挺降下を行なうことになっており、米軍の基地航空兵力は大きく減殺されます。そして、連合軍の航空戦力が大きく低下した瞬間を見計らって、レイテ島に増援部隊を送り込むことになっていました。
この増援兵力に当てられていたのが、第六八旅団です。



時間軸を少し戻して、第六八旅団の輸送作戦の話に戻ります。台湾に滞在していた旅団は、陸海軍から集めた輸送艦・機動艇に乗り込んで、レイテ島に向かうことになりました。
10月30日から、三々五々集まってきた輸送艦艇達に旅団は随時乗り込んで、ルソン島のマニラに出立していきました。合計5派に分かれての機動でしたが、制空権を失ったこの時期に、上空援護のない輸送船団が無傷でマニラまで到達できるのは、よほど運が良くないと無理でした。案の定、艦載機の空襲に次々と遭うことになります。

海軍の輸送艦に乗り込んだ第一次輸送隊は、輸送艦4隻(第111号、139号、140号、160号)に分乗していましたが、途中で潜水艦や艦載機の襲撃を受け、139号が撃沈されて、111号、140号も被害を受けました。乗員にも被害が出ましたが、なんとかマニラに辿り付いています。

第二次輸送隊も同じく海軍輸送艦(第112号、141号)によって輸送されることになりましたが、これらも途中で空襲に遭い、ルソン西岸に座礁してしまったようです。

第三次、四次、五次輸送隊は三、四が陸軍機動艇、五が海軍輸送艦で実施の予定でしたが、陸軍の機動艇は集結が間に合わず、海軍の輸送艦は機関故障や、整備不良の為に作戦に投入できず、一旦中止となりました。

結局、高雄に集結が終了した11月10日に、陸軍機動艇(SS5、6、8、10、11、12号)に分乗してマニラを目指しましたが、ルソン島西岸を航行中にやはり艦載機の空襲に遭い、SS8号艇が轟沈、連隊本部が乗っていた為、連隊長も軍旗も海に投げ出されることになりました(無事に回収されています)。空襲を回避するためにマニラ到着は大幅に遅れ、11月23日にようやくマニラに旅団主力が集結できました。途中の空襲でも少なくない損害を出しており、早くも旅団は戦力を消耗してしまいました。


マニラに到着した第六八旅団は、そのままレイテに投入されるための船舶の準備に入りました。しかし、この時期、レイテに向かう船団は第一、第二六師団の残置部隊と軍需物資の輸送に全力を挙げており、旅団を輸送するための船舶は捻出できない状況でした。
そうした中、モマ〇七船団がマニラに野砲を搭載して入港します。これは門司−マニラ間の軍需物資輸送を行った陸軍徴用船の船団でしたが、この船団に所属していた船舶を用いて、六八旅団のレイテ輸送をしようという話が持ち上がりました。旅団は船団に所属していた赤城山丸、白馬丸、日洋丸、第五眞盛丸、第十一輸送艦に分乗してレイテのオルモックを目指すことになったのです。この船団がマニラに入港したのが11月30日で、既に和号作戦の開始まで幾許もありませんでした。

旅団の輸送は、第八次多号作戦と呼称され、レイテ島南岸にある日本軍の揚陸地、オルモック港を目指すことになりました。オルモックには第三五軍の司令部や後方部隊が展開しており、リモン峠方面、ブラウエン方面、南方のダムラン方面に対する補給拠点として利用されていました。
護衛艦艇5隻(駆逐艦梅、桃、杉、駆潜艇十八号、三八号)に護衛された船団は、12月5日正午前にマニラを出航、予定では7日の夕刻にオルモックに入港することになっていました。

船団がルソン島西岸の多島海を航行していた突入予定の7日、情勢に大きな変化が生じます。揚陸地点であったオルモック付近のイピルに米第七七師団が強襲上陸を実施したのです。
在オルモックの日本軍は狼狽しつつも応戦を開始しましたが、戦闘部隊の大半を前線に送り出して後方部隊しかいなかったオルモックは、たちまちのうちに米軍の制圧化に置かれることになりました(10日)。このため、在レイテ島の日本軍は組織的な防衛線が寸断され、以後、消耗しながらレイテ西岸に後退する以外の作戦が取れなくなりました。

この報を受けた多号第八次船団は、連合軍の護衛艦艇が群を為しているオルモック湾への突入を断念し、レイテ西岸のサンイシドロに上陸地点を変更しました。
7日10時にサンイシドロ北西方まできた輸送船団は、とうとう連合軍の空襲に遭遇します。オルモックを落とし、一気にレイテ戦にケリをつけて、ルソン島の攻略に向かいたい連合軍としては、レイテ島に新鋭兵団など上陸させるわけにはいかなかったのです。

船団司令はサンイシドロに強行擱座上陸を指示し、護衛艦艇を率いて必死の防空戦を実施しました。上空には海軍航空隊がなけなしの戦力を割いて投入した、直援機25機(3派に分かれていたので、常時上空にいたのは10機弱の零戦と紫電)が空襲を阻止しようとしましたが、数十機の米軍機に群がられて任務を果たすことができませんでした。
正午前後には、輸送船は次々と被爆擱座し、護衛の駆逐艦3隻の損傷してしまいました(3隻ともなんとか帰還しています)。

輸送船に乗っていた旅団兵員は、乗艦が次々と炎につつまれた為、已む無く搭載舟艇や泳いでレイテ島に上陸します。装備の相当数をこの上陸の際に失いましたが、元々定数外の装備の多かった旅団です。空襲が終わった後に擱座した輸送船からの物資揚陸も実施され、ある程度の物資の揚陸には成功しました。よく言われる、重装備を全て失い着のみ着のままで上陸したということはありません。上陸時の損害では、先にオルモックに上陸した第二六師団のほうが、遥かに装備面では損害を受けていました。



上陸した第六八旅団の装備は、十榴3門、野砲1門、連隊砲2門、大隊砲以下火器の相当数を上陸に成功しています。弾薬もかなりの量を海没してしまいましたが、半分くらいは残っていたようです。上陸時の人員消耗は約350名、他に撃沈された輸送船の乗員も旅団と行動を共にしました。

上陸作業が一段落ついた12月9日、旅団はいよいよ戦闘活動を開始します。上陸したサンイシドロの東には第一師団が苦闘しているリモン峠があります。そこに援軍として向かうことにしたのです。
しかし、この際に大きな問題が発生します。牽引車量を装備していなかった旅団は、重砲の運搬が出来ず、折角揚陸した十榴をサンイシドロに残置しなければいけなかったのです。もっとも榴弾砲の弾薬は、揚陸時にほとんど失っていたという話もあり、のちにサンイシドロで戦闘が起こった際もほとんど活動していないことから、苦労して運んでも、どれだけ役に立ったか疑問な点はありますが。

リモン峠への前進開始は実は旅団の独断でした。上陸後、なんとか第三五軍司令部との連絡をとろうとしましたが、どうしても通信が通じず、已む無く第十四方面軍司令部に任務を打電して行動を開始しています。後に軍からも追認を受け、第四航空軍の軍偵から投下した通信筒により、命令が改めて下達されています。

サンイシドロに上陸した旅団が最初の目標としたのは、東方約10キロのカルビアンです。しかしここには連隊規模の米軍が展開していた上、長射程の重砲も配備されており、前進した旅団はたちまちのうちに、重砲の射撃に射すくめられてしまいました。
なんとか、カルビアン南方を突破した旅団はそのまま、レイテ島北岸のナガ河に沿って前進しましたが、旅団の前進はすぐに停滞することになりました。前進路上に想像もしていなかった大湿地帯が出現したのです。
上空には常に米軍機が在空し、ゲリラや既に進出していた米軍の砲撃は間断なく続き、夜間行動を強制されることになりました。その結果、行軍は遅々として進まず、その間にオルモックは陥ち、第一師団は戦闘を継続できなくなって後退を開始しました。旅団も米軍の新手が次々と進路上を遮るようになり、遭遇戦の形で激戦に身を投じることになります。

12月25日頃、撤退を続けていた第一師団とようやく連絡をつけることに成功した第六八旅団は、第一師団を収容しつつ、12月末にレイテ西岸(サンイシドロ南方)のビリアバに集結しました。
ビリアバはレイテ西岸の比較的大きな町で、西方に高地がありました。ここが両軍の争奪の焦点となっています。米軍は既にこの高地を占領しており(米第七七師団、第一騎兵師団の一部)、少し遅れて到着した第六八旅団との激戦となりました。旅団はここまで苦労して運んできた連隊砲・大隊砲を中心に砲撃と白兵で戦闘を実施し、ビリアバの攻略を目指します。この戦闘は1945年の4月頃まで続くことになりました。

一方、サンイシドロに残留した旅団人員はその後、悲惨な状況に陥ります。サンイシドロはレイテ西岸に後退した第三五軍の船舶輸送拠点として利用する予定となっており、沈没した輸送船の乗員も含めてかなりの残留人員が滞在していましたが、12月27日頃、中隊規模の米軍の攻撃を受けます。ほとんど戦闘力のなかった同地滞在人員は已む無く撤退を開始し、ゲリラや飢えに苦しんで相当数の人員を失いながらも、生き残りはビリアバの旅団主力と合流することができました。

ビリアバに展開していた米軍は第164連隊戦闘団で、1個大隊程度の兵力を常駐させて守備についていました。M7自走砲や弾着観測のヘリまでもった重装備の部隊で、軽砲・歩兵火器中心の第六八旅団と互角以上に闘っています。
旅団は乏しい弾薬と兵員で、五分の渡り合いを演じていましたが、2月中旬に米軍の増援が到着し、一気に攻勢をかけてきたことで情勢は変化します。3月1日頃から始まった米軍の包囲攻撃を、旅団は何とか撃退することが出来ましたが(6日頃まで)、多くの人員と装備の過半を失うことになりました。
結局、旅団はこれ以上の戦闘が継続できずに、後退を開始することになります(3月中旬)。ビリアバ東方台地に後退した旅団は、他の部隊との連絡を図りつつ、自戦自活の準備をすることになりました。この時期既にルソン島で激戦が展開されており、レイテ島で戦闘を続けていた米軍の大半は、他の戦域に転進していたのです。結果として、米軍の戦力も大きく低下することになり、残存日本軍も一息つけるようになりました。

3月1日付で歩兵第126連隊の連隊長沖大佐は少将に昇進し、第三五軍司令部付に転属しました。その後の二代目連隊長として金田大佐が就任しました。金田大佐は、レイテ西岸の集結地、カンキポット山で後退してくる遊兵を収容し、臨時大隊の編成にあたっていたものです。沖少将は、指揮系統がズタズタになった第二六師団の師団長代理として、この師団の最後を率いることになります。

この頃からゲリラの積極攻撃を受けるようになり、旅団の残存人員は櫛の歯が抜けるように減少していきます。
特に4月下旬には、各歩兵大隊がゲリラの襲撃を受けて、大打撃を受けました。食料弾薬も欠乏し、旅団としての戦闘力は発揮できないようになります。大隊長級の上級指揮官の戦死も相次ぎ、5月下旬には旅団としての組織的行動はほぼ不可能となり、小グループに分かれての自活の道を探ることとなりました。


この後のレイテの戦場は掃討戦となり、7月20日頃には旅団の消息は完全に途絶えることになります。1945年のレイテ戦は極めて生還者が少ない為、断片的な情報しかありませんが、6月頃には旅団は組織が崩壊し、兵士達は遊兵となってレイテ西岸地区をさ迷って消えていったようです。
1945年8月15日の終戦の後、旅団の兵員は米軍に収容されましたが、旅団の生還者は10名いるかいないかというものでした。
こうして、幸少ない旅団は誰にも見取られず、ひっそりと消えていきましたが、戦後(1950年頃)にもレイテでは日本兵のゲリラがあちこちで生き残っていました。その中に少将クラスを長とした戦意旺盛なゲリラがいたと地元紙は報じています。この当時のレイテ西岸にいた少将級の将官で、最後が分からない数少ない人物が、旅団長の来栖少将です。今でも、このゲリラ部隊の指揮官は旅団長だという説が有力です。




後書き
これまで書いてきた旅団戦記で、初めて決戦場に投入された兵団を書きました。これまでは旅団の動きだけ追いかけていればよかったのですが、今回は、大本営・南方軍・第十四方面軍・第三五軍と、上位組織の考えや動きも重要となり、結果としてまとまりのないレポートになってしまったのが悔やまれます。
旅団自体の生還者は100名単位でいるのですが、実際レイテ戦に参加した生還者は数えるほどです。地号作戦で撤退することに成功した第一師団以外は、レイテ戦に投入された兵団は全滅していますが、特に六八旅団については、証言が少なくまとめるのに苦労しました。
フィリピンに投入された独立混成旅団は多数ありますが、これで4つ目でしょうか。師団に改編された30番台の旅団もそのうちにまとめることが出来ればと思います。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」日米戦の天王山(太平洋戦争証言シリーズ4)/潮書房/1981
  • 「日本陸軍部隊総覧」/新人物往来社/1998
  • 「戦史叢書 陸軍捷号作戦(1)」/朝雲新聞社/1970
  • 「戦史叢書 陸軍捷号作戦(2)」/朝雲新聞社/1972
  • 「旅団クラス独立部隊総ざらい」/高市近雄/1986
  • 「陸軍公主嶺学校と星兵団」/星兵団戦友会/1980


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